日常交流

 ぱちぱちと暖炉で火がはじける音、ちょうどいい温度に温められたリビング、編み物をして残っていたターニャも意味深な微笑みとともに寝所に下がったあとは、私と彼――ドミトリーだけの空間となる。
 言葉の端々に冗談を含ませつつも、私に向けてくれている想いは真摯だった。そして私も、同じ想いを返せていただろうか。

 ブランデー香るキスが、ふわりと鼻腔をくすぐる。家族との時間ももちろんだが、彼との時間も、本当に大切なものだったのだ。ドミトリーが愛おしくて仕方がなくて――。



 ――そして、小鳥が鳴く声で目覚めた時、すべては夢だったと悟る。



「ドミトリー……。ふふ、泡沫とはよく言ったものだ」


 温かい布団と、冷え切った部屋。この時期はベッドから出るのが億劫で仕方がない。特に、今日のような夢を見た日は。
 今はどうしているのか、幸せでいてくれているだろうか。音沙汰もなく10年が過ぎ去ってしまって、元の場所へ戻る伝手も資格もない。ただ、ドミトリーが幸せでいてくれることだけを祈る。
 ……朝から気持ちが落ち込んでしまった。切り替えるためにベッドから降りる。そろそろ朝食の支度に取り掛からないと時間になってしまう。
 
 身支度を整えると、最後に寝台の近くにある化粧台へと寄る。ぽつりと置かれているチェーンの通った指輪を手に取り――ひとつ、キスを落とす。これをドミトリーからもらったとき、どんなに嬉しかったことか。最愛の人と心を通わせられていたことが幸せで、この幸せは永久のものだと……信じていた。

 あの時に戻れたら、と考えなくはない。だが、時は戻らず、ただ進んでいくのみだ。私は家族が全員生きていると信じて――信じ続けなければ、ならない。


「どうか、ドミトリー……。幸せに」


 幸せになろうと約束をしてくれたかつてのドミトリーとの約束を守ることはできないかもしれないけれど。誰より、彼の幸せだけは祈りたい。胸にさげた指輪とチェーンがかすかにちゃらり、と音を立てた。


 朝食を済ませて食後の紅茶を飲んでいると、ドアをノックする音が聞こえる。出迎えようとするのと同時に、がちゃりと扉が開いた。


「おはようございますー……」
「おはよう、ユウ。もっと堂々と入ってきていいんだぞ?」
「いや、あの! 女性の家に入るのは、その!」
「毎朝来ているだろう……」

「それとこれとは別なんです!」


 そう少し強い口調で言い放った男性――ユウは、慌てていたものの、メガネを押し上げてひとつ息を吐く。それがユウなりの切り替え方だと知ったのは、ずいぶん前のことだ。
 一通り診察を終えた彼は、今日も問題ないですね、と穏やかな微笑みを見せた。


「ああ、問題ない。いつも世話をかけるな」
「気にしないでください。僕たちが好きでしているんですから」


 そう言ってメガネの奥で青い瞳が緩められる。ユウはあまりに傷ついた私をずっと診てくれているアハル家の一人で、あの事件であまりにひどいけがを負った私を引き取り、衣食住をすべて提供してくれ、今も診察と称して毎日ユウやその妹、両親などが訪問してくれて、ひとりぼっちの私が寂しくないように、気にかけてくれている。
 
 特にユウは初期から私のことを診てくれているおかげか、一番よく来てくれている。何らかの理由があってか、女性に対する免疫――と言っていいのかはわからないが――はほとんどなく、私に対してもいまだにたじたじだ。


「そうだ。オリガさん、最近急に冷え込んできたので、家で家族みんなで温かいものをみんな食べようって話になったんです。それで、両親と妹がオリガさんにも是非、と」
「それはありがたい話だが……。毎回、いいのか?」

「ええ、いいんです! オリガさんは僕たちの家族みたいなものですから! 特に妹がオリガさんにとてもなついていますし……。オリガさんみたいな女性になるんだ、って最近レイピアまで習い始めたんですよ」


 そう言われても私としては納得するしかなかった。あの、おしとやかに見えてたくましい妹君だ。いつまでたってもヘタレな兄を支えるんです、といつぞや豪語していたので、そういう目的もあるんだろう。目に見えてしすこん、というやつなユウだが、妹も表に出していないだけでかなりのぶらこん、だ。

 ひとりくすくすと笑う私に、ユウがきょとんとしている。ああ、自分の世界に入りすぎたようだ。すまない、と一言告げて、時計を確認すると、もう家を出る時間が迫っていた。


「すまない、ユウ。もうそろそろ……」
「あ、もうそんな時間ですか……! 僕もお暇します。お茶、ごちそうさまでした」


 慌てて身支度を整え、挨拶も早々に出て行ったユウを見送り、私も上着を着て荷物を手に持つ。歩いて15分ほどで、今の私の職場が見えてくる。校庭で遊んでいた子供たちが私に気づくと、にこっと笑って手を振った。


「おはよう、トビアスせんせー!」
「ああ、おはよう」


 記憶にある弟と同じくらいの年齢の子供たち。弟とは髪も目の色も違うというのに、年齢が近いというだけでこんなにも引きずられてしまう。そんな自分に笑ってしまうが、それはそれとして、今は仕事の時間だ。

 アハル家の方々は、私に衣食住だけでなく“教師“という安定した職まで与えてくれた。何も不満は、ない。ないのだ。……――家族や、会えていない恋人のことが、なければ。
 私が生きていたんだ、ほかの家族も絶対に生きている。お父様やお母様はあの時点で絶望的だったが……、私の弟妹たちは、絶対に、生きているのだ。

 ぐるぐるとやり場のない感情がうずまく。10年経つが、こんなにもとらわれている。いや、まだ10年か、もう10年か?


「――トビアスせんせ、どうしたんですか?」
「っ! すまない、少し考え事していたんだ。どうした?」
「なんか怖い顔してましたよー? わからないことあったから聞きに来たんだけど……今はやめたほうがいいですか?」

「いや、大丈夫だ。どこがわからないんだ?」
「うんとね……」


 聖書の文章の文法がわからないらしい。ここはかつて、ドミトリーと一緒に諳んじたところだ。なるべくわかりやすいように教えながら、今朝見た夢がふと、脳裏に蘇る。

――ドミトリー。夢でしか会えない、泡沫のあなた。一体どうしているのだろう。

 離れているが、私の心は変わらない。それだけは、確かだ。



 それは、ユウが嵐のような話を持ち込んでくるまでのつかの間のお話。
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