第3章 持たざる者は持てる者


救いの御子はまた群衆にも仰せになった。

あなた方は雲が西に出るのを見ると、すかさず「雨になる」と言う。果たしてその通りになる。

また南風が吹くと「暑くなる」と言う。果たしてその通りになる。

偽善者達、あなた方は大地や空の模様を見分ける事を知っていながら、どうして今の時代を見分ける事を知らないのか。

どうしてあなた方は、何が正しいかを自分で見極めないのか。

あなた方を訴える人と一緒に役人の前に行く時には、途中でその人と和解する様に努めなさい。

そうしないと、その人はあなたを裁判官の前に連れて行き、裁判官はあなたを看守に引渡し、看守はあなたを獄に投げ入れる。

私は言っておく。最後の一レプトンを支払うまで、あなたはそこから出る事はできない。


【ルカによる福音書 第12章】






夏は嫌いだ。

憎たらしいぐらい晴れ渡ったどこまでも続く青の深淵を見るともなしに見上げながら肺の底から一つ息を吐き出した。微かな苛立ちと焦燥を覚えながら。

実際、自分は夏が好きではなかった。夏は生に溢れる季節だと、人は言う。……果たしてそうだろうか?

青の深淵から視線の先を足元へと移せば、今まさに命の灯を吹き消した蝉に群がるおびただしい蟻の群れが目に止まる。その少し奥では土から這い出て、そのまま干からびて死んだケラの死骸が転がっていた。

冬は死の季節だ、と人は言う。確かにその通りだ。一点の青もない重く立ち込めた鉛色の空、痛いぐらい張り詰めた空気によって瞬間で凍る吐き出したばかりの白い息ー……自分と世界と、恥ずかしげもなくあからさまな命のやり取りが冬という季節にはある。だが、それは真逆の夏も同じなのではないか、柄にもなくそんな事を考えちまう。ごく、稀に。らしくもないのに。


『ふふっ……この下にね、埋めたんだ』


『……埋めた?何をだ?』


『領主の父親と母親とその家の跡取りの幼い息子、三人の姉妹とー……ん?三人じゃなくて四人だったか?まあ、いい。埋めたのさ。何故って?奴らは我々の同志ではないからだ。奴らはゴミだ!害虫だ!蛆虫だ!集積された富という肉に群がり食い破る醜く肥えた蛆虫だからだッ!!』


「……っとに……らしくもねえ」


かぶりを振っていつか聞いた少年兵の言葉を打ち消した。真夏の日中立ち上る陽炎のようにゆらゆらと揺れる不快な記憶が脳の奥で残響する。

止めよう、らしくない。この酷暑にやられたんだ、そうに違いない。早く”家”に帰って寝てしまおう。寝ればこの気持ち悪い記憶も言葉も再び引っ込んでくれるだろう。オサラバできる。

俺が広場の黒山の人だかりに気付いたのはそんな時で、その中心にいるのが知らない人間でも友人でもない中間にいる奴だという事に気付いたのはその次で……周囲に充ちる涼やかな鈴の音と湧き上がった無数の拍手と踊り手を湛える喝采が不快な記憶を消してくれていたことに気付いたのはー……ずいぶん後になってからだった。






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「しっかしそんなに美味しかったかね、あの豆」


「……えっ、えっと……実は今日は……お水以外はほとんど口にしてなくてー……」


部屋の中を縦横無尽にひっきりなしに飛び交う木の皿とフォークを金属の盆で叩き落とす。目の前で俯いてしまった女を向かいに座り見下ろし今日何度目になるか分からない息を肺から絞り出して吐き出した。

そんなこったろうと思ったと後ろ手を使って頭を強く掻き、女の前に自分の手元に置かれた皿を空いている手を使い押し出しながら。

「えっ」と短く、ほぼ反射的に出されたであろう言葉を尻目に今度は皿を持ち上げて女の鼻っ面へと突きつけて。


「食え。じゃねーと見てるこっちの方が不安になる。ただでさえあんた細過ぎて今にも折れちまいそうな体してるってのに」


「い、いえ!いただけません……!わ、私の分は食べましたし、それにその、それはあなたのものです、し……」


「俺は外で食ってきたからあんたに心配される筋合いはねえの。食っとけよ。まあ、これからは嫌でもここの食事を食べる事になると思うけどよ。……うまいぞ、リザさんの焼いたパン」


また自分目掛けて飛来してきたコップを盆で打ち返して、仕返しにコップを投げ付けてきやがった野郎に盆を投げて返す。しゃ!!顎に当たった!!

