第10章 変化・第11章 家族


さて、御子はこの人々の群れを見て、山にお登りになった。そして、腰を下ろされると弟子たち近寄ってきた。御子は口を開き、彼らに教え始められた。

「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人達のものである。悲しむ人は幸いである。その人達は慰められる」

「柔和な人は幸いである。その人達は地を受け継ぐ。義に飢え渇く人は幸いである。その人達は満たされる」

「憐れみ深い人は幸いである。その人達は憐れみを受ける。心の清い人は幸いである。その人達は神を見る」

「平和をもたらす人は幸いである。その人達は神の子と呼ばれる。義の為に迫害されている人は幸いである。天の国はその人達の為のものである」

「私の為に人々があなた方を罵り、迫害し、またありとあらゆる謂われのない悪口をあなた方に浴びせる時、あなた方は幸いである。喜び、踊れ。天におけるあなた方の報いは大きいからである。あなた方より前の預言者達も同じように迫害されたのである」


【マタイによる福音書 第5章】






黒煙が北風に棚引く。あの虐殺の日と同じように白い染み一つない、底のない青に吸い込まれて墨を落とした時のようにじわり、じわりと蒼穹を汚していた。


「テレーズさん!アガタさん!」


「アルさん……!?どうしてここに!?」


「あら、遅かったじゃない。……そちらの子は?修道院にあなた達と一緒に来た人たちの中にはいなかったわよね?」


「ここに来る途中で合流しました。彼も救援活動を手伝ってくれるそうです」



焼け落ち炭に変わった黒い柱を、焼け焦げた崩れた瓦礫の山を踏みしめ、踏み越え進む。足を進める際に崩れ落ちた瓦礫がガラリ、と耳障りな音を奏でた。

その音が彼女達の耳のも届いたのだろう。白と赤と、それぞれ違う、ここ数日の間ですっかり見慣れた二人の修道女のヴェールが風を受けた時とは違う動きで揺れ動く。振り返り俺達の姿を確認すると一人は酷く驚いたように口元に手を当て青い目を見開き、もう一人は来る事は分かっていたと言いたげに灰色の瞳に緩やかな弧を描いた。


「お初にお目にかかります。ウィル……ウィリアムと名乗っている者です。この度の状況を見、馳せ参じました。微力ではありますが私にも救援活動を手伝わせてください」


「その身なりは貴族の方ね。ここは貴族の居住区からは離れているわ。犠牲者も貴族ではなく平民ばかりよ。あなた達上流階級の者からしたら人ならざる者達ばかりだけど……それでも?」


瞳に弧を描いたまま視線を動かし少年の姿を捉えると、穏やかな声で彼女は言葉を紡いだ。酷く穏やかな、子供に諭すかのような表情や声色だが、彼女が尋ねた問いの内容はけして穏やかなものではない。

”人ならざる者”それは俺達の事だ。ウィルと名乗った少年から見た俺や彼女達、そして今ここで救援を待っている者達の事だ。ここに来る途中、馬車から飛び出して来た事からも分かるようにこの少年は間違いなく上流階級の人間だろう。それも、かなり高位の。

平民と貴族とは流れる血が違う。そう言う貴族がいる。俺自身も聞いた事がある。

透けるような一切日に焼けていない青白い肌に浮かび上がる青い静脈ー……貴族には高貴な青い血が流れているのだ、と。


『青い血、ね。いいかい、アル?よく見ておいて』


『お、おい……!リック……!』


ポツリ、と一滴、瓦礫の上にそれが落ちた。

彼が自分の指先を護身用のナイフで傷付けるのと同時に。あの日、リックが俺に見せた時と同じように彼の指先に血が滲み、赤い血が腕を伝い流れて行く。俺達が怪我した時に流れるものと同じ色をした血が流れ、滴り、落ちた。


「有事の際には助ける順序が必要。僕もそれは否定しない。だけど、その順序を決めるのは傷病者の重症度、ただそれだけだ。けして身分の貴賤ではないはずです。あなた達はいつでもそうだ。持つ者は自分達と違うと区別し、差別する」


『持つ者が持たざる者を排斥するのと同じように、持たざる者も持つ者を排斥する。でも、違うだろ、アル?』


何故だろう。ついさっき初めて会った人間のはずなのに……見ず知らずの他人のはずなのに……被って、ダブるんだ。ウィルと名乗ったこの小柄な少年と親友のリックの背中が。こいつの背中の向こうにリックがいる。誰なんだ……お前は……?


