第3章 持たざる者は持てる者
あなた方が世から選んで私をお与えになった人々に、私はあなたの名を現わしました。
この人々はあなたのものでしたが、あなたは彼らに私を下さいました。
彼らはあなたの言葉を守りました。あなたが私にお与えになったものは全て、あなたからのものである事を、今、彼らは知っています。
彼らはあなたの言葉を守りました。あなたが私にお与えになったものは全て、あなたからのものである事を、今、彼らは知っています。
何故なら、あなたが私にお与えになった言葉を、私が彼らに与え、そして、彼らはそれを受け入れ、私があなたの元から出て来た事を本当に知り、あなたが私をお遣わしになった事を信じたからです。
私は彼らの為にお願いします。世の為ではなく、私をお与え下さった人々の為にもお願い致します。
彼らはあなたのものだからです。私のものは全てあなたのもの、あなたのものは全て私のものです。
そして、私は彼らによって栄光を受けました。私はもはや世にはいなくなりますが、彼らは世に残り私はあなたの元に参ります。
聖なる父よ、私をお与え下さったあなたの名によって彼らを守って下さい。
彼らが私達の様に一つになる為です。
彼らと共にいた間、お与え下さったあなたの名によって私は彼らを守り、保護しました。滅びの子の他は、彼らのうち誰も滅びませんでした。
それは聖書が成就する為でした。しかし、私は今、あなたの元に参ります。
世にいる間に、これらのことを語るのは、私の喜びが彼らのうちに充ち溢れる様になる為です。
私は彼らにあなたの言葉を与えましたが、世は彼らを憎みました。
私が世に属していない様に、彼らも世に属していないからです。
私がお願いするのは、彼らを世から取り去る事ではなく、彼らを悪い者から守って下さる事です。
真理によって聖なるものとして下さい。あなたの言葉は真理です。
あなたが私をこの世にお遣わしになった様に、私も彼らを世に遣わせました。
彼らの為に、私自身をお奉げ致します。
彼らも真理によって、奉げられたものとなる為です。
【ヨハネによる福音書 第17章】
海から湧き上がる大量の水分を含んだ大気が朝の弱々しい光によって織られ水煙のヴェールへと姿を変える。霧のヴェールに包まれた港町の街並みと東の水平線から徐々に白み、乳白色の薔薇色へ変わっていく空とを窓縁から交互に一人、見つめていた。
一つ、また一つと夜を払っていたガス灯の灯火が消えて行く。ガス灯の真下には既に”今日”を始め出した人々の姿があった。
夜の間閉めきっていた窓を開け放ち、ふう……と深く息を吐き出して、吐き出したのと同じ分だけ朝を吸い込み夜と置換する。この屋敷に来てから知った色付く朝と西へ散って行く夜とを見送った。
「はうう……ご主人様申し訳ありません……私、ご主人様のご友人の方にとんでもない粗相を……」
「大丈夫だよ。ヘレン姉さんは確かに少し気難しい人に見えるかもしれないけどあれで案外優しい人だから。……それより、手、見せてくれるかい?」
さらり、と窓から夏が入り込む。抜ける様な青空に浮かぶ白い雲を運ぶ風と共に、合歓の木の匂いと共に。
ヘレン姉さんが帰った後もひたすら僕に頭を下げ続け、割れた陶器の欠片を指で一つ一つ摘まみ集める彼女の姿に息を一つ吐き出し、ゆっくりと座っていた椅子から降り、彼女の隣へと腰を下ろした。
「ご主人様?」と、眼鏡の奥で大きな緋色の瞳を瞬かせる彼女の両の手を左右順番に取って、自分のものより一回り小さな白い手の平に視線を落とし言葉を紡ぐ。
「怪我はない?指は切ってない?」
「あっ、はい。それは大丈夫です……!痛くないですし傷もないですから!」
「……そう……なら良かった。僕も拾うのを手伝うよ。一人でやるよりも二人でやった方が早いだろうから」
「だ、ダメです!私が割ってしまったんですし、それにご主人様にやらせるような仕事ではありません……!」
彼女の柔らかな髪がふわりと円を空に描く。僕の手を払い自分の顔の目の前で慌てた様に手を振る彼女に、再び緩い三日月か口元に浮かび上がる。ゆっくりと手を伸ばして払われた手に、触れた。
「じゃあ、二胡をー……あっ、二胡というのは僕が普段弾いてる楽器の名前なんだけど、それを聴いて欲しいな。僕が片付けを手伝う対価に、感想が欲しいんだ。だから、二人で早く片付けてしまおう。……ね?」
日に焼けた古びた白のレースのカーテンが風にそよいでいた。絡みほつれひらめき合って。
夏が、入り込んでいた。
