第2章 ゴイムの虐殺


使徒として召され、神の福音を告げる為に選び出された救いの御子の僕から、神に愛され召された聖なる人々である国の皆様へ。

この福音は神が預言者を通して聖書の中で予め約束されたもので、御子に関するものです。

御子は肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なるところによれば死者の復活の時から、力ある、神の子として立てられました。これが私達の主です。

私達はこの方を通じて福音を伝える恵みを授かりました。

それは全ての異邦人を、その名に対する信仰による従順へと導く為です。

あなた方もその人々の中にあって、召されて救いの御子のものとなったのです。

私達の父なる神と主からの恵みと平和があなた方にありますように。


【ローマの人々への手紙 第1章】






「抜け目がないな、相変らず」


「人聞きが悪い。それを知った以上大事に至る前にと思ったまでだ」


場末の酒場の梁に染み付んだ香りが鼻腔を擽る。昼間でも人工の灯りを必要とする程度には仄暗く、だがけして常闇に覆われるわけではないこの場所は、今のこの男の立場そのものを如実に表し映し出しているかのように思える。

簡素な作りの木製カウンター越しに男とー……自分の兄である存在と対峙し、肘に顔を乗せると同時に憮然とした思いで言葉を吐き出した。

この男とこうして顔を突き合わせて話せるようになるまでは蟠りはなくなり関係性は氷解しているが……やはりまだ慣れない。思うところがあり過ぎる。もっともそれは兄とて同じ事だろうが。

……大き過ぎたのだ。互いの間に存在していた澱が、轍が、怨恨が。そしてそれはあまりにも長い時間存在し続けていた。自分達だけではどうする事も出来ない程度には。


「……子供達は?」


「出掛けたようだ。案ずるな、子供の足でそう遠く行けるようなものではない。それにアルに子守りをするように伝えてある」


兄が紡いだ名前にヒクリと目尻が瞬間、僅かに引き攣り上がった。時間にしては刹那だったが目敏いこの男がそれを見逃すはずもない。証拠に喉の奥で声を押し殺し笑んでいる。「心配する必要はない。あれはあれで子供には甘いし、懐かれてもいる」と言葉を続けながら。


「生来の形質が仇になって今日も纏わりつかれているだろうがな。あいつは根が真面目過ぎる」


「真面目、か。まあ、確かにお前が言う通りだろうな」


この男が自身の養子として引き取った青年を脳裏に描き首を静かに横へと振った。咽返る様な、隠しきれない死臭と絶望を纏った青年は善良とは言えないだろうが、少なくとも子供の様な目に見える弱者に害を及ぼすような事はないだろう。

キシリ……と薄い板張りの廊下が不意に小さな悲鳴を上げた。子供達のものでない事はすぐに分かった。あの子らが来たにしてはあまりにも静か過ぎる。それにー……


「ほらよく似合ってるんだからそんなに恥ずかしがらなくても大丈夫ですよ~」


「しかし……!」


足音に続いて徐々に近付いてくる声に顔を上げてそちらへと視線の矛先を移せば、手を引かれ顔を扉を潜る彼女の姿があった。

にこにこと破顔している義理の姉とは対照的に俯いている彼女の表情はこちらから窺う事は出来ないが、彼女の言動と普段けしてしない恰好を見れば察するのは容易い事だった。……何より隠れていない耳が朱色に染まっている。


「リリス、お前の服か?」


「違うよ~。ゼムリャさんにいつか着てもらおうと思って作っておいたものなの、このワンピース。折角のお祭りだから着てもらおうと思って」


兄夫婦が交わす会話を横耳で聞きながら椅子を引き立ち上がった。明らかに狼狽えている彼女へと近付き、やはり朱色で顔を染めている彼女の刹那見下ろして、白くほっそりとした手を取った。「よく似合っている」と告げると同時に。


