第3章 持たざる者は持てる者

世があなた方を憎むなら、あなた方よりも先に私を憎んだ事を知っておきなさい。

あなた方が世に属していたなら、世はあなた方を自分のものとして愛した事であろう。

だが、あなた方は世に属しているのではない。私があなた方をこの世から選び出したのである。

だから、世はあなた方を憎むのである。

『僕は主人に勝るものではない』と、私が言った言葉を思い起こしなさい。

人々が私を迫害したのであれば、あなた方の言葉をも守るであろう。

しかし、人々は、私の名の故に、この様な事を全てあなた方に対して行うであろう。

私をお遣わしになった方を知らないからである。

私が来て、彼らの話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。

だが、今は自分達の罪について彼らは言い逃れが出来ない。

私を憎む者は、私の父をも憎んでいるのである。

他の誰も行わなかった業を、私が彼らの間で行わなかったなら、彼らには罪がなかったであろう。

だが、今、彼らはその業を見た上で、私と私の父を憎んでいる。

しかし、これは、『人々は理由なしに私を憎んだ』と、彼らの律法に書かれている言葉が成就する為である。


【ヨハネによる福音書 第15章】






まだらに残る雨の染みが石畳の通りに残っていた。貧民街の、踏み固めただけの土のあぜ道ではない。貴族や聖職者階級の居住区の、シンメトリーに整備された手入れの行き届いた道でもない。その中間の様な、点々と畳が捲れ土が剥き出しになった通りを俺は一人歩いていた。

聖王ブルボンの統治時代にはここもそれなりに栄えていたらしいが……それももう一昔以上前の話だ。

雨上がりの轍に溜まった泥水に青と鉛色が混じり合った空が映る。今では廃墟が立ち並ぶ港町は小銭をせがむ者で溢れていた。

手入れの行き届いていないくねくねと曲がりくねった悪路を、目的の場所を目指し真っ直ぐに歩く。この寂れた街の高台に建つ、街一番の屋敷へと向って。

しつこい鐘の音が、錆び付き調律の狂ったからくり時計の奇妙な音楽が雨上がりの通りを包んでいた。

背の低い垣根を越えれば赤レンガの苔生した、蔦が縦横無尽に走る古びた洋館が、雨上がりの霧の中から姿を現す。確かにこの屋敷はこの周囲で一番の屋敷だがー……周りが周りだ。世辞にも立派とは言えないだろう。東屋よりはマシだが。

貧民街ではないが限りなく貧民街に近い場所に位置する、寂れた街の古びた洋館、ここがあいつの家だった。

「よっ……」っと小さく声を漏らし慣れた手付きで二階の窓近くまで枝を伸ばしている樫の木に手をかけ足をかけて一気に登っていく。もう十年近く登り続けている木だ。今更足を踏み外すなんてヘマはしない。

錆び付いた鐘の音に、あいつの弾く不思議で綺麗で、どこか哀愁を感じる異国の楽器の音色が混じり、震えていた。


「アル……!久しぶり!心配していたんだ、ずっと連絡がなかったからてっきりアルが住んでる地区にも被害があったんじゃないか、って……!シャヘルさんやリリスさんも無事なのかい?」


「おいおい、俺はそんなにやわじゃねーよ。父さんも母さんもチビ達も元気にしてるぜ?ってか、俺以上に殺しても死ななそうだろ?父さんは。……食うか?ここに来る途中でヤマモモ取って来たんだ。二つ、な」


「うわっ……!ちょっと、アル……急に投げないでよ」


「心配しなくてもそこまでノーコンじゃねーよ、俺」


異国の楽器が奏でる旋律が止まり、代わりに秘密の友人の弾む声が俺を迎え入れる。久しぶりに会う昔馴染みの友人に手にしたヤマモモの一つを放って、驚いた様に目を見開く友人とは対照的に瞳を細め口角を釣り上げた。何だかんだ忙しくってしばらくここに来れないでいたがー……こいつは変わらないみたいだ。