弦が震え空気が哭く。遠い異国の楽器の音色に弾き手である僕自身も溺れていた。
二胡。こうなる以前の僕と今の僕とを繋いでくれているもの。
音が充ちて引いて行く。打ち寄せる波の様に。涼しい音楽が流れていた。……親密な時間と共に。
雲が流れていた。くねくねと曲がりくねる道の先に向って真っ直ぐに。朝同様海からやって来た霧が水煙のヴェールで街を包み隠していた。赤と紫と墨色が溶け出した空に一つ、また一つガス灯が灯っていく。一度照明が落ちた舞台に再び光が灯る様に、酷く心細げで、儚げでー……だけど確かに夜を払う光が灯っていた。
「……っう……ん……」
「おはよう。よく寝れた?」
「……おはようございま、す。ご主人様……って、おはようございます!?も、もしかして朝!?朝なんですか……!大変……!私何もしないで寝てしまって……!」
『リチャード兄様……!?朝、もう朝なのです……!?ど、どうしましょう……!私、自分から兄様の弾く楽器が聴きたいって言ったのに寝てしまいました……!』
優しい記憶が重なる。いくつも、いくつも。見回す僕の周りで。
「ううん。まだ夕方だよ。寒くない様に羽織りは掛けたんだけど……寒くはなかった?」
なぞっていた。辿っていた。時の記憶を。輝く記憶を呼び止めて。
あの日、年の離れた妹の長い髪を指で梳いた時の様に、妹ではない彼女の髪に指を通す。オロオロと忙しなく辺りを見回す彼女を落ち着かせるために。
一片、優しい思いが夜の面に落ち同心円の波紋を描く。
「ありがとう」
僕がこうして過去を振り返っても懐かしいと思うだけで留まれているのはきっと君達のおかげだから。
君達がいてくれるから僕は縛られず置いて来てしまった過去と自分を羨むのでも怨むでもなく見つめる事が出来る。
帰りたいたいという思いに今が勝ってくれるんだ。
僕は持つ者でも持たざる者でもない狭間の人間だ。持つ者として生を受けたけど失くしてしまった。
そんな僕の標の星が君達だから。君だから。窓を灯す灯りだから。
権力はいらない。でも、僕はー……
「ご主人様……?」
「……ううん。何でもないよ。あと一曲だけ弾くから、付き合ってほしい」
夜鷹が歌う。二胡の音と共に。ヒグラシの声が止まり虫の音が混じる。
謎めいた異国の言葉で囁く様に、音が震えていた。
≪リック≫
この人々はあなたのものでしたが、あなたは彼らに私を下さいました。
彼らはあなたの言葉を守りました。あなたが私にお与えになったものは全て、あなたからのものである事を、今、彼らは知っています。
彼らはあなたの言葉を守りました。あなたが私にお与えになったものは全て、あなたからのものである事を、今、彼らは知っています。
何故なら、あなたが私にお与えになった言葉を、私が彼らに与え、そして、彼らはそれを受け入れ、私があなたの元から出て来た事を本当に知り、あなたが私をお遣わしになった事を信じたからです。
私は彼らの為にお願いします。世の為ではなく、私をお与え下さった人々の為にもお願い致します。
彼らはあなたのものだからです。私のものは全てあなたのもの、あなたのものは全て私のものです。
そして、私は彼らによって栄光を受けました。私はもはや世にはいなくなりますが、彼らは世に残り私はあなたの元に参ります。
聖なる父よ、私をお与え下さったあなたの名によって彼らを守って下さい。
彼らが私達の様に一つになる為です。
彼らと共にいた間、お与え下さったあなたの名によって私は彼らを守り、保護しました。滅びの子の他は、彼らのうち誰も滅びませんでした。
それは聖書が成就する為でした。しかし、私は今、あなたの元に参ります。
世にいる間に、これらのことを語るのは、私の喜びが彼らのうちに充ち溢れる様になる為です。
私は彼らにあなたの言葉を与えましたが、世は彼らを憎みました。
私が世に属していない様に、彼らも世に属していないからです。
私がお願いするのは、彼らを世から取り去る事ではなく、彼らを悪い者から守って下さる事です。
真理によって聖なるものとして下さい。あなたの言葉は真理です。
あなたが私をこの世にお遣わしになった様に、私も彼らを世に遣わせました。
彼らの為に、私自身をお奉げ致します。
彼らも真理によって、奉げられたものとなる為です。
【ヨハネによる福音書 第17章】
海から湧き上がる大量の水分を含んだ大気が朝の弱々しい光によって織られ水煙のヴェールへと姿を変える。霧のヴェールに包まれた港町の街並みと東の水平線から徐々に白み、乳白色の薔薇色へ変わっていく空とを窓縁から交互に一人、見つめていた。
