第2章 ゴイムの虐殺

さて、救いの御子は弟子達の足を洗い終わり、上着を着て、再び食事の席に着くと仰せになった。

私があなた方に行った事が分かるか。あなた方は私を「先生」とか「主」と呼ぶ。そのように言うのは正しい。その通りだからである。

そこで主であり、先生であるこの私があなた方の足を洗ったからにはあなた方も互いに足を洗い合わなければならない。私があなた方に対して行った通りに、あなた方も行う様にと模範を示したのである。

よくよくあなた方に言っておく。僕はその主人に勝らず、遣わされた者は遣わした者に勝らない。この事が分かっているなら、そしてそれを実行するならあなた方は幸いである。

私はあなた方についてこう言っているのではない。自分がどんな者達を選んだかを私は知っている。

しかし、「私のパンを食べている者が私に向ってかかとを上げた」という聖書の言葉は成就しなければならない。事が起こる前に、今から私は言っておく。事が起こった時に、「私はある」をあなた方が信じる為である。

よくよくあなた方に言っておく。私が遣わす者を迎え入れる人は、私を受け入れるのであり、私を受け入れる人は私をお遣わしになった方を受け入れるのである。


【ヨハネによる福音書 第13章】






「寒い……」


「アル?寒いのです?上着はどうしたのです?」


「……盗られた」


「はあ、盗られた?誰に?」


「この前の女。ほら、祭りの初日、お前とドロップと屋台のとうきび食ってる時に変な女が通って行っただろ?そいつが持ってっちまったんだよ」


くしゅり、と一つくしゃみが繁華街の大通りの空気を揺する。上着なしでは少々肌寒い海からの風に当てられながら愚痴を溢し鼻の下を人差し指を使い擦った。

祭り初日に失くしてしまった上着を思い出し大きく肩を落とす。上質な布を使っているわけでも豪奢な刺繍が施されているわけでもない何の変哲もない枯葉色のジャケットは俺の気に入りの一張羅だったんだが……それに着やすかったしと頭の中で一人ぼやき、重い足取りでまた一歩歩を踏み出し道を踏み締める。


「他にジャケットはなかったのです?」


俺と一緒に通りを行く二人の人間のうちの一人、妹分であるチョコリエールの長い髪がその問いと共にサラリ、と動いた。パチリパチリと不思議そうに瞬きを繰り返す彼女の髪と同色の大きな茶色の瞳を横目で見つめて、大きな息を吐き出し言葉を濁す。あるにはある、と。


「あるにはあるのです?着て来ればよかったのに、です。今日は花曇りで肌寒いのです。アルが風邪引いちゃうのです……!」


「いや、あるにはあるんだけど……母さんが買って来たものなんだ……」


片手で少々痛む頭を支え徐々に小さくなる声で言葉を紡げば、それぞれ高さが異なる「あー……」という声が返って来て、そんな物分かりがいい昔馴染み二人の反応に今日何度目になるか分からない大きな溜息を肺の底から吐き出した。

自慢じゃないが俺の母さんのセンスは独創的だ。そして、人は母さんのそのセンスを壊滅的だと評価する。俺も異論はない。この前母さんが買ってきてくれたシャツの柄は何か吐き出している猫だったし、ジャケットはラメ入りのヒョウ柄だった。しかも、地味にジャケットの裾が短い。絶妙に短い。


「あいっかわらずだな……お前んちのおふくろさん……」


「善意で買ってくれてるっていうのは分かるんだが……外に着ていけねーよ。着こなせねーよ」


「よく似合ってるよー」と朗らかな笑顔で買って来た服に袖を通した俺を見つめていた母さんを思い出して再び肩を落とす。純度100%の善意からそうしてくれていると知っているだけに無下に扱う事は出来ない。

ちなみに父さんは母さんとは違う意味で笑い転げていたし、そんな父さんの膝の上では何のことか分からないが取り敢えず笑っておけ理論でチビどもがはしゃいでいた。唯一同情的な視線をくれたのはうちに下宿している兄貴分だけだ。

平和ダナーと棒読みが自然に出て来る程度にはあの家はいつだって平和そのものだ。


『私はお前達を別の次元の輩だと思っていた。実在していたのだな。礼は言っておく。が、私に楯突くようなら……私の『騎士様』が黙っちゃいないだろう。せいぜい、気を付けるがいい』