「……大変な事になっちゃったね」


「そっか。お前の耳にもその話は入ってたんだな」


「そりゃあこれだけ大きければ嫌でも、ね。僕は足がこれだから屋敷の外へは出られないけれど……それでも人伝に噂は耳に入るし新聞もあるから」


「……そうだな」


車椅子に深く腰掛けるリックと簡素なテーブルの上に広げられた新聞の見出しを交互に見つめて一口ヤマモモを齧じれば、甘酸っぱさの中に僅かに苦味がある果肉が口の中で弾けて消えて行く。……リックにとっては新聞が数少ない外と自分を繋ぐ窓なのかもしれないと、ぼんやりと考えていた。


「アル、その胸のバッジは……」


「ん?ああ……これの事も知ってるのか。……入る事にしたんだ。赤い旗を掲げるあの人が率いる集団に。そして、取り戻す。その国を。一部の特権階級の手から俺達労働者達の手に。冨を分けるんだ。皆等しく、平等に」


左胸に付けた鉛色の槌と矛が交差するバッジを右手で強く握り締め言葉を紡いだ。お互いヤマモモを食べる手を止めて。


『親愛なる新しい同志諸君、新たな時代の風になるであろう諸君らを我々は歓迎しよう』


『諸君らの気持ちはよく分かる。私はそれを理解する。しかし、燃える様な革命的情熱だけでは十分ではない。必要なのは然るべき経済的、政治的情勢であり、明確な革命的思想だ。それなしには、場当たり的に革命的試みを行う事は出来ても勝利を獲得する事は出来ない。そして、この国において現在我々は、ここの革命的運動だけではなくー……それは無条件に必要だ。我々は-……!』


あの日、俺の目の前で”正義”を示し、そして何も持たない俺達の手を取ってくれたあの人の……フリードリヒさんのマメだらけで固くなった手の平の感触が蘇った。あの人が俺達に語ってくれた”理想”と共に。

あの人が言ったように団結が必要なんだ。国を、歴史を、民の手に取り戻すためには。その為なら、俺はー……


「『君主は恩恵を与える役はすすんで引き受け、憎まれ役は他人に請け負わせればいい』か……」


思考が途切れた。不意に、そして唐突に。いや、切れたというよりは切られたという方が正しかった。

「リック?」と巡る思考の糸を言葉を使い切ったそいつの名を紡げば、リックは少し困った様に眉を下げて笑いながら俺を見つめていた。……痛いぐらい真っ直ぐで、痛いぐらい静かな瞳で。静寂の音が、瞬間、響いていた。


「アル。君の言う”民”というのは君達の様なー……君達の言葉で言う”持たざる者”のことだよね?……でも、”持つ者”は?僕達の様な貴族はこの国の民ではないの?」


「違う……!お前は違うだろ!リック!静養の為だか何だか知らないけどこんなところにお前を閉じ込めてるあいつらとお前は違う!それに、このままじゃ俺達は搾取され続けるだけだッ!社会保障、働く場所、就く職業……それどころか寝るところ食べるもの……全てが不足しているんだ……!このままじゃこの国は壊れちまう!腐って、膿んで、死んでしまう!お前なら分かるだろ!?」


「そう、だね。……でも、アル、これだけは忘れないでいてほしい。”目に見えるものが、示されるものが全て真実だとは限らない”ことを。そして、”最善だと思ってとった行動が最良の結果に繋がるとは限らない”ことも」


空が流れていた。言葉と共に、風と共に。リックが再び手に取り奏で始めた”二胡”とリックが呼んでいる楽器の音色が空気を震わせていた。






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夏の抜ける様な青空の下、それとは対照的な深紅の旗が冴え返り翻っていた。

爆発した市民感情は集い大きな時代の流れとなり、王宮と旧教の総本山である大聖堂へ押し寄せて。

歴史が、旧時代を飲み込み喰らおうとしていた。

労働闘争の、始まりだった。


「”神”という幻想、”永遠”という妄想、”特権”という腐った果実に毒された者達を引き摺り下ろせ!!歴史を我々”民”の手に取り戻すのだッ!!!」


≪アルフォート≫
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