第1章 百年祭

よくよくあなた方に言っておく。羊の囲いの中に門に入らず、他のところを乗り越えて来る人は盗人であり強盗である。

門を通って入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。

羊飼いは、自分の羊をそれぞれの名で呼んで連れ出す。自分の羊を全て引き出すと、先頭に立って行く。羊は、羊飼いの声を知っているのでついて行く。

羊は他の人には決してついて行かず、その人から逃げていく。他の人達の声を知らないからである。

御子はこの喩えをファリサイ派の人々にお話になったが、彼らは御子が自分達に話しておられる事が何の事か分からなかった。

そこで、御子は再び仰せになった。

よくよくあなた方に言っておく。私は羊の門である。私より先に来た者はみな盗人であり強盗である。

しかし、羊は彼らの言う事を聞かなかった。

私は門である。私を通って入るなら、その人は救われる。また出入りして牧草を見つける。

盗人が来るのは盗み、殺し、滅ぼす為に他ならない。

私が来たのは、羊に命を得させ、しかも、豊かに得させる為である。


【ヨハネによる福音書 第10章】






青い月が朝焼けを隠している。宿舎へと通じる石の回廊を染め上げる月を見上げながら長いー……本当に長い息を肺の奥の奥から吐き出した。


『急速に成長する新教徒に対し教皇は厳しい弾圧を加えてはいるが、商工業者層を中心に貴族へもその信者を広げている事は貴様も重々承知しているだろう』


『商工業者の様なプロレタリア階層が勃興し、更に王権は不安定な状態だ。疑心暗鬼となった貴族達が互いに党派を作って争っているが、そこに宗教というイデオロギーが上乗せとなり結び付いている』


先程聞かされた事実が、すぐそこまで来ている現実が私の頭を蝕み締め上げる。痛む頭を片手で支えて一歩また歩を踏み出した。まだ明けぬ夜の回廊に自分の奏でる足音がコツリ、コツリと響いていた。

あの御方の話を疑っているわけではない。いや、そもそも疑う余地すらないのだ。むしろ、やはりという思いばかりが先行し勝っている。それほどまでに蓄積しているのだ。民衆にもそして貴族にも。不満が、そして不安が。

城下に繰り出すために痛感させられる各地のイデオロギーの異常なまでの高まり。それはいつ弾けてもおかしくない水風船の様なものだった。いや、既に一部では決壊しているとも聞く。

はち切れんばかりに膨れ上がったイデオロギーは狂気とほぼ同義だ。そして、一度血が流れてしまえばそれを濯ぐものはまた別の血に他ならない。


「避けなければ、なんとしても……それだけは……」


朝焼けのシジマに溶けて解けていく言の葉を見送り手の平を強く握り締めた。私にどこまで出来るか、それは分からないが、だがー……


「あっ!」


冷たい石の螺旋階段を降り切ったー……その時だった。見慣れた金の長い髪を私に瞳が捉えたのは。朝と夜の端境の光を受けて煌めき踊る大好きな金の髪。金の絹糸。気が付けば私は廊下を強く蹴り駆け出していた。その人の体を抱きしめるその為に。


「お疲れさま!あなたも今帰ったの?」


「カタリナ!?こんなに遅くまでどこに行っていたんだ?!いつまで経っても宿舎に戻って来ないから私はー……」


「……心配かけちゃった、かな?ごめんなさい仕事の話が思った以上に長引いてしまって」


同僚の女騎士の、私とは違う柔らかな髪が首筋を優しく擽る。クスリ……と笑みを溢して彼女の柔らかな体から自分の体をそっと離した。

私の同僚で、仲間でー……一番の親友。宿舎で彼女の顔を見ていると帰って来たんだなってそう思って肩に乗っていた重たいものがすっと降りて軽くなるの。もっとも、今笑っているのは私だけで彼女の眉間には皺が刻まれているのだけれども。


