第3章 持たざる者は持てる者


また、私を信じるこの小さな者の一人を躓かせる人は、その首にろばの碾き臼をはめられ、海に投げ入れられる方がましである。

もし、一方の手があなたを躓かせるなら、それを切り取りなさい。

片手で命に入る方が、両手が揃ったままで地獄の消える事のない火の中に落ちるよりはましである。

また、もし足があなたを躓かせるなら、それを切り捨てなさい。片方の足で命に入る方が両足が揃ったままで地獄に投げ入れられるよりはましである。

また、もし目があなたを躓かせるなら、それを抜き取りなさい。片方の目で神の国に入る方が両方の目が揃ったままで地獄の中に投げ入れられるよりはましである。

地獄には蛆が尽きず、火も消える事もない。

人はみな火という塩によって清められる。

塩は善いものである。しかし、塩がその塩味を失ったら、何を持って塩気を取り戻させようか。

あなた方自身のうちに塩を持ち、互いに平和を保ちなさい。

【マルコによる福音書 第9章】






「なあ~アマダス~これなんて書いてあるんだ~?」


「ん?ああ?てめえ、また勝手に人の蔵書を……」


「いいからいいから!でっ、なんて書いてあるんだ?」


暮れ霞む夕凪の光が一条、闇が一条、するりと窓から音もなく入り込む。パタパタと不可視の風の腕に抱かれ揺れる古びたカーテンが外の世界とここを隔てていた。

背中越しに聞えて来た聞き覚えがあり過ぎる声に帳簿を走らせる手の動きを止め振り返れば、予想した顔が一つ、何が面白いのかは分からないが無駄に輝く対の瞳で俺を見上げていた。


「仕方ないだろー俺文字読めないし書けないからなッ!!」


「自慢することじゃねえな。……って引っ付くな、暑苦しい」


いつの間にか膝の上によじ登りいい位置にすぽりと収まってしまった小さな存在に、そいつの頭上で一つ深く長い息を吐き出した。こいつももうすぐ6になる。いい加減、そろそろ読み書きを教え込まないとならねえな、と、心底思いながら。


「『……私は艱難(かんなん)を受ける事を誇る。艱難は根気と忍耐を生んでくれるからだ。根気は徳をよく鍛錬し、鍛錬を受けた徳は希望を生む。この希望は私達を決して欺く事がない』」


「すげー!!意味分かんねーけど!!」


「だろうな。てめえにはまだ早過ぎる言葉だ」


膝の上でバタバタと忙しなく足を動かし暴れるガキの手の中から空で暗唱できるまで繰り返し読み込んだ本を取り上げ、それを使ってガキの頭を突いた。……このへんで切り上げとかねえと際限なくせがまれ続けると自分は経験として知っている。


「辛い事に耐える人間を神や天使は見捨てない、程度にでも思っておけ」


「ふーん……辛い思いをしないで済むならしない方がいいと思うけどなあ……でも、神様と天使様が見てくれてるなら、まっ、いっか!」


「ああ。神は厳しい罰や恐ろしい裁きを下す者ではなく慈悲深い者だからな。……さあ、お前もそろそろ支度しろ。兄弟達にまた馬鹿にされるぞ」


「げえ……!!もうそんな時間かよ!!アマダス!!俺の事置いて行ったらぜっこーだかんな!!」


ピシリ!と人差し指を一本立てそんな捨て台詞と共に背を向け走り出した小さな背を、再び吐き出した息と共に見送った。

光が弱まり夜が徐々に強く匂う。夜の間人々を包み込む闇の、柔らかなヴェールが立ち込めていた。

遠く、遠くから星祭りを彩る囃子の音が、響いていた。






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青い夜の底で光が蠢いていた。闇を打ち払う灯火ではない。夜の底で震える光だ。鎮魂の灯火が黄泉へと通じる忘却の河を行く。空に浮かぶ乳の道をそのまま映した様な川面にいくつも、いくつも星が流れていた。

震える光達が行き付く先は天の国か、罪を清めると言われてる煉獄か、はたまた地獄だろうか。……愚問だな。


「……怪我は癒した。まだ疼くか?痣は消えたが」


「す、すまない……」


幻燈の灯火が伸び縮みしていた。酷く頼りない光が女の雪花石膏を固めたような滑らかな足を夜の闇の中、浮かび上がらせていた。……艶めかしい色彩で。


「その……慣れない恰好をしていたから足首を挫いてしまって……あ、あの……」


「やはり疼くか?」


「い、いや……違うんだ……その……」


異国の薄布を身に纏った女の体が夜風の中でふるり、と小さく震える。女の頬に灯る幻燈の薄明かりだけでは説明がつかない濃い朱色に自身の唇が弧を描いた。今、空にないはずの三日月が浮かび上がる。


「……なんだ、感じてるのか」


「感じ……なっ!!」


くつり、くつり、と、かみ殺した様な笑みが漏れ出す。化粧を施した様に羞恥と怒りで頬を染めた女の細腕を掴み強く引き寄せた。女の不意を突いたからだろうか、容易く俺の腕の中に落ちた女の剥き出しの首筋に頬を寄せ、唇を寄せてー……女の乱れ髪から匂い立つ甘美な香りが劣情を刺激する。滲む夜露の様な汗によって張り付いた髪が艶めかしくも妖しく煌めいていた。


「……涙の跡を残して、おまけにこんなにも隙だらけだと襲ってくれと男に言ってる様なもんだな」


その一言に女の瞳が瞠目した。凍り付いた様に表情を固めている女をもう一度見つめ喉を鳴らし、細い肢体を解き放った。立ち上がり踵を返して。やはり、あの日ー……虐殺の豪雨の中で見た女は、聞いた声はこの女のものかという確信と共に。


「あなたは……」


「さあな。全知全能の神とやらにでも聞いてくれ。……出来るなら二度と会いたくないもんだな」


背中越しに聞える声に厭わず、振り返らず、止まらず歩を踏み出し湿った土を蹴る。

天の国でも煉獄でも地獄でもない地に向わなければ。理想を掲げて、どんな犠牲を払っても成就させる。……そう誓った。

黒煙と硫黄が降り注ぐ場所へ。旧時代を焼き尽くす焔で新たな時代を染め上げる、その為に。

歴史を神の手ではなく、人の手へ取り戻す、その為に。


私は艱難(かんなん)を受ける事を誇る。艱難は根気と忍耐を生んでくれるからだ。根気は徳をよく鍛錬し、鍛錬を受けた徳は希望を生む。この希望は私達を決して欺く事がない。


≪アマダス・メラン≫
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