不意に蘇ったあの日高慢女が吐いた言葉が痛みを加速させていく。腹どころか腸がが煮えくり返る様な不快な言葉を思い出し奥歯を強く噛み締めた。


「あの女、今度見つけたらジャケットと一緒に使用料も請求してやる……ッ!」


「まあ、いいじゃねーか。あの人も困ってたんだろ?身一つで奴隷市場から逃げて来たんだしな」


「あー……うん。そういう設定だったな。うん」


大きく頭を後ろ手に掻きながらあの日自分が持った設定を思い出す。「せってい……?」と首を傾げる親友に、何でもないと言葉を返して、先程露店で買っておいたイチゴ飴をチョコへと手渡して、人でごった返す祭り最終日の通りを行きながら。


「……ルフィール?そのチラシ貰ったのです?」


「ん、ああ。さっき貰ったんだよ。中々興味深い事が書いてあるぞ。アルとチョコの分も貰っておいたが読むか?」


イチゴ飴がなくなり手隙になった手にガリ板刷りのチラシを受け取りそこに刷られた文字を目で追い頭の中で読み上げた。……なるほど、これは確かに興味深いと思いながら。


「”神が存在するなら人間は奴隷だ。人間は自由でありえるし、またそうでなければならない。結論として神は存在していない”……です?」


頭の中ではなく口に出して読み上げたチョコに、ルフィールは燃え上がる焔の様な頭を縦に下げた。力強く拳を握りしめながら。「その通りだと思わないか?」と言葉を続けながら。


「……宗教はある種の精神的な安酒だからな」


「ああ、アルの言う通りだ。宗教の中で資本の奴隷どもは自分の人間的尊厳と欲求を何とか人間らしいものになる事で忘れるんだ。宗教はそれこそ阿片だ。そして、阿片で狂った者達が弱者を踏み躙っている」


この国の危うさは下層にいる俺達にもー……いや、俺達だからこそ肌で痛感している。

貧困はけして珍しいものではなくそこかしこに溢れ返っている。

政情不安定の煽りを真っ先に受けるのはいつだって最下層の者達だ。

宗教は安酒で麻薬だ。上層の人間のみならず下層の人間の精神をも麻痺させる。不平等を生み出している原因でありながら、な。


「必要なんだ、改革が。誰かがこの国の腐った膿を取り除かなくちゃならない。いや、誰かを待っているだけでは駄目だ。俺達自身がー……」


ルフィールの声が突如遮られた。ルフィール自身が口を噤んだからではない。突如生じた爆発音とそして人々の上げる悲鳴が彼の声を塗り潰していく。


「な、何が起こったのです!?」


脅えるチョコの小さな体を咄嗟に引き寄せて背中に庇い「ルフィール!!」と親友の名を叫んだ。半狂乱で逆走を始めた人々の間を縫って飛び出して行ってしまった親友の背を、そしてその先に立ち上る煙の柱を見つめながら。


「ゴイムどもを……!!神の栄光に目を背ける者どもに聖絶を!!これは神の裁きである!!異教徒と無神論者達に聖絶の慈悲をッ!!」


風に乗ってどこの誰とも分からない者の怒号が響いた。ゴイムー……それは旧教に属する人間達がそれ以外の人間を差して用いる言葉だった。

血に塗れ逃げて来る者の姿に腕の中にいるチョコが小さな悲鳴を上げた。流れて来る人に逆らい飛び出していった親友を思い出し、刹那、瞳を閉じ、解放した。腕を解き、「一人でも明けの明星亭に帰れるな?」とチョコに告げながら。


「アル……!!どこへ行くのです!!そっちに行っては駄目なのです……!!」


「ルフィールを追う!!一人じゃ何するか分からねえ!!お前は先に帰るんだッ!!」


新教勢力に自由を認める勅令が下される事を畏れた旧教側の暴徒が引き起こしたこの事件は後にゴイムの虐殺と呼ばれるようになる。

そして、これがこの国を長く蝕む泥沼の内戦の始まりを告げる狼煙だと知るものは誰一人としていなかった。


≪アルフォート≫
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