「……こんな時間まで仕事の話か?」


「ええ。ちょっと厄介な事になりそうで……しばらくの間留守にすると思う。大丈夫、心配しないでヘマはしないから。……それより?」


頭を垂らし俯いて綺麗な新緑の瞳を隠してしまった親友の顔を体ごと首を傾げて下から覗き込んだ。「それよりもあなた、またカタリナって呼んだわね?」と、私も僅かに眉間に皺を刻みながら。


「あっ!いや……すまない。その…愛称というものには慣れなくてな」


「私、あなたにはケイトって呼んでほしいんだけど……駄目、かな?」


緑の、見る者に新緑を思い出させる瞳が私の紡いだ一言によって惑い迷って揺れている。……あまり困らせるのも良くない、かな?彼女、真面目だから必要以上に重く考えちゃう癖あるみたいだし、ね。


「分かったわ、許してあげる。でも次は愛称で呼んで。ね?」


「ぜ、善処する」


「うん……!」


湧き出した気持ちが瞳を、口元を彩った。ゆるりと優しい弧が浮かぶのを感じる。やっぱりほっとするの、彼女とこうしていると。彼女の声を聞くと。


「明日はあなたも仕事だったわよね?あなたも気を付けてね。最近嫌な話ばかりだから」


青い夜が明けて新しい朝がやって来る。乳白色に薄い薔薇色を差した様な空を親友と一緒に見上げて大きな欠伸を一つ零した。

明日の昼前までには着きたいけれど……ほんの少しぐらい寝ても罰は当たらないといいな……と、ぼんやり半分寝ている頭で考えながら。






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「ここがその教会か……」


霞けぶる蒼穹へと吹き抜ける風が砂埃と共に薄紅色した花弁を巻き上げる。天へと昇る不可視の風を見送り空から地面へと視線の先を戻した。

春風に撫でられて花が揺れている。春を告げる花々が。手入れが行き届いているという事が一目で分かった。瑞々しい肉厚の花弁を持つ花達が私を見てと咲き誇っているのだから。

チラリ、と視線を自分の肩へと一度向けて小さく息を溢した。酷く曖昧な笑みと共に。

自分の枯れた羽根を恥だと感じた事は一度もないが、少しだけここに咲く花達が羨ましいと、そう思ったから。


「何か御用でしょうか?」


「ひゃあああああ……!」


不意に生じた今までなかった低い声に自分の口から、自分でも情けないとしか言えない声が零れ落ちる。ゾワリとした何かが背筋を一気に這い上がって体の力が抜けてしまって、気付いた時にはへたりと地面にお尻が付いていた。


「驚かせてしまいましたか?」


「あっ、いや……その……すまない。あまりに綺麗に咲いていたものだからつい見てしまって」


「いえ、いいんですよ。……立てます?」


「え、ええ。少し驚いてしまっただけなので」


はじめて見る緑の瞳が弧を描く。男が浮かべた穏やかな笑みに私は気付かれぬ様に胸を撫で下ろし立ち上がった。……先程感じた悪寒はやはり不意に話し掛けられた事によるものだろうと一人結論付けて。……普段は急に話し掛けられても腰を抜かすような事はないのだがー……任務に緊張しているせい、だろうか。


「それで?」


「えっ?」


「教会に何の用かと。お祈りですか?」


「あっ、違っ……その……すまない。私はカタリナという。カタリナ・アレクサンドリアだ。貴公に尋ねるがここはイェルド・エリーゼ殿の教会で間違いないな?」


「ええ、そうですが……」


「エリーゼ殿とお話したい事がある。至急取り次いでいただきたい」


血が流れる。それも決して少なくない量の血が。

先程、あのギルドで天青に対し紡いだ自分の言葉が蘇っていく。血を血で洗わせるわけにはいかない。それだけは避けなければならない。


「頼む」


深々と頭を垂らし、目の前の男に言葉を紡いだ。その為に、新教の格たる宣教師と話をする為に私は今日ここへ来たのだから。


≪カタリナ・アレクサンドリア≫
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