日常交流
あれから私はあの日出会った花の精の事を忘れられずにいた。
『……名を……教えてはくれないか……?』
『……私の名は……“乙橘”と申しますわ……。』
乙橘……。
後に刻から聞いた。
彼女は『海から来た女』だと……。
『俺も詳しくは事情は知らない。
が……永久から聞いた。
何か辛い過去があったようだ……と。
父上と母上ならもっと詳しい事情を知っているのかも知れないが……俺はそこまで個人的な話を聞くつもりは無くてな……。
どうしても知りたいなら彼女に聞けばいい。』
簡単に言ってくれるな……。
あの男には迷いがない。
思い込んだら一直線に向かっていく。
私には真似できそうもない。
こんな無愛想で……女を喜ばせるような会話もできない男では……
きっと……彼女を怖がらせてしまうに違いない。
否……それ以外にも……怖れる理由はある。
パキパキと微かな音をたてながら大気が凍てついて行く。
私の左手から溢れる魔力が制御を失い触れたものを浸食するように凍てつかせて行く。
誰にも触れさせてはならない。
この左手だけは……。
「失礼いたしますお客様。お召し替えをこちらにご用意させていただきました。」
「人払いをしていた筈だが……?申し訳ないが、明日にしてはくれないか?」
「申し訳ございません……ですが、こちらは乙橘様からのお申し付けですので……」
その名を聞いた瞬間胸の高鳴りを感じた。
控えめに現れたこの女はおそらく乙橘の侍女に違いない。
それならば私が人払いをしていると言うことも知らないのも無理はない……か。
「……そうか……済まなかった。着替えは自分で済ませるからそこへ置いていってくれ。
お前の主人に感謝の意をよろしく伝えて欲しい。」
「畏まりました。では、失礼させていただきます。」
女が置いていった衣は不思議と身体によく馴染んだ。
この国にきてから幾度か袖を通すことはあったが、どうにも落ち着かず国から持ってきた衣服に着替えてしまう事もあったのだが……。
それにこの金の刺繍には見覚えがある。
これはあの時彼女が仕立てていた衣に違いない。
瞼を閉じればあの庭に咲いていた甘く優しい橘の花の香りがしたような気がした。
その瞬間、再び胸の奥に温かな火が灯るのを感じた。
乙橘……もう一度彼女の姿を見てみたい……。
話をしてみたい……彼女の事をもっと知りたい。
彼女の故郷はどんなところだろうか……
好きな花は……好きな歌は……
想い人はいるのだろうか……
何故こんなにも彼女の事を知りたいのだろうか……
ああ……これが恋というものなのだろうな……。
夜の闇に紛れながら乙橘の局を訪ねた。
一目姿を見るだけで良い。
言葉を交わさずとも彼女に花を届けられたならそれで良いと思いながら……。
だが……彼女の姿を見た瞬間胸の高鳴りを抑えることが出来ずにどんどん彼女の方へ足を進めていく自分がいた。
もっと彼女の顔を見てみたい……。
もっと彼女の声を聞いてみたい……。
自分でも驚く程に……どんどん欲深になって……足を止めることができなかった。
「……そこにいらっしゃるのはどなたですか……!」
チリリ…と大気が凍てついた。
ほんの僅かでも彼女と言葉を交わしたい。そんな欲を抑えられずに私は強引に右手で魔力を送り込み負傷した左手の魔の冷気を抑え込んだ。
身体に負担はかかるが……彼女と言葉を交わすためなら……。
「夜分遅く失礼する。乙橘。」
「あなたは……先日の……」
花が綻ぶような笑みを浮かべた女の姿。
ああ……同じだ……あの日と同じ花の精がここにいる。
「まだ…私の名を伝えていなかったな……私の名はフルオライトだ。
この衣を縫ってくれたのは貴女だと聞いてな……居てもたってもいられなくてこのような夜分に訪ねてしまった……。
どうか……お許し願いたい。美しい姫君。」
心が……掻き乱される。
今すぐにでも抱き締めて誰の目にも触れないように拐ってしまいたい……
そんな欲が湧いてしまう自分がいる。
だが……今この手で触れたら……きっと彼女は無事では済まないだろう。
砕けた腕が鈍く痛むが、顔には出さず平静を装いながら私は彼女に一輪の白百合の花を差し出した。
「……これは……」
「この花を貴女に差し上げたい。
せめてもの感謝の印に……」
目の前に差し出した白百合に彼女が手を伸ばし指先で触れようとしたその瞬間……抑えていた冷気が暴発し、手にした白百合が一瞬にして凍てついた。
破ぜた冷気が大気を震わせ小さな悲鳴をあげた乙橘の姿に私の血の気も一瞬で凍りついた。
もう少しで彼女に危害を及ぼすところだった……。
この白百合のように白く凍てついた彼女の姿を想像するに難くなかった。
「……今のは一体……」
「驚かせて済まなかった……乙橘……今夜の事は忘れるといい。
私も……もうここへは来ないことにしよう……。」
「えっ……??」
「失礼する。」
闇に溶けるように駆け抜けた。
遠く後ろの方で彼女の声が聞こえたような気がした。
彼女を自らの手で凍てつかせてしまうぐらいならこの想いは秘めたままに……
その夜……私は夢を見た。
私の氷の魔力に触れた君の姿を……白い霜と氷に浸食され動かなくなった乙橘の姿を……
瞼を閉じて眠ったように横たわる彼女はとても恐ろしく美しく見えた。
『……乙……橘……!乙橘……!!』
胸に抱き締めて名を呼んでも君は目覚めない。
目覚めた後も冷たくなった彼女を抱いた感触が生々しく腕に残る。
「夢……か……」
夢ならば彼女に危害が及ぶことはない……私が彼女に触れない限りあの凍てついた白百合のようになる事は決して無いだろう。
そう自分に言い聞かせてもいつまでも不安が拭えることは無かった。
