第1章 百年祭
善い木は悪い実を結ばず、悪い木は善い実を結ばない。
木はそれぞれの実によってわかる。茨からいちじくは収穫できず、野薔薇からは葡萄は摘めない。
善い人は心にある善い倉から善い物を出し、悪い人は心にある悪い倉から悪い物を出す。
口は心に溢れる事も語るものである。
あなた方は、私を『主よ、主よ』と呼びながらどうして私の言う事を行わないのか。
私の元に来て、私の言葉を聞き、それを実行する人がみな、どういう人に似ているのか、あなた方に示そう。
それは地を深く掘り、岩の上に土台を据えて家を建てた人に似ている。
川が洪水となって、その家に押し寄せても頑丈に建てられていたので家はびくともしなかった。
しかし、聞いていてもそれを実行しない人は土台もなく土の上に家を建てた人に似ている。
川が押し寄せると、家はたちまち倒れ大きな被害を受けた。
【ルカによる福音書 第6章】
「うーーー……」
「どうした、ドロップ?」
「ルフィールにいちゃーん……トウモロコシ歯に詰まったー……」
「あー……確かに挟まりやすいな、これ」
石畳の通りと通りを繋ぐ石段に腰掛け、なくなった酒場のゴミ袋の代わりに手に持ったまだ熱いとうきびを前後に振り言葉を紡げば、「気になるー」といういやに間延びした声が一つ返って来る。そんな声を漏らしている奴へと視線の矛先を移せば、話を聞いているんだかいないんだか……小さな短い前足を器用に使い歯に挟まったトウモロコシの皮を取り出そうと悪戦苦闘し転がっているドロップの姿があった。
「ハハッ……!相変わらずだな、ドロップは」
「まあなー」
「むう……!なんでルフィール兄ちゃんもアルフォートも笑うのー?ぼくは真剣なんだよー!!」
「真剣だから、だな。んーーうめえ……!朝飯食べ損ねてたから助かるわ。さんきゅールフィール」
カラカラと笑い声を路地に響かせて天を仰ぎ舌鼓を打つ。ルフィールから貰ったドロップが今食べているものと同じよく焼かれたとうきびを一口齧れば香ばしいソースとバターの匂いが鼻腔を抜け肺を満たし空きっ腹に沁みて充ちていった。うん、美味い。
母さんの料理食えなくなっちまったのは残念だけど……正直、今帰ったら飯どころじゃなさそうだしな。父さんと母さんの事は嫌いじゃないがもっとそこらへん配慮してもいいと思わざるを得ない、言わないが。何をされるか分からないからな。誰に?父さんにだよ!!
「平和だね~」
「……」
トウモロコシとの戦いに終止符を打ったのだろうか?丸めていた四肢を解す様に前後へ伸ばし呟いたドロップの声に、俺もそしてルフィールも食べる手を止めた。瞬間あるいは刹那、沈黙が蟠り轍を、澱を生み出していた。
「本当にそうか?平和か?」
沈黙の轍が、刹那の均衡が破れて砕け落ちる。押しつぶした様に小さな、だが強い意志が込められたルフィールの低い声を横で聞きながら俺は瞳を細めた。あいつと同じ方向に視線を向けて、吹き溜まりの路地裏のさらに奥ー……やせ細り針金の様な手足とそれとは不釣り合いに膨れた太鼓の様な腹をした体を寄せ合い、暖を取り合い、日用の糧を得る為に小銭をせがむ餓鬼達を見つめながら。
国の建国とそしていつか来る救いの御子の復活を祝う百年に一度の祭り。春の本格的な訪れを告げる薄紅色をした花弁が蒼く霞がかりけぶる空へと舞い上がる。道行く者は足を止め、あるいはその木の下で酒を仰ぎご馳走で腹を満たす。今日と明日の幸せを疑わずに。人は青空に、陽光の下で笑い声を響かせていた。これは紛れもない現実だ。
だが、一方で今夜の夜露と風をしのぐ場所もなくパン屑一つ口にする事も出来ず泥水を啜り腹を満たす者達がいるのもまた現実。この国の真実。
光が強まれば後ろに出来る影が濃くなっていく。
希望と共に絶望が、そして悲しみと共に栄光が。
相反する、だが鏡像の現実がこの国にはある。
俺もルフィールも、チョコリエールもドロップも、一つボタンを掛け違えていれば糞掃衣を纏っていたんだ。
齧りついた実がなくなったトウモロコシの芯を足元へ放り投げて社会の受け皿に入れずに溢れてしまった者達を、この国の暗部を、影を見つめていた。
「泥棒ッ!!」
