日常交流
━━━かきくらし 時雨るる空をながめつつ 思ひこそやれ神なびの森━━━
あたり一面を暗くして時雨が降る空を眺めながら、神が宿る森へと思いを馳せる。そんな歌があったな……と。しとしとと降りしきる雨を見つめていた。
故郷に帰って両親に帰還の報告を兼ねた挨拶を交わしあれこれと支度をしているうちに夜になってしまった。
本当はいち早く君のもとへと飛んで行きたかったのだが……
母上と永久にアグネスに逢うならそれなりに身なりを整えるようにと強く念を押されてしまった。
確かに……君に逢うならば戦場の血の匂いの染み付いた旅支度よりも香を焚き染め清められた狩衣の方がずっと良いに決まっている。
君に穢れを触れさせるわけにはいかない。
こうして……ずっと待ち望んだ夜を迎えることができるのだから。
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━━貴方たちにパンを食べさせてあげたかったの……━━
瓦礫の中を掻き分けて必死に探してようやく見つけた白く細い手。
「アグネス…!アグネス…!!しっかりしろ…!俺が…俺がわかるか…!頼む……目を開けてくれ……!!」
━━時雨が降っていた。俺の目から溢れる雫が彼女の頬にポツリと落ちて頬を撫でるように滑り落ちて行く。
このまま彼女が目を覚まさなかったら……黄泉へと赴いてしまったら……
とても正気を保てるような状況ではなかった。
元々血色は良くなかった。彼女の肌の白さは……彼女を蝕む病魔によるものだと俺は知っていた。
食べるものも暖かな毛布も自分よりも俺達に多く分け与えてしまう心優しい彼女に……俺はまだ何も返せていないというのに……!
「アグネス……アグネス……」
強く抱きしめ何度も何度も名前を呼んだ。
戻って来てくれ……声を聞かせてくれと何度も何度も叫びながら。
「……っう……!」
「起き……た……俺が、俺が分かるか……?」
怪我に触れてしまったか微かに身体を震わせながら俺の腕のなかで彼女が動いた。
俺の呼び掛けに応えるように見上げた彼女の目には涙と泥で汚れながら情けない表情を浮かべる俺の姿が映りこんでいた。
「……トキ……?ど……した……の……そんな顔しない……で……」
俺は……知っていたんだ。
ずっと見ていたんだ君の事を。
高い屋根の上で煤で頬を汚しながら働く君を見ていた。
どんなに煤で汚れても穢れのない君が好きだった……誰よりも美しく見えていたんだ。
それを壊されそうになったとき……俺は……初めて泣いたんだ。
そうして君は言ったんだ。俺達にパンを食べさせてあげたかったんだと。
こんな状況であっても尚君は俺達に与えようとしていた。
だから……俺は君の優しさに……心根の美しさに惹かれたんだ……
……初めて誰かを愛しいと思ったんだ……。
きっと君は驚いてしまうだろう……。
夜に男が訪ねてくるなどと露程も思っていないに違いない。
もしかしたら君を怖がらせてしまうかもしれない……
遥か異国の地で一人夜を過ごす君の姿を一目見てみたい……故郷の美しい衣を纏った一人の姫君となった君を見たいなどと思う欲深な俺を君はどう思うだろう……
怖がらせてしまうかもしれない……あるいは拒絶されてしまうかもしれない……
だが……この胸の昂りを抑えられそうにない……
この腕に夢幻ではない君を抱き寄せたい。
そう思った時には畏れの感情など微塵も無く、ただ真っ直ぐに彼女の元へと足を運んでいた。
伽羅の香に紛れながら足音を立てないようにゆっくりと片手で御簾を上げて彼女の部屋へと入っていく。
几帳越しに彼女の後ろ姿が見えた。
髪は長く伸び美しい赤い衣を纏った愛しい人の姿に鼓動が高鳴る。
「……っ!誰……!?」
俺の気配に気づいたのか振り返った彼女が声をあげた。
今すぐにでも抱きしめたい衝動を抑えながら俺は彼女の名を口にした。
「アグネス……俺だ。怖がらなくていい。」
「……ト……キ……?トキなの……?」
「ああ……俺だ。ずっと待たせて済まなかった……。」
そう言ってゆっくり立ち上がり、彼女の方へと歩みより抱きしめた。怖がらせないように彼女の存在を確かめるように両腕で優しく抱き寄せながら。
「突然の夜の訪問で驚いただろう。済まない……どうしても君に逢いたくて勝手に部屋に入ってしまった。
大丈夫だ……これ以上は何もしない……君を怖がらせるようなことは何も……」
「トキ……本当にトキなのね……お帰りなさい……私……あなたのことずっと待っていたの……」
「ああ……ただいま……アグネス。」
頬を寄せ、ゆっくりと触れるだけのキスを交わす。
彼女の肌の温もりが……鼓動が伝わってくる……
ああ……彼女はここにいる……この俺の両の腕の中に。
「アグネス。君に渡したいものがある。このまま……俺に身を委ねていてくれるか?」
「うん……。」
背中を預けるようにして身を委ねる彼女の左手に己の無骨な手を重ねて少しだけ持ち上げ、そのまま彼女の薬指に指輪を嵌め込んだ。
俺の見立ての通りぴったりと収まったそれは淡く輝く桃色の金剛石の指輪だ。
永遠の愛を象徴するその石に俺の想いの全てを込めた。
燭台の灯りに照らし出されて炎の揺らめきを反射しながら煌めく指輪を見つめ、アグネスが俺の方へゆっくりと振り返った。
涙を滲ませた両の瞳には微笑みを浮かべた俺の姿が映りこんでいた。
「……トキ……これ……」
「君の故郷では想い人に指輪を贈って永遠の愛を誓うのだろう?
これは俺の想いの証だ。
愛している……アグネス……俺の妻になってくれ。」
両腕で抱きしめてそっと顎に手を添えながらもう一度キスを交わした。
赤く柔らかな唇と白磁のような白い肌。
微かに赤みを含んだ長く美しい茶色の髪は艶を帯び指先でそっと触れればさらりと滑り落ちて行く。
「更に美しくなったな……アグネス……君は俺の知らない間に美しい姫君になっていたんだな……。」
彼女の頬を伝う涙が互いに指を絡めて固く結んだ手の上にポツリポツリと落ちては砕ける。
ああ……ここにも雨が降り注いでいる……
幸せに満ちた想いが溢れた優しい雨が……
不幸の影などどこにも無い。
二度と彼女に触れさせはしない。
穢れなど俺が全て払い清めてきっと幸せにしてみせる。