……今この女に話した事に嘘はびた一文も含まれちゃいない。事実、この女の体躯は細いし、俺は今日外で物を食べてきている。そして、リザさんの作るライ麦パンはうまい。特に焼き立ては。


「まあ、ここじゃオチオチ味わう事も出来ねえけど。ご覧の通りここじゃ年がら年中乱痴気騒ぎしてー……ん?何してるんだ、あんた」


「……はい!こうすれば二人で食べられますよね?確かに私のお腹にはまだ、その……少しは入りますけどこんなに沢山は、入りません、から」


自分が投擲した盆の行方に一喜し小さく拳を握り向き直れば、視界の端に小さな白い手が映る。その先にある皿と白い手の主の交互に見つめ目蓋と瞬膜をパチリ、と開閉すれば、そんな俺の見つめ女は僅かに双眸を緩め唇を綻ばせた。

「食事は一人で食べるよりも二人で食べる方が美味しいんです。知っていましたか?」と、俺に告げて。

あれだけ喧しく、そして近かった雑踏がほんの少しだけ遠くなった、そんな気がした。……しただけ、だろうけれど。


「わ、私、おかしな事、言いましたか?……きゃあっ!」


パァンッ!と一つ柏手が奏でる乾いた音が響く。俺が打った手の音だ。緩めたばかりの瞳を大きく見開き、綻ばせたばかりの唇から悲鳴を溢す女の姿に自然と口角が釣り上がり弧を描いた。


「何驚いてんだ、食べるんだろ?……一緒に」


皿が飛ぶ、フォークが飛ぶ。泥酔した馬鹿が鍋をスプーンで激しく叩き、どこかで床がぶち抜けた音がする。乱痴気騒ぎのどんちゃん騒ぎは変わらねえのにいつもとは違う気持ちで食事を摂る自分が確かに、いた。


「なあ、そう言えばあんたの名前は?」






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「ルーベラ、いるか?入るぞ」


「天青か、どうした」


カンテラの中の灯りがドアの開閉で動いた空気の流れに撫でられ微かに伸び、そして次の瞬間には縮んでいく。デカい図体を寝台に沈めながら何かの書類を読んでいる男の名を呼んでズカズカと大股で歩を進め、男の前で歩みを止めた。動く空気でハラリ、と数枚平積みにされた紙が舞った。……しかし、数日前まで高熱出して唸ってたくせにタフだな、このおっさんは。

「数日ギルドの仕事を休んでいいか?ちと行きたいところがあんだよ」


「構わんが、里帰りでもするのか?」


「まあ、そんなもんだよ半分くらいは。ちょっと会って話を聞きたい同郷の奴がいるんでな。あいつなら知ってる、そんな気がするんだ」


「何を?」


「今回の一連の騒動の裏にある何か、だ」


脳裏にいけ好かない男の黒い蝶の羽根が過ぎる。出来れば二度と見たくねえと思っていた男の鉄面皮と共に。


「確信はない。これは勘だ。公に発表されている事が真実ならまだいいんだがー……」


「”目に映るものだけが真実ではない”か。まあ、そうだな。人は自分が信じたいものだけを信じるもんだ」


「そーいう事。厄介なもんだな、時代の流れってやつは。空模様みたいに雲の動き見て分かればいいんだけどそうもいかねえ。……明朝に出るが、留守の間頼む。ここがなくなっちまったら帰る場所がなくなっちまう。ここは俺の……”家”で”帰る場所”だ」


光が伸びる、縮む。開け放たれた窓から吹き込む生ぬるい夜半の風が書類をまた一枚、攫って行った。


《天青》
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