「そう。なら遠慮はいらないわね。この周辺のトリアージは私とテレーズの二人でもうしてあるの。だから、あなた達はまだ助かる可能性のある息のある人達を……」


アガタさんの唇が微かに動く。一度閉じた瞳を薄っすらと開けて彼女が言葉を紡いだ、その瞬間ー……爆発、だった。けして遠くはない場所から轟音が響いたのは。


雲一つない青空から雷によく似た音が轟き大気を震わせる。ここにいる誰もがそのけたたましい音に瞬間時を止められ、瓦礫の上で縫い合わされたかのように立ち竦んだ。ただ一人、ウィルと名乗った少年だけが、何かに取り憑かれたかのように大きく目を縦に見開いて弾かれた様に駆け出していた。


「っう……!駄目です!まだ続けて爆発が起こらないとは……アルさん……!」


「止めればいいんだろ!!?テレーズさん、アガタさん!そいつの事頼みます!性格は厄介だけど悪い奴じゃないんで!!」


「私達も後から行くわ!気を付けて!まだ終わったとは限らないわ!」


俺と同行してここまで来た金髪女の背中を軽く押して二人に預けた。ここから先に行くには一人の方が身軽に動けるし何より……危険だ。色々癪に障る人間だけど怪我をして欲しいわけじゃない。違う……させたくない、か。

女が振り向く刹那、俺は瓦礫の山を蹴り上げ身を躍らせた。着地すると同時に全力で足を動かし肩で風を切る。ウィルが向かった方へ走って。煙が、火薬の匂いが咽返る場所へ向かって。

大丈夫だ。もう大きな爆発はあれでおしまいかもしれないじゃないか。そうそう大きな火薬を運べるもんでもない。不幸は避けて他のどこかに行ったはずだ。そう自分に信じ込ませようとしていたんだ。頑なに。

不幸は通り過ぎたはずだ。なのに、なんで、どうしてこんなにも心がざわつくんだよ!!


「ウィる……?」


「……っそ、だ……」


だらり、と腕がだらしなくぶら下がっていた。前後に力なく慣性で揺れている。ウィルの腕の先からもう一本腕がぶら下がっていた。見覚えのある家紋が彫られた指輪をはめた見覚えのある千切れ吹き飛ばされた腕を持って一言、二言、瞳を見開いたまま彼は、譫言を繰り返していた。壊れたおもちゃのように。

ふわり、北風が傍らを横切っていく。あざ笑うかのようにもしくは慰めるかのように。白いつばの広い帽子が風に飛ばされ運ばれて、はらり、と長い癖のある茶色の髪が解かれ踊っていた。破れた彼女の手袋の隙間からは、彼女が持っている腕がしているのと同じ家紋が刻まれた指輪が見えた。


『妹?お前、一人っ子じゃなかったのか?』


『うん。ヴィクトリアっていうんだ。可愛いよ。少し気が強いけど、甘えたの、妹』


「り、リチャード兄様……兄様……どうして……兄様の腕……千切れて……どうして……体、どこ……にいさ、ま……?ヴィクトリア……の持ってる腕、は……」


絶叫が響き渡る。声が突き刺さる。情景が声と重なり一つになる。

喉の奥が痛い。世界の裏と表とが引っくり返ってー……俺はただ、痛々しい少女の背中を見ながら唖然と立ち尽くしていた。

腕を掻き抱いて崩れ落ち慟哭する彼女の、すぐ後ろで。


≪アルフォート≫
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