第3章 持たざる者は持てる者
これらの事を初めから言わなかったのは、私があなた方と共にいたいからである。
しかし、今、私は私をお遣わしになった方の元へ行こうとしているが、あなた方のうち誰も、どこへ行くのかと尋ねる者はいない。むしろ、この様な事を言ったので、あなた方の心は、悲しみに満たされている。しかし、私はあなた方に本当のことを言う。私が去って行くのはあなた方にとって有益である。
私が去って行かなければ、弁護者はあなた方の元においでにならないからである。
しかし、私が行けば私は弁護者をあなた方の元に遣わす。その方がおいでになれば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにして下さるであろう。
罪についてとは、彼らが私を信じない事である。
義についてとは、私が父の元に行き、あなた方がもはや私を見なくなる事である。
裁きについてとは、この世の支配者が裁かれた事である。
私にはまだ沢山あなた方に言いたいことがあるが、今、あなた方はそれに耐える事が出来ない。
しかし、真理の霊であるその方が来られると、真理のあらゆる面で、あなた方を導いて下さる。
その方は自分勝手に語るのではなく、聞いた事を語り、起ころうとしている事を、あなた方に告げて下さるからである。
その方は私に栄光をお与えになる。
私のものを受けて、あなた方に告げ知らせて下さるからである。
父が持っておられるものは全て私のものである。
だから、その方が私のものを受け、あなた方に告げて知らせて下さると、私は言ったのである。
【ヨハネによる福音書 第16章】
午前一時の鐘が鳴ったらしい。……らしいというのは私が自分の耳でその音を聞いたわけではないからだ。
寝間着姿の父と母と三人の姉と、そして足の悪い末の弟が私の寝室へと繋がる木の扉を押し開ける。ノック音はない。いや、本当はあったのかもしれないが聞えなければなかったのと一緒だ。
とっぷり夜も更けていた。当然だった。今は草木ですら深い眠りに落ちる時間なのだから。
抗議をする代わりにまだくっつこうとする目蓋を手の甲を使い乱暴に擦った。そんな私の様子に、呆れたようなそれで困った様に笑みを浮かべた一番上の姉が一歩一歩近付く。いよいよ真横まで来ると姉は寝台の横のテーブルに置かれたガラスペンとメモを手に取り、サラリとペンを走らせていく。
「情勢が不安定で不穏だから今夜は地下室で寝る様に、とお達しがあったのよ」
流れる様な滑らかな筆跡で書かれた文字をまだ半分眠っている頭の中で読み上げ、渋々とぬくもりが残る固い寝台から抜け出した。
情勢が不穏なのは間違いないだろうし、それに、そもそも私達一家に自由なんてものはないもの。
あの暑かった数日前ー……せめてもの涼を求めて、外の風景と新鮮な空気が欲しくて窓を開けようと手を鍵に掛けた次の瞬間、頬の真横を銃弾が掠め飛んでいったのは記憶に新しい。それ以降、私は窓に近付く事を止めた。
もっとも深い闇の時間、闇の中を愛犬の小さな体を抱きしめ歩いて行く。先頭を往く父が持つガラクタを寄せ集めたようなカンテラの光がフラリ、ふらりと頼り無げに揺れていた。
地下室の真ん中に二つあった椅子に足の悪い弟と母がまず座り息を吐き出した。父がまだ幼い弟の肩を後ろから抱いていた。三人の姉と並んで私は父と弟の姿を見つめていたの。
父が、母が微笑んでいた。弟が私を見つめ、無垢な瞳を細めていた。そして次の瞬間ー……
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「ヘレン姉さん来て下さったんですね。お久しぶりです。心配していたんです。姉さんが修道女になったと聞いて」
庭に植えられた樫が、今が盛りとばかりに咲いた合歓の木の薄紅色の花が午後の風にそよいでいる。合歓の花が撒く芳香が窓縁からするりと入り込み、降り積もっていた。
手にした異国の弦楽器を傍らに置き振り返り、そして、そう書かれたメモを差し出すリックの姿に、私は緩く眦と口元に弧を描く。変わらないリックの笑みに安堵しながら。
「ありがとうございます。聴いて下さって」
次にそう書いたメモを差し出し、座るようにと手で促すリックを、私も手を動かす事で制す。疎開したおかげで大聖堂にいた時よりも抜け出す事は簡単になったが……世情が世情だ、あまりこの屋敷に私が長居するのは、得策ではないだろう。
もう一度、渡された二枚目のメモに書かれた文字を視線を落として追い、なぞった。
「ありがとう」
私がリックの奏でる演奏を聴く度に、演奏が終わる度に彼はこう書かれた紙を私へと手渡す。
私の耳が耳としての役割をはたしていないと知っているにも拘らず、だ。
以前、聞いたことがあった。普通はけして言われないからだ。私が音が聞こえないと分かると大抵の者は謝罪の言葉を口にする。謝罪に言葉を紙面に書き出す。「申し訳ありません」「ごめんなさい」と。
「耳が聞こえないあなたの事を気遣えなくて申し訳なかった」と。
それなのに何故?と尋ねた時、リックは困った様に笑みを浮かべながら、こう書いた。
「だって、僕が謝罪の言葉を書いてしまったら、ヘレン姉さんも”そんな事はない。こちらこそすまなかった”と言うしかなくなってしまいますよね?」
「僕の足は思ったようには動きません。ですが、動けないわけではないんです。想像の翼さえあれば僕は遠くまで出掛ける事が出来ます。ヘレン姉さんも同じだと、そう思ったんです。音楽を聴くという行動は、何も音を聞くだけではないと、僕は思っています」
リックの口が三度動き、特徴的な緑の瞳がパチリ、と瞬いた。恐らく彼は今私の名を呼んだのだろう。
「何でもない。ただ、少し懐かしくなっただけ」
そう紙にペンを走らせた。
この青年は知っているんだ。だから変に謝罪に言葉を口にしない。障害者を憐れまない。
憐れみによる感傷は、相手を自分より下だと思っているからこそ生まれるものだと知っているから。
変わらない。何一つ。出会った頃と。
ぼんやり過去を見つめる私の頭の上に次の瞬間、大量の砂糖が降り注いだ。
「……すみません。ですが、彼女にも悪気はなかったと思うので……」
「いや、私は大丈夫だから……」
今日何枚目になるか分からないやり取りを文字で交わして互いに手渡し合う。……リックは確かに変に謝罪の言葉を口にする事はないがすべき時はする分別を持っているから……
しかし、彼の使用人のぼんやり癖も、どうやら健在のようだな。
変わらない穏やかな時間があった。ただ一点、一歩も歩けなかったはずのリックが杖を使い足を引き摺りながらではあるが、自分の足で立ち、部屋の段差に躓き転んでしまった侍女に近付き、彼女の体を自分の腕で抱き起した事以外は。
変わってない。そう思っていた。だけど、やはり時計の針は、進んでいた。
今、この胸の奥に生まれた仄かな想いは変わりつつある者達に対する祝福の気持ちだろうか?それとも羨望の感情だろうか。……おそらく、どちらも。
あの日で時間が止まってしまった弟と時計の針を進めるリックと……どうしても重なってしまうのは二人が同じ障害を持っているから、なのかもしれない。
「ヘレン姉さん?」
「今日はもう帰るわ。私も、人を待たせているかも、しれないから」
最後の一枚にそう綴って、二人に背を向け踵を返した。
礼拝を抜け出して来てしまったから怒られるかもしれないけれど……何故だろう。今堪らなくあの仏頂面の、司祭の顔が、見たい。
≪ヘレン・トビアス≫