一つ、また一つと夜を払っていたガス灯の灯火が消えて行く。ガス灯の真下には既に”今日”を始め出した人々の姿があった。
夜の間閉めきっていた窓を開け放ち、ふう……と深く息を吐き出して、吐き出したのと同じ分だけ朝を吸い込み夜と置換する。この屋敷に来てから知った色付く朝と西へ散って行く夜とを見送った。
「はうう……ご主人様申し訳ありません……私、ご主人様のご友人の方にとんでもない粗相を……」
「大丈夫だよ。ヘレン姉さんは確かに少し気難しい人に見えるかもしれないけどあれで案外優しい人だから。……それより、手、見せてくれるかい?」
さらり、と窓から夏が入り込む。抜ける様な青空に浮かぶ白い雲を運ぶ風と共に、合歓の木の匂いと共に。
ヘレン姉さんが帰った後もひたすら僕に頭を下げ続け、割れた陶器の欠片を指で一つ一つ摘まみ集める彼女の姿に息を一つ吐き出し、ゆっくりと座っていた椅子から降り、彼女の隣へと腰を下ろした。
「ご主人様?」と、眼鏡の奥で大きな緋色の瞳を瞬かせる彼女の両の手を左右順番に取って、自分のものより一回り小さな白い手の平に視線を落とし言葉を紡ぐ。
「怪我はない?指は切ってない?」
「あっ、はい。それは大丈夫です……!痛くないですし傷もないですから!」
「……そう……なら良かった。僕も拾うのを手伝うよ。一人でやるよりも二人でやった方が早いだろうから」
「だ、ダメです!私が割ってしまったんですし、それにご主人様にやらせるような仕事ではありません……!」
彼女の柔らかな髪がふわりと円を空に描く。僕の手を払い自分の顔の目の前で慌てた様に手を振る彼女に、再び緩い三日月か口元に浮かび上がる。ゆっくりと手を伸ばして払われた手に、触れた。
「じゃあ、二胡をー……あっ、二胡というのは僕が普段弾いてる楽器の名前なんだけど、それを聴いて欲しいな。僕が片付けを手伝う対価に、感想が欲しいんだ。だから、二人で早く片付けてしまおう。……ね?」
日に焼けた古びた白のレースのカーテンが風にそよいでいた。絡みほつれひらめき合って。
夏が、入り込んでいた。
弦が震え空気が哭く。遠い異国の楽器の音色に弾き手である僕自身も溺れていた。
二胡。こうなる以前の僕と今の僕とを繋いでくれているもの。
音が充ちて引いて行く。打ち寄せる波の様に。涼しい音楽が流れていた。……親密な時間と共に。
雲が流れていた。くねくねと曲がりくねる道の先に向って真っ直ぐに。朝同様海からやって来た霧が水煙のヴェールで街を包み隠していた。赤と紫と墨色が溶け出した空に一つ、また一つガス灯が灯っていく。一度照明が落ちた舞台に再び光が灯る様に、酷く心細げで、儚げでー……だけど確かに夜を払う光が灯っていた。
「……っう……ん……」
「おはよう。よく寝れた?」
「……おはようございま、す。ご主人様……って、おはようございます!?も、もしかして朝!?朝なんですか……!大変……!私何もしないで寝てしまって……!」
『リチャード兄様……!?朝、もう朝なのです……!?ど、どうしましょう……!私、自分から兄様の弾く楽器が聴きたいって言ったのに寝てしまいました……!』
優しい記憶が重なる。いくつも、いくつも。見回す僕の周りで。
「ううん。まだ夕方だよ。寒くない様に羽織りは掛けたんだけど……寒くはなかった?」
なぞっていた。辿っていた。時の記憶を。輝く記憶を呼び止めて。
あの日、年の離れた妹の長い髪を指で梳いた時の様に、妹ではない彼女の髪に指を通す。オロオロと忙しなく辺りを見回す彼女を落ち着かせるために。
一片、優しい思いが夜の面に落ち同心円の波紋を描く。
「ありがとう」
僕がこうして過去を振り返っても懐かしいと思うだけで留まれているのはきっと君達のおかげだから。
君達がいてくれるから僕は縛られず置いて来てしまった過去と自分を羨むのでも怨むでもなく見つめる事が出来る。
帰りたいたいという思いに今が勝ってくれるんだ。
僕は持つ者でも持たざる者でもない狭間の人間だ。持つ者として生を受けたけど失くしてしまった。
そんな僕の標の星が君達だから。君だから。窓を灯す灯りだから。
権力はいらない。でも、僕はー……
「ご主人様……?」
「……ううん。何でもないよ。あと一曲だけ弾くから、付き合ってほしい」
夜鷹が歌う。二胡の音と共に。ヒグラシの声が止まり虫の音が混じる。
謎めいた異国の言葉で囁く様に、音が震えていた。
≪リック≫
