第2章 ゴイムの虐殺

世があなた方を憎むなら、あなた方よりも先に私を憎んだことを知っておきなさい。

あなた方が世に属していたなら、世はあなた方を自分のものとして愛した事であろう。

だが、あなた方は世に属しているのではない。私があなた方をこの世から選び出したのである。

だから、世はあなた方を憎むのである。

『僕は主人に勝るものではない』と、私が言った言葉を思い出しなさい。

人々が私を迫害したのであれば、あなた方をも迫害するだろう。

人々が私の言葉を守ったのであれば、あなた方の言葉をも守るであろう。

しかし、人々は私の名の故に、このような事を全てあなた方に対して行うであろう。

私をお遣わしになった方を知らないからである。

私が来て、彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。

だが、今、自分達の罪について彼らは言い逃れができない。

私を憎む者は、私の父をも憎んでいるのである。

他の誰も行わなかったような業を、私が彼らの間で行わなかったなら、彼らには罪がなかったであろう。

だが、今、彼らはその業を見た上で、私と私の父を憎んでいる。

しかし、これらは『人々は理由なしに私を憎んだ』と、彼らの律法に書かれている言葉が成就するためである。


【ヨハネによる福音書 第15章】






一粒、また一粒と天を覆う鉛の蓋から融解した冷たい雫が、地面を、そして私の皮膚を激しく打ち付け打ち据えていく。地に平伏した者達の姿を湧き立つ水煙の薄いヴェールで覆い隠しながら。

戦闘が始まってからどれぐらいの時が流れただろうか。エリーゼ殿達はうまく逃げおおせただろうか。麻痺し疲弊した頭で、ブツリ、と途切れそうになる思考の細糸を寄り集め手繰り寄せながら、私は先刻別れた三人の背中を思い浮かべた。……刹那の時間だが。


「次ッ!!どうした!女一人に臆したのか!!」


降りしきる灰色の豪雨に負けぬよう声を張り上げた。血糊と皮脂とでナマクラになってしまった剣を投げ捨て、先程足の腱を切り裂いた男の傍らに刺さった剣を引き抜き慣れない剣の柄を強く握りしめながら。

劣勢なのは……私の方だろう。多勢に無勢なのは百も承知だ。だが、まだ私は倒れるわけにはいかない。引くわけにはいかない。

私には自ら請け、背負った責がある。民を守るという責務が。そして、私は三人に約束をした。しんがりを勤め上げると。

エリーゼ殿と共にいるのはかの名高き女傑シルベーヌだ。彼女が傍にいるならば追っ手を迎撃するのは容易い事かもしれない。だが、それでも私が引くことは出来ない。許されない。シルベーヌの腕を過小評価しているわけではない。……重いのだ。それだけ。あの男ー……エリーゼの背に乗った命の重さは。

命に優越はない。命に色はない。それは詭弁だ。私はそれを知っている。

私一人死んだところで現実は私の躯を踏み拉き行進を続けるだろう。人一人には等しく一人分の価値しか存在し得ない。一見するとそうだ。だが、違う。例外はあるのだ。

歴史には必ずその時代を動かす人間が存在する。時の激流の只中、渦の中心に位置する人間というものが。そして、あのエリーゼという男は核側に位置する人間だ。私達、多数側ではなく。


「だからあなたは天秤にかけた。自分一人分の命とあの宣教師が背負ったものとを。……あなたらしい。あの男ー……エリーゼは新教徒達の心の拠り所です。エリーゼが討ち取られたとなれば新教徒も旧教の穏健派も黙ってはいないでしょう」


「……貴公は……!!」


「久しいですね、カタリナ。僕が騎士団を出奔して以来、でしょうか?」


ヒタリ……雨音が波紋を描く。常世の影ー……自身の魔を束ね、魔に惹かれ寄る怨嗟を引き摺ってやって来た男の姿と聞き覚えのある声にゾワリと背筋が粟立った。


「……やはり迷わず剣を向けますか」


「ああ。私と今の貴公は敵同士だ。私が刃を向ける理由などそれ一つで事足りる」


「……敵、ですか。一つ忠告しておきましょうか、カタリナ。感情に振り回されるまま剣を奮えば先に待つのは破滅です。”大義”もなしに奮われる暴力が行き着く先としては相応しいと言えるかもしれませんが」


男の黒髪が魔風に靡き踊った。大蛇の様に毒々しい赤の虹彩が縦に開き私の姿を映している。男の左にだけ生えた、伝承に出てくる鬼のような角が雨の中やけに艶めかしく煌めく。

男が結ぶ呪が成立する寸前、私は反射的に体を捻り大きく横へと飛び退き受け身を取った。刹那、数瞬前まで私がいたその空間は常世から生えた無数の、肉を持たない蛇達によって喰らい尽くされていく。隠すことなく私は大きく舌を一つ打った。変わらない。いや、以前にも増して呪が濃くなっている。


「……ふざけるな。この虐殺が貴公ら主導で起こったというならば、弱者を踏み躙り、民を嬲る貴公らの行いのどこに”大義”があるッ!!」


群がる血肉を持たない蛇を真一文字に斬り払い声を荒げた。同僚として肩を並べかつて戦地を駆け抜けた呪術師の男に対して。


「思慮に乏しい人間はある時美味を味わうとその底に毒が潜んでいるとは気付かずに飛びつく。そして、周囲の正常な人間まで飲み込んでいってしまう。悪性の腫瘍と同じです。そして、今この国は深刻な病魔に身を蝕まれている。僕達はその病巣を取り除こうとしているに過ぎません」


風が哭いた。不意にあるいは突然に。奴が呪を完成させたからではない。私の剣の切っ先が奴を捉えたからでもない。そして、押し寄せる暴徒たちの仕業でもない。

私の背後の教会の屋根の上から飛んできた大きな風切羽が付いた矢が、私の頬の横を通り過ぎて奴の上腕へと深々と刺さる。


「進め――ッ!!暴徒達を速やかに制圧するんだ――ッ!!」


騎馬のいななく声が、蹄が土を蹴る音が徐々に近くなる。凛とした、涼やかな女性の声が雨の中で反響していく。仲間の騎士の声が私のすぐそばまで来ている。


「どうやら福音のようですね。僕ではなくあなたにとって。……あちらの首尾はどうでしたか?」


「思惑通りに進んでいる。撤退するぞ」


「ま、待てッ……つぅ……」


一陣の烈風が周囲を包み覆っていく。突如現れた黒衣を纏った男と共に去っていく呪術師を捉えようとして伸ばした手は、男ではなく虚空を空しく一度掻いただけだった。

黒衣の男ー……上位の聖職者だけが身に纏う事を許されているあの衣を着た男の名を私は知っている。……呪術師の名と、同様に。


「カタリナ!大丈夫か!!……キャアッ!か、カタリナ!しっかりしろ!!」


張り詰めていた糸が途切れる。駆け寄って来た無二の親友に身を委ねて私は崩れ落ちる様に意識の手綱を手放した。


「アマダス……バロン……」


二人の存在を示す呪を呟きながら。

意識をなくすその前にどこかで花の匂いがした気がした。


《カタリナ・アレクサンドリア》
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