「夕刻までにはここに戻る。悪いがそれまで子供達は任せた」


「もっと遅くても構わないが?そうしてもらった方が俺としてもリリスと二人でゆっくりする事が出来る。子守りをしているのはアルだからな」


三日月型の弧を口元に湛えて言い切った男を一瞥し、彼女の手を引きながら踵を返した。こちらも僅かに口角が釣り上がってしまったのは兄に釣られたから、だろうか。






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「このぬいぐるみは子供達が喜ぶと思って見ていただけであって、別に俺が欲しいと思ったからじゃ……!」


「お前の口からその台詞を聞くのも今日だけで既に三回目だな」


薄紅色に色付いた花弁がガラス戸の向こう側で舞っている。散り始めだがまだ十分見頃である春の象徴である花を瞬間目に留め、すぐに彼女へと視線を戻した。


「初日でも最終日でもないのに凄い人だな。……少し酔った」


「これでも一番賑わっている繁華街からは離れているが、な」


俺が発した言葉にギョッとした表情を浮かべて、その表情を誤魔化す様に自分の手元へと運ばれてきた茶に口をつける彼女を見つめ喉の奥で笑みを押し殺した。

繁華街から十分離れているこの場所ですらこの人出だ。仮に彼女の中に中心街へ赴きたいという思いがあったとしても既に萎えてしまっているだろう。……そうでないにせよそちらに向かうつもりは毛頭ないが。


「……何を企んでいるんだ?」


「企む?何を?」


「あなたの事だ、何か考えがあって屋敷から俺や子供達を連れ出したんだろう?……それに毎年祭りの時期は使用人達に休暇を言い渡しているのに今年は休暇を許可していない。百年祭という節目にも関わらずー……ん?!」


「甘いか?」


「それはチョコレートパフェだから甘いのは当然ー……そうじゃなくて!ミゲル!」


整った面差しに影を落として、鋭い指摘をし始めた彼女の思考を遮る様にパフェをスプーンで掬って一口彼女の口へと運んだ。こくり、と白い喉を鳴らして咀嚼し、目を丸くしている彼女に続いて自分もそれを口にして言葉を紡ぐ。「甘いな」と。


「それで?何の話だ、ゼムリャ?」


「もういいです。ミゲルがそうやってはぐらかす時は言ってくれないって知ってるから」


拗ねた様に頬を膨らませた彼女にもう一度口を開くようにと促し、クリームを運びながら告げた。「約束していたからな。だからお前を連れて来たんだ」と、屋敷を空けた理由の半分を告げて。


「……約束?そんな約束していたのか?」


「ああ、確かに。だから、二人で食べてみたかった」


少し解けかけたアイスとチョコレートソースが容器の中で混じり合っていた。そして、俺はどこか懐かしい想いでそれを見つめて辿っていた。

覚えていなくてもいい。俺が覚えている。正確に言うと思い出した、だが。

あの日と変わらない人の自分とは真逆の色をした髪へと触れてそっと耳へとかけた。俺がいつか贈った耳飾りを右耳へ付けてくれている彼女が何よりも愛おしく思えてならなかった。


「変なミゲル」


「今更何を。今に始まったことではないだろう?」


古びた純喫茶のレコードが流すケルトの音色が、サイフォンが沸かすコーヒーの音が鼓膜を揺らす。その音色と共に彼女が紡ぐ言葉を聞いていた。

俺は今まで自分が思った通りに生きて来た。後悔などない。一度も、な。……そして、これからも。

この女と、彼女と共に生きていく。それが俺が出した唯一解。この先の曲がり角で何が待ち受けていようとも。


「……ミゲル?」


さらり、と何よりも愛しい人の髪が動く。もう一度手櫛でその髪を梳きながら口を動かした。


「俺は幸せだ、ゼムリャ」


お前とこうして共にいられることが。

お前にこうして触れられることが。

そして、またお前と巡り合えたその事実が、何より尊い。……そう思っている。


≪ミゲル・ナザレ≫
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