第1章 百年祭

「よくよくあなたに言っておく。人は上から生まれなければ神の国を見る事は出来ない」

「人は年を取ってどうして生まれる事が出来ますか?もう一度母の胎内に入って生まれる事が出来るでしょうか?」

御子はお答えになった。

「よくよくあなたに言っておく。人は水と霊によって生まれなければ、神の国に入る事は出来ない。肉から生まれた者は肉であり、霊から生まれた者は霊である。『あなた方は上から生まれなければならない』と私があなたに言った事に驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみな、それと同じである」


【ヨハネによる福音書 第3章】






「……”因果”か」


その一言と共に沈黙が身を擦り合わせ震えた。轍を形成していた沈黙が波紋を描き扉から入り込む朝靄の中に散って行く。


「不可視の神に運命を絡み取られてー……憐れなものだな」


「それが因果というものだ。今この時、この場所に俺達がいる様に。俺達がそうであったようにどの道筋を辿ろうが時の接合点へと辿り着く。例外はない。……因果律の外へ弾き出された者に出来る事は多くはないがー……見物させてもらうとするさ。因果の糸が解れ絡んだ先を。どこに収束するのか、それを」


「相変わらず悪趣味だな、お前は」


瞳と唇に緩く三日月を湛え、今は無人の扉の先を弟と共に見つめた。風と朝靄が吹き黙る路地裏の風景を。

光であるとも闇であるとも今は言えない何かが蠢き、騒めいていた。国の生誕と救いの御子の復活を祝う祭りを隠れ蓑に魑魅魍魎が闊歩していた。人心を惑わすエゴとイデオロギーと言う名の物の怪達が。






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「お父さーん、アルー?ご飯が出来ましたよーあら?あなた……アルはどうしましたか?」


「ゴミを出しに行ったっきりだ。どこかで道草でもしているんだろう」


キシリ……と、薄い床板が悲鳴を上げる。弟が去り一人だけだった空間に響いた柔らかな声が、部屋を暖めた。雨戸を外し大きく開け放った窓から一条光が差し込み、その部分だけ切り取ったように円が描かれる。白い陽光の、日溜りがあった。

吹き溜まりの路地裏に立つこの家に午前の限られた時間だけ出来る日溜り。……光は今でも好きになれないが、彼女と共にこの光を梯子を見る事を楽しみにし、また日課としている自分がいた。


「アルったら……困りましたね……折角作ったのに……冷めたら美味しくなくなってー……ん……っ」


今が盛りとばかりに咲く花と同じ薄紅色をした薄い唇によく映える白魚の様な指を押し当てて、自分とは違う人間の姿を思い浮かべ気に掛けている彼女の腕を強く引き、自分の腕で籠を作り中へと閉じ込めた。

不意を突かれて状況が飲み込めず、困惑した表情で上を見上げた彼女の唇を唇で奪い、細い腰を掴んだ。冗談の様に軽いものからより深い深淵を目指して。唇を唇でこじ開け逃げる舌を追い掛け捉え、絡め、唾液を交えて。


「はあ……っう……」


「今お前の前にいる人間は誰だ、リリス?」


糸が切れた操り人形の様に肢体を弛緩させて、俺に体を預け肩を大きく動かして懸命に酸素を取り入れているその人の耳元で囁く様に言葉を紡いだ。染み込ませるように、言い聞かせる様に。


「しゃ……ヘル……いきなり……は……」


「体が持たない、か?安心しろ、心配しなくてもお前の体の事ならお前以上に理解しているつもりだ。……俺が今まで何回お前を抱いたと思っている?」


ビクリ……と、一度体が跳ねた。腕の中で小さく細い体躯が短い時間痙攣したように。

よく熟れた林檎の様に頬と耳まで朱に染めて、息苦しさからなのか涙を溜めた彼女の眦と、そして唇の端に残ったどちらのものか分からない銀の糸を指で拭きって。

彼女とこうして唇と体を重ねる様になってから彼女と共に数多の朝と夜を数え、そして越えてきたが……この女は今だに純血だった。肉体的な、と言う意味ではない。精神的に。

……あの頃と変わらない。初心で穢れない、匂い立つ、妖艶な、蒼穹の色をした、花。


「リリス」


大切な……何よりも探し求めた三音の言葉を紡いでもう一度唇を封じた。満ちては引いていく思いが胸中に去来し、俺を誘っていた。


「この続きは今宵、に。……食べようか、朝食が冷めてしまうのだろう?」


彼女の体を自身から僅かに離して瞳に弧を描く。朝の光の中で頬を上気させている彼女の像を結び映していた。


「和食か?」


「ええ、たまにはいいかなって思ったの。あっ、シャヘル座ってて。今、ご飯よそうね」


簡素な木のダイニングテーブルの上に並べられた料理から立ち上る湯気が、そして匂いが鼻腔を微かに擽っていく。懐かしい匂いが懐かしい記憶を呼び覚ましていった。

クルリ、と衣を翻して炊事場へと消えて行くリリスの背中と綺麗に配膳された朝食とを交互に視界に映して俺は一人瞳を細めていた。料理の前に箸置きと共に置かれた黒い漆塗りの一膳の箸を指先でそっとなぞりながら。


「……」


「……どうした、リリス?」


「あのね、シャヘルって手先が不器用だけどお箸の使い方は綺麗だなって、そう思ったの」


視線に気付いて魚の身を解す箸の動きを止めて尋ねれば、彼女の口からそんな何気ない疑問が返って来る。パチリ、と大きな青い瞳を瞬かせて俺の手元を見つめる彼女の姿と紡がれた疑問に口元で弧を描いて解を返した。「昔、練習したからな」、と。


「……昔?」


「ああ、昔だ。近くて遠い昔、ある人に教えてもらった」


「そうなんだ。ねえ、シャヘル……その人って……」


「さあ、誰だろうな?……リリス」


「なあに、シャヘー……ん?!」


「……どうだ、美味いか?リリス」


彼女の声が不意に途切れた。俺が箸を使ってリリスの口へ魚の身を運んだ事によって。

事態が飲み込めていないのか大きな瞳を白黒させている彼女を横目に今度は自分の口へ箸を使い魚の身を運びゆっくりと咀嚼した。「美味しいな」と、言葉を続けて。

軌跡をなぞっていた。辿っていた。懐かしい想いと共に。不思議な、夢の様ないつか遠くて近い場所にあった現実を反芻して。

あの時紡げなかった問いを最愛の妻へと紡いで。


「リリス、お前は今幸せか?」


影が消え失せて行く。俺の前に現われた新しい現実が影を払っていた。


≪シャヘル・ナザレ≫
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