第2章 ゴイムの虐殺


その時、人々はあなた方を艱難に遭わせ、殺す。

また、あなた方は私の名の為に全ての民族に憎まれる。

その時、多くの人々が躓き、互いに裏切り、憎み合う。

また、多くの預言者が現れて、多くの人々を惑わす。

悪がはこびるので、多くの人の愛が冷える。

しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

また、全ての民族に対する証として、天の国のこの福音が全世界に宣べ伝えられる。

それから、終わりが来る。


【マタイによる福音書 第24章】







「ですからたいした傷では……あの、私の話を聞いてます?」


曇天の雲海の狭間から零れ落ちた頼り無げな灯が、色とりどりのガラスの中を通り教会の床に聖母子の像を浮かび上がらせている。浮かび上がった足元まで伸びる像を刹那見下ろし、私は男の手を取った。手の平の創部の深さを目の当たりにし眉間に自然と皺が寄り、刻まれていくのを感じる。

庭で美しく咲き誇っている花の匂いに混じってこの場にそぐわない鉄錆の臭いをさせていると思えば……これか。


「そんなに難しい顔をなさらないでください。私はほら、この通りぴんぴんしていますよ~……っう!?」


「染みるか?でしょうね。心配するな。私の知り合いが調合した薬湯をかけただけだ。毒ではない」


花と鉄錆の匂いを掻き消す様に薬湯固有の匂いが鼻腔を僅かに刺激する。悪臭ではないが芳香とも呼べない薬固有のあの匂いが。

男が浮かべていた笑みが刹那消えた。あくまで刹那であってすぐにそれも元の人が良さそうな笑みに飲み込まれていったわけだが。

下から視線だけ動かし見上げて、薬湯が入った小瓶と共に常に携帯している白い清潔な布を傷口にあてがった。息を吹きかけ薬湯を冷まし、くるりと円を描く様に少しずつ巻き上げていく。


「手慣れたものですね」


「職業柄日常茶飯事だから。……薬湯を分けてくれた友人曰く、小さな傷口でもそこから目に見えない微小な生物が入り込んで体の中で毒を産出することがあるんだそうだ。実際、引っ掻き傷の様な傷を負っただけなのにも関わらず手足を失う羽目になった同僚を私自身何人も見てきているし……」


いつも私に薬湯を分けてくれる風変わりな科学者の、ミルクを浮かべた紅茶の様な長い髪がふっ、と脳裏を過ぎった。直接彼女に告げたら「薬学は専門じゃない」って突っぱねるだろうけど、彼女の知識と薬には何だかんだでいつも助けてもらっている気がする。……これで薬湯が染みなければもっといいんだけれー……


「……どうかされました?」


「……お腹も怪我をしているのか?」


白い法衣をじわりと汚している線に、ふっ、と目が留まり、手が止まった。先程まで手の怪我にかかりきりで気が付かなかったがー……これは……


「また難しい顔ですか?」


「貴公は器用だな。手ならまだしもこんな場所に傷を作るなんて」


細い銀縁のフレームで縁取られたレンズの向こうにある緑色をした瞳が、すっ、っと聞こえない音を立てて細まっていく。男の傾げた首の動きに連動する様にチェーンがゆらりと動いた。


「ええ、ちょっと悪い芽を摘んでいたもので。その時に引っ掛かれてしまいました」


「悪い芽……?ああ、庭の剪定をしていたのか……そちらの傷は自分で処置してくれ。流石にこの場所で服を脱がせるわけにもいかないだろう」


悪い芽を摘んでいた。

私へ告げた男の手にまだ半分ほど残りがある小瓶を乗せ言葉を紡ぐと同時に飲み込んだ。

貴公が纏っている噎せ返る様なその血の臭いは、本当に貴公一人分の血の臭いなのか、という言葉を音にする寸前で潰して。


「おや?そちらは新たな信徒の方でしょうか?」


「貴公が、イェルド・エリーゼ殿か?」


「ええ、そうですが。あなたは一体……」


教会内に充満し、蟠っていた空気が今までなかった二つの声によって撹拌していく。浅く腰掛けていた椅子から腰を浮かせ、現れた二人の前まで歩を進め、止まり、胸の上に手を置き、一礼し唇を動かした。「私はカタリナ。カタリナ・アレクサンドリア。王宮騎士団の末席に名を連ねる者のうちの一人です」と。