「何!?……!あいつか……!」
「待ってよー!ルフィールにいちゃーーん!!」
「お、おい?!ルフィール!ドロップ!!」
そんな時だった。不意に生じた悲鳴にもよく似た声が通りの空気を乱したのは。声から少し遅れて俺達の前を速度を上げて通り過ぎ人ごみの中へと消えていった怪しい男を見るや否や立ち上がり、そして後を追いあっという間に消えていってしまった親友の背中を溜息と共に見送った。「またか」そんな思いを息へと溶かして。
ルフィールは困っている人間を放ってはおけない人間だ。誰かが、弱者が困っていたら真っ先に駆けつけて誰よりも早く手を差し伸べる。ごく自然に、ごく当たり前にあいつは人に善意を贈る事が出来る。……俺には出来ない事を息をするようにやってのける。俺にないものを持っているんだ。そんなあいつが俺はー……
「ん?」
光がほとんど差さない吹き溜まりの通りに輝く光が靡いた。太陽の光を宿した上質な絹糸の様な金糸が軌跡を描き靡いていく。この女が先程悲鳴を上げた人間か?ほんの数十秒前目の前を通り過ぎていった男同様全速力で駆けて通り過ぎて行こうとする女を、俺は……
「ちょっと待て」
「はっ……?」
強い光を宿した金の髪によく映える青の瞳が俺を下から睨みつけていた。当然だ、始めて会った赤の他人の腕を俺が掴んでいるんだから。
「痴れ者!!この薄汚い手を離せ……!きゃあっ……!」
「悪い事は言わないからこれ被ってじっとしてな。あんたのその恰好ここじゃ目立つんだよ」
猜疑と敵意を浮かべた瞳とそいつが纏う服を刹那見下ろして自分が着ていたジャケットを小さな頭を覆う様に被せた。地味だが見るものが見れば上物だと分かる衣服を纏った世間知らずな女の頭に。
どちらにせよ悪目立ちはしてるが何もしないよりはマシだと算段をつけて。……それにこうしておけばルフィールへの言い訳も楽だしな。
「あんただろ?さっきの声。心配しなくても今俺の仲間が財布をスった男を追いかけてる。……っと、ほらな」
「あの野郎……人の持ち物に手を出すなんて……ん?アル、その女は……?」
「その財布の持ち主だとよ」
燃える焔の様な赤毛を後ろ手に大きく掻いて人ごみの中から戻って来たルフィールとドロップを片手を上げ迎え入れて言葉を紡いだ。思った通り、女の姿を見るや否や、深々と刻まれた眉間の皺を見つめながら、な。
「随分上物な服を着てるんだな、その女」
「ん?ああ、奴隷市場から逃げて来たそうだから当然だろ。ブルジョワ階級がよくやってんだろ?”お楽しみ”するためにな」
放物線を描き財布が落ちる。今だジャケットで視界が覆われている女の代わりにルフィールが投げたそれを受け取ってでまかせを紡いだ。
「……なんだそうだったのか。俺はてっきりあんたがブルジョワ層だとばっかり……!すまねえ!」
パァン!!と一つ乾いた音が吹き溜まりの空気を揺らす。顔の前で柏手を一つ打ち頭を深々と垂らし謝罪の言葉を口にする親友を、親友に気付かれない様に心の中で安堵の息を一つ吐き見つめた。
上層でブルジョワ層が労働者階級であるプロレタリア層がを差別する様に、下層ではプロレタリアがブルジョワへ軽蔑と敵意を向けている。まして、ここは貧民街だ。ルフィールの反応はここに生きる者なら当然の反応だった。俺だってこの場所に生きる人間の一人だ。ルフィールと同じ、な。
肩を大きく下に落として澱む空気を一つ吸った。俺のジャケットを被り口を閉ざす女の手を取り歩き出す、その直前に。
「んじゃ、こいつ安全なところまで送って行くわ。この服装でこのままここにいたんじゃ何があるか分からねーし」
「アルー、一人で大丈夫ー?」
「お前じゃあるまいし……心配すんな、ドロップ」
空いている方の手で空を切り背中越しに二人へ言葉を送り歩を踏み出し歩き出す。「んじゃ、また後で」と続けて。
ブルジョワ層にいい感情なんて欠片もない。持ち合わせていない。普段なら間違いなく庇う事なく捨て置いている。気まぐれ、なんだろうな、これは。
だが、気まぐれとは言え手を出してしまった理由、それはー……酔っているのかもしれない。他の者たち同様に、俺も。浮足立つ周り同様に。百年に一度のこの祭りに。
≪アルフォート≫
