第10章 変化・第11章 家族


人を義とするのは神なのです。誰が神に選ばれた者達を訴えるでしょう。私達を罪ある者と定めることが出来るでしょう。

御子は死なれた方、否、むしろ、復活された方、神の右に座す方であり、私達の為に執りなしてくださる方でもあります。

誰が私達を御子の愛から引き離すことが出来ましょう。

禍か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。

「私達はあなたの故に一日中死の危険に晒され、屠られる羊のように見做されている」

と書き記されている通りです。しかし、私達は愛して下さった方によってこれら全ての事において輝かしい勝利を収めています。

私達は確信しています。死も、運命も、命も、御使いも、支配する者も、今あるものも、後から来るものも、力あるものも、高いところにいるものも、深いところにいるものも、他のどんな被造物も、私達の主において現れた神の愛から私達を引き離すことはできないのです。


【ローマの人々への手紙 第8章】






「エテルか。どうしたんだい?」


昼でもやや薄暗い王城の執務室の石壁に映る影が揺れた。その子の来訪と共に。

扉から彼女と共にやって来たこの時期にしては温かな風が、終日燭台に灯されている灯りを微かに躍らせる。


「リーダー、お願いがあって来ました」


いつもよりもやや控えめなノック音。この執務室の戸をこの子が叩くのは何も今日が初めてではない。だが初めてこの部屋を叩いた時と同様……いや、それ以上の緊張が見て取れた。切羽詰まったような、思い詰めたような彼女の硬い、張り詰めた表情を見つめ、自分は年々皺が深くなっていく眦を、彼女とは逆に弛緩させた。


「ふむ、お願い……か。聞こう」


深く腰掛けていた椅子から立ち上がり、入り口近くで硬直し移動だにしない彼女へ、もっとこちらへ来るようにと笑みを浮かべて促した。ぴくりとも動かない彼女の代わりに彼女がいつも身に受けている薄いレースのヴェールが靡き、それに少し遅れるように彼女が一歩、そしてまた一歩と小さな歩幅で私へと歩み寄る。

彼女のー……エテルが紡いだ願いとは自身を北方の救援部隊へ編成してほしいというものだった。実に彼女らしい……そして私自身でも予測していた願いだった。

彼女は……エテルという女性は、この子はそういう性分だ。誰よりも彼女の事を分かっているなどという傲慢さは持ち合わせてはいないが、赤の他人よりかは自分の方がこの子を理解しているという自負はある。


「……――見て、純血主義者の考えに触れられたらと、思っています。狭い世界で生きてきたからこそ、もっといろいろな考えに触れてみたい。それを、リーダーから出される課題を解いていて、思ったんです。こんな理由で北方への部隊に加えてくれなんて、無理を言っているのは重々承知のうえです。それでも、行きたいのです。どうか、お願いします」


それは祈りに酷くよく似ていた。

赤軍に所属しているという事は彼女は特定の信仰は持ってはいないだろう。だが、それでもなお見えるのだ。これは、祈り、だと。

瞬間、時が蟠った。私と彼女の間に。短い吐息と共に蟠っていた時を動かしたのは彼女ではなく私だった。


「……エテル。これがなんなのか分かるかい?」


「黄色と水色の図面……確かこれは純血主義の人々が暮らしている領地のー……」


「ああ、市章だね。黄金に実る小麦の穂と澄んだ青空を現しているそうだよ。そう言われてみるとこの酷く単純な色の組み合わせが、青空の下どこまでもどこまでもー……地平線の彼方まで広がる小麦畑に見えてくる。不思議なものだ」


執務室の机の上に広げた図面を彼女と共に見下ろし、視線は互いに図面上のまま問い掛けた。「それで……本当に北に行くのかい?」と。


「はい……!私を行かせて下さい!」


「……エテル。人はたった一切れのパンの為に人を殺すものだ。自らの幸福を最上のものと位置付けて他者を踏み付け、踏み躙る。これは抗えぬ人に備わった本能だ。生存本能という名前のね。人が人である限り争いは避けられない。この豊かな穀倉地帯ではそんな純粋な悪意が渦巻いている。それでも君は行く覚悟があるかい?」


答えが決まっている問いが穏やかな時の流れの中に吸い込まれ、霧散していった。






「……悪意が渦巻いている、ね。その悪意を生み出している本人がそれを口にするか」


「アマダス、聞いていたのかい?……今回の暴動はゴイムの時とは違って赤軍が起こしたものではない。紛れもなく純血主義一派の者達によるものだからね。一部の狼藉者どもが周囲の街を暴徒となり襲撃している」


「……人工的な飢饉を作り出しておいてか。北方への物流を意図的に制限しているだろう?いいや、そればかりではない。北からの小麦を輸出し外貨に換えている。このまま輸出に穀物を回し続けていたら更なる食糧不足を招くぞ」


「それで?」


同志の一人、古参の一人でもある男の、いつもよりやや感情が滲んだ声を聞きながら自分の椅子深くに腰掛け目蓋を降ろし、長い息を吐き出す。

先程、エテルにもそうしたように先を促す言葉を紡いだ後に。


「特にひどい村では小麦どころか鳥や犬や猫、ドングリやイラクサまで食べていると聞いている。いいや、病死した馬や死体までも掘り起し食べているという報告さえある!通りには餓死者の死体が転がり、所々山積みにされ死臭が漂っていると現地に送り込んだ俺の部下が証言していた!真っ先に死んでいくのは赤子や幼子だ!ある親は空腹に苦しむ我が子を見ていられず首を絞めていたという!このままでは暴動がさらに広がるぞ!?」


「そして我々は治安維持の大義を手に入れることが出来る。北の地力を奪った上で。北の領主ー……ミルファスが動いた時が好機だ。苦労したよ。ここまで弱体化させるのに。動かざるを得ないだろう。あの女が望もうが望むまいがここまで追い詰められれば他の領域に攻め込まざるを得ない。民衆はー……人はたった一切れのパンの為に人を殺す生き物だからだ。そしてそんな民衆を我々は管理し導いてやる必要がある。秩序を用意してやる必要がある」


落日が足元と繋がる影を伸ばしていた。色濃く。そして針のように細長く。アマダスからは私の姿は落日の影になりよく見えないだろうが、真逆に位置する私からは彼の表情がよく見えた。


「……エテルは……あの子の事はどう考えているんだ?北方に向かう事で真実を知る事になるかもしれないぞ。今まであの子の手は汚さずに保って来たんだろう?彼女の理想を」


「彼女は自分の目で様々なものを見たいと願った。自分の目で世の中を確かめるとね。私もそれを望んでいる。あの子の求めるものはここにも、どこを探しても見つかるはずがない。理想はあくまで理想だ。現実ではない。それを確かめさせるために行かせるんだよ。あの子やルフィール、そしてアルフォートが希望を失った時ここへ戻ってくる時を私は楽しみにしているんだよ、アマダス。理想が潰えたその時に、現実が……はじまる」


《フリードリヒ・コミンテルン》
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