第3章 持たざる者は持てる者
そこで、あなた方に言っておく。求めなさい。そうすれば与えられる。
探しなさい。そうすれば見出す。
叩きなさい。そうすれば開かれる。
誰でも求める者は受け、探す者は見出し、叩く者には開かれる。
あなた方の中に、子供が魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
あるいは、卵を求める子供にさそりを与える者がいるだろうか。
このようにあなた方はたとえ悪い者であっても、自分の子供に善い物を与える事を知っている。
それなら天の父がご自分を求める者に聖霊を与えて下さるのは尚更の事である。
【ルカによる福音書 第11章】
「ふぁああ……」
「おーい、天青~?床の上で伸びられると通行の邪魔なんだけど」
「んー?ああ、お前か……お兄さん眠い。そして何よりだるいー……ってぇえええええええええええ!!!!」
ズキリ、と鋭い痛みが手の甲を貫き駆け抜ける。泥の底に沈んだ様な、一抹の夢もない眠りから強制的に引き上げられ起こされて目蓋を開ければ、見慣れた仲間の顔が生理的な涙に滲んだ視界に映った。こいつ……!!人の手をわざと踏みやがった……!!
「だって天青寝起き悪いじゃん。こうでもしないとフライパンで叩くでもしないと起きないだろ?で、感想は?嬉しかった???」
「俺は!ドMじゃねーよ!!」
「うん。完璧に起きたみたいだね。おそよう。もう昼も近いよ」
「……みたいだな」
天井へ向かい大きく手を上げれば寝ている間に鬱血していた血液が巡り凝り固まっていた筋肉を解していく。薄い板張りの床で寝ていたせいかいつも以上に身体が重い。首を横に傾ければゴキリ、と大きく骨が鳴った。
「いくらなんでも飲み過ぎ。この様子だと部屋にも帰らなかったんでしょ?」
「たまには酒でも飲まねーとやってらんねーよ。……あの日から何もかも変わっちまった」
天窓から差し込んだ昼前の薄明かりが舞う埃に反射し梯子を掛けていた。再びドカリと音を立てて軋みたわむ床へと寝転がり独り言ちる俺の目に光が刺さる。
かかる梯子と過ぎたあの日が交互に映る。あの日以降以前にも増してよく目にするようになった赤い旗が脳裏を過った。
「『持たざる者は持てる者』ねえ……」
「ああ、最近よく聞くあれか。前々から一定の支持者はいたみたいだけど……あの日以降急速に勢力を伸ばしてるみたいだ」
鱗に覆われた手の平を光に翳して梯子に手を伸ばし、掴んだ。何もない、ありもしない、虚空を。
「んなあ」
「ん?」
「”真の平等”なんてあり得ると、お前は思うか?」
人が二人いたらそこには変わらず差が生じる。優越という差が。それは自然な事だ。それを無理矢理平らにならそうとすれば、それこそ歪みが生じるんじゃないだろうか?
「あいつらは権力者の野望や横暴ぶりを糾弾し、それを正すための轡と制約が必要だと主張している。貴族や聖職者に対して民衆が恐怖から来る憎しみを感じている事を知っているし、だからこそ自分達は民衆を保護すると語っている。……だけどよ、そればっかり関心事にしちまうと民衆の方に身びいきになって貴族連中から恨みを買うんじゃないか?」
それでは頭がすげ代わる、それだけじゃないか?
……そう続くはずだった言葉は、散らす前に、唾と共に飲み込んだ。
「また豆でも買いに行くの?」
「ちげーよ。仕事だ、仕事。仕事しねーとそれこそ、その豆を買う金もなくなっちまうだろ。……お前こそ情報ばっかりじゃなくてたまには違うもんに関心を持ったらどうだ?そうだな……女とか?」
「な、なななななっ!!」
「ブッ……!!ははははっ!顔真っ赤だぞ?」
雨漏りの染みが残るボロい天井から白い光が溢れる扉へと視線を移して、反動をつけて立ち上がった。そんな軽口と共に。思った通りの反応を返してくる仲間に喉を鳴らし、相棒である長物を手にして立て付けが常に悪い戸を押し開けて。
「じゃあ、行ってくるわ。夜までには帰るって伝えといてくれ」
「伝える?誰にさ?」
「ルーベラ。あと、ついでに根詰め過ぎんなってのも。あいつ近頃碌に寝てねーみたいだから。”あんたの体はあんただけのもんじゃねーだろ”ってな」
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あの禍から数週間。表向きは市中に日常が戻っていた。……そう、あくまで表向き、は。
整備され片付けられた大通りとは対照的に一本路地を潜ればそこには無数の瓦礫や”モノ”が無造作に、そこかしこに積まれていて、早く片付けないとこれからの暑い季節疫病の原因になるな。……と、もはやそれを”ヒト”として見ていない自分がいる事に気付いて、込み上げて来る胸糞の悪さに齧っていた酸っぱい黒パンの欠片を吐き捨てた。……まずい。
「あの……」
不味さと嫌悪に顔を歪めた、そんな時だった。声が聞こえてきたのは。映ったのは陽光に透ける葉の様な翼と尾を持った小柄な亜人の女とその女に纏わり付く擦り切れ破れたボロを来た孤児たちの姿だった。
「止めときな、嬢ちゃん。キリねえぞ」
「えっ……」
奇妙な形をした翼と尾、そしてそんな翼と揃いの色をした瞳が俺の姿を捉え映していた。戸惑う様に言葉を詰まらせた女を尻目に、手と言葉を使って孤児を散らす。……ここで一々施しなんかしようもんなら最後には何も残らない。下着すら持ってかれる事になる。
「あの……」
「……飢えた子供の前でよく飲み食い出来るな、ってか?なら、目の前にいなきゃ食べていいのかよ?」
俺が持つ、ガリ板紙に雑に包まれただけの黒パンと安酒が入った瓶とを交互に見つめ何かを視線で訴えている彼女へと言葉を紡げば、彼女はその双眸を閉じ頭を垂らした。微かに手が震えているように見えたのは、恐らく俺の気のせいではないのだろう。
「俺が飲み食いを止めたところであいつらの腹が膨れるわけでもないしな。……あんたのその恰好、異国の人間か?」
「え、ええ……そう、です」
「そうか。なら。この先には一人で近付かない方がいい。この先にあるのは貧民街だからな」
あの災禍でスラム街の被害は軽微だったとはいえ、それでそこが安全かと言われればけしてそうではない。それどころか家を焼かれ住むところを失くし、新たに流入した民衆でごった返し治安は以前以上に悪化している。最近じゃ人攫い連中の動きも活発化してるって砂希も話してたしな。
「俺も丁度一仕事終えたところだし、今なら街に戻るついでにあんたの事を送って行くこともできるがー……どうする?ああ、無理強いはしねーよ。一人で帰れるって言うなら一人で帰ればいいさ。選ぶのは俺じゃなく、あんただ」
街の路地で、細く伸びた影法師が二つ、重ならず、揺れていた。
≪天青≫