「王宮……騎士……!?教皇の手の者か……!」


「そう警戒しないでください。シルベーヌ殿。確かに私は王宮騎士ですが、今日この場所を訪れた理由は教皇の命を受けたからではありません」


細い体躯の宣教師を背負い、庇う様に前へと進み出た私よりも長身の女性を見上げ言葉を紡ぐ。整った面差しに逆光を受けて淡く煌めく銀糸の髪。髪と対になる様な金色の瞳。……新教の宣教師であるエリーゼには美しいパトロンがついていると聞いた事がある。今、私の目の前に立つ彼女こそが音に聞こえるシルベーヌなのだろう。

金色の瞳に映る自分の姿を見つめ小さく息を吐き出した。猜疑と警戒色に染まる強い視線を全身で享受しながら。

彼女の反応は当然のものだろう。王宮騎士団は名の通り王族に仕える騎士団だがー……実際はそうではない。


「今王宮騎士団を動かしているのは王族ではなく教皇です。貴公も知っているように王女がいるにはいますが傀儡状態ですから。この国を今仕切り動かしているのは教皇に他なりません」


「では、教皇の命でないならば何故この場所を訪れた。旧教徒にとって新教徒は異端者に等しい存在のはずだろう?」


「騎士団に身を置いているからと言って必ずしも信徒というわけではないのですよ、シルベーヌ殿。……単刀直入に申し上げます。エリーゼ殿、貴公には即刻この国を立ち、他国へと亡命していただきたい。あなたは今、この国にいてはいけない人間だ」


今この国は様々な火種を抱えている。その一つがここにある。

急速に信徒数を増やす新教徒達に旧教の枢機卿達や貴族達は危機感を募らせ、弾圧を加えているが、これがいつまでも一方的であるはずがない。


「均衡が崩れる。ちょっとしたきっかけで。そして、貴公はそのきっかけの一つになり得るのです。貴公が討ち取られたとなれば?聡いあなた方ならば容易に察することが出来るはずだ。旧教徒・新教徒の是非問わず多くの血がこの国で流れるでしょう」


これは預言でも神からの託宣でもない。近い将来やって来るであろう、歴史。


「お願いです、エリーゼ殿。貴公が信徒を、いや、真にこの国の民の事を想うならばー……」


瞬間、沈黙が生まれ、弾けた。不意に、突如として。爆音が轟き、ほぼ同時に人々の悲鳴が、慟哭が、怒号がつんざく様に響き渡る。……この臭いと立ち上る黒煙はー……火薬かっ……!!


「ゴイムに!ゴイム共に裁きを!!神の聖なる御言葉を歪め伝える罪深き者達に聖絶の慈悲をッ!!」


「チッ……!!シルベーヌ殿!貴公は優れた武人と聞いている!どうか貴公達でエリーゼ殿を安全なところまで!!」


「アンタはどうするつもりだ!!?」


「しんがりを務める!!この教会は古い建物だが焼打ちにあった時用の隠し通路の一つや二つあるだろう!そこから脱出してくれ!!」


抜身の黒鋼の剣を手に振り返らず怒号を飛ばした。宗教は好かないがこの三人がこの国の民であるという事実は変わらない。そして、私には民を守るという義務がある。

血を血で灌がせるわけにはいかない。彼は、エリーゼは守らねばならない。否、死守せねばならない。

「貴公の命はもはや貴公だけのものではない!いけッ!!」


《カタリナ・アレクサンドリア》
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