日常交流


愛はけして滅び去る事はない。預言の賜物なら廃れもしよう。異言ならやみもしよう。知識なら無用となりもしよう。

私達が知るのは一部分、また預言するのも一部分であるがゆえに。完全なものが到来する時は、部分的なものは廃れ去る。

私は幼い子供であった時、幼い子供のように語り、幼い子供のように考え、幼い子供のように思いを巡らせた。だが、一人前の者となった時、幼い子供の事は止めにした。

私達が今見ているものはぼんやりと鏡に映ったもの。「その時」に見るのは顔と顔を合わせたもの。私が知っているのは一部分。「その時」には自分が完全に知られているように、私は完全を知るようになる。

だから引き続き残るのは、信仰・希望・愛、この三つ。

このうち最も優れているものは、愛。


【コリントの人々への第一の手紙 第13章】






青くけぶった空を見るともなしに見上げながら私は空の境界へと息を吐き出した。盛夏の暑さは既に遠くへ過ぎ去り、かと言え冬の寒さからもまだ遠い―……曖昧な季節の狭間の空へ見えない息が昇っていく。

世界の全てが白と黒のモノトーンに単純化される季節からまだ遠いこの曖昧な時期が私は好きだった。私の性によくあっているから。……呼吸器を患っていた幼い子供の頃の私にとって冬は嫌が応にも死を最も身近に感じる季節であったということもあるけれど……


「あの時も、こんな色の空―……だったわね……」


道行く人の雑踏の只中で不意に足を止めたまま、一人微笑みを浮かべ記憶の引出しの引き戸を開ければ、瞬間、優しい色彩で彩られた記憶の粒子が飛び出し、私の胸に去来した。あたたかな気持ちが蘇る。

彼の背に背負われて歩いた日の空の青さも、鼻腔を微かに擽る香る緑の草の香りも、彼に降ろされて踏み締めた黒い土の柔らかさも、帰り道で聞えて来た黄昏色の虫の音も―……全ての色を覚えている。


「クロト……僕は君のことをずっと守ってあげたいって思っているんだ……君さえよければだけど……僕の……僕だけのお姫様になってくれるかい?」


心の奥底に風が吹いたような気がした。風の腕(かいな)で撫でられ幸せそうに揺れているマーガレットの花の白い花弁と同じように、私の心の一番柔らかい部分を彼の……大好きな男の子の甘い言葉が撫でていく。


「もっと強くなって君を守ると誓う……だから、どうか……僕を君の騎士にして欲しい……僕の可愛いお姫様……僕の大好きなクロト……」


それはおままごとの幼い口付けだった。幼い子供同士の……未来も何も知らない子供同士の笑えるぐらい陳腐な口付け。でも、あの頃の私達にとってそれは甘く白い砂糖の一欠片で、空に輝くまばゆい銀の一等星で、大海の底に沈む黄金の砂金の一粒だった。

お互いにキスの余韻で顔を赤らめたまま、私はしばらく彼の腕の中にいたような気がする。今傍にある幸せな気持ちをもっと近くで感じていたくて、彼の胸に顔を埋めていた。


「あのね……ピエール……これ……あなたに貰ってほしいの。一生懸命作ったものだから……」


「これは……丸いぽんぽん?」


「ウサギの尻尾の……お守り。幸運のお守りよ。本当はウサギの足を使って作るのが正しい作り方なんだけど……足を折るのは可哀想で、できなくて……だから白い毛を丸めて作ってみたの。あなたに幸運がありますように、って沢山、沢山、お祈りをしながら作ったわ」


「クロト……」


ふっと灯火が灯った。口付けをした瞬間感じたものと同じ優しくあたたかな灯火が。私の周りで灯っていく。


「ピエール……ピエールは私の騎士様になってくれるって言ったよね?だったら一つだけ約束してほしいな」


「約束、かい?」


「……うん。もし私が危ない目にあった時はピエールが助けに来てくれるっていう約束。その代わり、私もあなたを助けるの」


ゆるやかに弛緩し、解けていく記憶。どこからが夢でどこからが過去なんだろうか。雑踏が消え、ステージの灯りが消えるようにあたりが黒で塗りつぶされていく。甘く遠い記憶の底から、夢の世界から体が浮上していく感覚がした。


「っう……ぴえ……る?」


「クロト……!よかった……クロト、気が付いて……。覚えてるかい?あの後、クロトは気を失ってしまったんだ……だからここで君を休ませて……クロト……?」


緩慢な動作で上体を起こし、そのまま心配そうにこちらの顔を覗き込んでいる彼の厚い胸に額をぴたり、とくっつけて私は彼の背中に腕を回した。

最後に見た時よりも……別れたあの時よりもすっと、ずっと大きくなった背中を抱き締めながら彼の名前を呼んだ。「ピエール」と私のたった一人の騎士様の名前を。

別れたままもう十年会っていなかったけれど、声もあの頃よりもずっと低いものに変わっているけれど―……分かった。この人がずっとずっと探していた人だということが。

子供の頃に二人で交わした幼い約束をピエールが今でも覚えていてくれているかどうかは、私には分からない。それでも、いい。例え彼が忘れてしまっていたとしても私が覚えているもの。


「……約束……守ってくれてありがとう……助けに来てくれて……ありがとう……ずっとずっと……探していたのよ……」


一筋頬を伝い熱いものが落ちていく。声を詰まらせたまま何度も彼の名前を呼んでいた。

幼い子供のように腕の中で泣きじゃくる私に彼も呆れてしまうだろうか。と、幼い子供のような自分に思いを巡らせる。

でも……でも……今だけは許してほしかった。だって、私の騎士様とようやく巡り合う事ができたのだから。


「ピエール……ありがとう……」


幼い頃と同じ触れるだけの口付けを自分から彼に贈った。おままごとの口付け。でも、それは砂糖の一欠片、空に浮かぶ一等星、海の底の砂金の一粒。


「会いたかった……会いたかった……私の、騎士様」


≪クロト・ヴェリタス≫
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