第3章 持たざる者は持てる者

では、どうなのですか?私達は律法の下にあるのではなく、悪の下にあるのだから罪を犯そう、と、いう事になるのでしょうか?

決してそうではありません。

あなた方は知らないのですか、服従する為に自分を奴隷として奉げるなら、その服従する者の奴隷となる、即ち、死に至る罪の奴隷となるか、あるいは、救いの義に至る従順の奴隷になるか、どちらかです。

しかし、神に感謝します。あなた方は、かつて罪の奴隷でしたが、規範としての教えに委ねられ、それに心から従う者となり、罪から解放され、救いの義の奴隷とされました。

この事はあなた方の人間としての弱さ故に理解し難い事ですから、私は人間的な言い方をしているのです。

あなた方は、かつて自分の五体を奴隷として汚れと不法に奉げ、神の法に背く者になったと同じ様に、今は自分の五体を奴隷として救いの義に奉げ、聖なるものとなりなさい。

あなた方は罪の奴隷であった時、救いの義に対しては自由の身でした。今あなたが恥じているような振る舞いから、その時、どんな実りを得ましたか。

そのような振る舞いの行き着く先は死なのです。

しかし、今や罪から解放され、神の奴隷となっているあなた方は聖なるものの為の実りを得ています。

その行き着く先は永遠の命です。

罪が支払う報酬は死であり、神の恵みの賜物は、私達の主との一致による永遠の命なのです。


【ローマの人々への手紙 第6章】






深い闇が私を包んでいた。冷たく凍えるような闇ではなく夜の眠りの闇が私を包んでくれている。眠りを約束しそして見守る、優しい宵闇のヴェールが。

優しい影の国に一つ、一つと粒子が灯る。うつらうつらと櫂を漕ぐ私の周りのあちらこちらで。光ではない、音の灯火が灯った。今でも大好きな兄様が奏でる異国の風変りな楽器の不思議な音色ー……輝きうつろう暖かでどこか寂しい音。……兄様そのものの様な、音。

兄様……兄様。そう名を呼び兄様の後ろをついて歩いていた遠くない、だけど決して近くもないあの日ー……幼過ぎる私は気付く事が出来なかったけれど、今なら分かるんです。

私は兄様に守られていたんだ、って。

兄様が矢面に立ち続けて下さっていたからこそ私は無垢な子供のままでいられました。

家がどんな位置にあるかも知らず、ただ庇護されるだけでいられた。兄様が全ての重圧を背負っていてくれたからこそ私は何も知らないままでいる事が出来たんです。

儚い眠りの迷宮が崩れ落ちて行く。私が僕と重なっていく。歩き続ける私の、僕の前から、後ろから。入り口も出口もない……どこから迷い込んだかも分からない迷宮が。

そして、辿り着くのはまた別の迷宮でー……さあ、起きなければ今日に置いてかれてしまわぬ様に。起きて、ウィリアム。じゃあね、ヴィクトリア。






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「なんで今日の稽古の相手があんたなのさ」


「それは僕の台詞だよ。はあ……カタリア隊長も自分は軍議だからって余計な世話を押し付けるんだから」


「余計だと!?」


空はどこまでも高く、そして蒼く、風が庭に植えられた合歓の木の花弁と芳香を巻き上げた。庭に響く剣撃の音と共に蒼穹へと返していく。

輝く波の様に何度も何度も打ち寄せる音の波動。打ち結ぶたびに震える音が煩わしく鼓膜を揺すった。

刹那屈伸し一気に柔らかな土を蹴り上げた。目の前にいるいけ好かない女騎士の鼻を今度こそあかしてやりたい、その一心を剣先に込めて突きを繰り出す。女のよく日に焼けた健康的な肌が、女が持つ鞘から抜かれないままの赤いレイピアが逆光の中微かに煌めいていた。

もらった……!

手応えと共に放物線を描き軛に引かれて落ちて行く剣に自身の瞳が大きく縦に裂けた。


「これでおしまい、っと。さっきも言っただろ?踏み込み過ぎ」


首筋に宛がわれた鞘に入ったままの細剣から伝わるひんやりとした感覚が体の中に籠った熱を散らしていく。


「バァン!」

額に当てられた指鉄砲とどこか間の抜ける言葉と、にんまりとした笑みを浮かべるヴァージニアを僕は地面に尻餅をついた状態で呆けながら見上げていた。……また負けたっ!!


「うーーー!!何で勝てないんだ!!いい線いったと思ったのに!!」


「踏み込み過ぎなんだよ。確かに一歩あえて踏み込んで相手の懐に飛び込む事で剣の勢いを殺す技法はあるけど、毎回毎回それが最良の結果を生むとは限らない」


乾いた土の上に寝転がり大の字になりながら仰いだ空はどこまでも高く、どこまでも蒼くて、蒼穹の深淵をこれ以上見たくなくて見ないで済む様にと目深に帽子を引き摺り下ろした。去来し残響する言葉に唇を強く噛み締めて。


『最善だと思ってとった行動が最良の結果に繋がるとは限らない』


煩い、うるさい……!何もかも押し付けていなくなったあんたなんて嫌いだ!!キライ!大っっ嫌い!!!


「”ウィリアム”?」


瞬間、瞳を解放した。立ち止まり俯く心を鼓舞し前に向かせながら。


「ウィリアム……ウィル……うん、そうだね。そうだったね」


不可視の何かに呟く様に名を紡ぎ反動をつけて上体を起こし立ち上がった。

ウィリアム。とある国を治めた強くて偉大な王の名前。……それが僕に与えられた名前で、僕だから。


「……っと、こんな時間か。一度ぼこぼこにしてやりたかったけど今日は勘弁してあげるよ」


「このガキんちょ……よく言うよ。何か用でもあるのか?」


「ちょっと、ね。あいさつ回り。ほら、僕、嫡男だから。……ねえ、今度はいつ来れる?別にヴァージニアじゃなくてカタリナでもいいんだけど」


「それは……」


ああ……だから夏は嫌いなんだ。干からびたミミズの死骸を木から落ちた蝉の死骸を蒼の深淵から降り注ぐ光が焼いていた。

夏が生に溢れる季節なんて、嘘っぱちだ。






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『……僕もカタリナ隊長もしばらくはここに来ることができなくなる、と思う』


『なんで……!?そりゃあ、二人が騎士団に所属している事は僕だって知ってー……』


『僻地へ飛ばされる事になった。僻地とは言え重要な拠点だ。赤い旗の連中からその街を奪還せよって命令が僕らの隊に下ったんだよ』


『……戦争しに行くの?人殺しに?カタリナも、ヴァージニア、も?』


整備された石畳の通りを馬車が往く。轍の一つどころか枯れ葉一つない手入れが行き届いた道を。大規模な暴動があった事は知っている。だけどー……

平和を具現化したような穏やかな昼下がりの通りを馬車の中から見つめながらゆるりと目蓋の緞帳を降ろした。従者が僕を窘める声が右から左へと耳を素通りしていく。


「……そう何度も言わなくても分かってるよ」


シンメトリーに作られた鉄の扉が開いて行く。


「この家の当主は狂気に取りつかれている、ね」


話半分に聞いていた従者の言葉を反芻して窓から体を離した。噂がどうだろうとここの当主が貴族である事には変わりない。


「父上の名代として来たんだ。家名を貶め辱めるような事はしないよ。……僕は家の名を、継ぐ者だから」


≪ウィリアム≫
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