日常交流
神よ、あなたは生贄を好まれない。
どんな供え物をしても、あなたは決してそれを喜ばない。
神への生贄とは、深く痛み入る人の魂なのだ。
神よ、あなたは悔い改めて遜る魂を決して軽んじる事はない。
【詩篇 第51篇】
青くけぶった空を見るともなく見上げながら独り、微かな苛立ちを感じていた。別に今の季節が嫌いなわけでも、晴れの日が憎いというわけでもない。
青くけぶった空の後に昇って来る太った月を思うと、ただただ憂鬱さ覚えるからだ。特に今夜昇って来るだろう上限を過ぎ望月へ向かいつつある月の夜は、ざわざわとした不快な熱が血管をじりじりと焼けながら巡っていく。
確かに月齢が進み月が太るごとに自分の身体は軽くなる。だが、精神はそうはいかない。臓腑から湧く言い様のない衝動性がただただ不快だった。成人を迎えもう何年も経っているが、いまだにその衝動性を完全には拭えないでいる。
……これでもだいぶマシになった方ではあるが―……ただただ自分の血管を流れる血が憎く、煩わしかった。
「……今夜も来てくれたんだ」
「ご迷惑でしたか?」
「ううん。違うの。ただもう満月が近いから―……だから来てくれないのかなって、そう思っただけ。でも凄いね。ここは高い塔の上なのにきみは足を掛けてするすると登って来るし、帰る時だって一っ跳びで降りて行ってしまうもの」
「人狼ですから。貴方とは違う」
「……うん、知ってる」
陽が薄れ、亡霊の透明な衣を纏った風が黒い森の針葉樹の梢を撫でていく。この季節の物にしてはやけに水分を多く含みぬるい風が渡っていく。
星の光を集めたかのような淡い黄味を帯びた光輝を放つカンテラを窓際に置き、微かに微笑んだ彼女の長い金糸の髪を夜風が揺らす。
彼女の姿が自分の目にはやけに朧に映るのは、薄暮の光の所為か、それとも彼女が纏う雰囲気からなのだろうか。……おそらくその両方だろう。
彼女は例えるならば月だった。それも荒野で道に迷う旅人を導く光ではなく、揺らぎ霞みぼやける、頼りない朧月。
一つ息を吐き窓から部屋へと入り込めば、彼女をいつも取り囲む、この場所以外では嗅いだ事のない不思議な香りが鼻腔を擽った。おそらく部屋で焚かれた香の香りなのだろう。それが何の香なのかは、その分野に疎い自分には分からないが―……不快ではなくむしろ好ましく感じる自分がいる。
私と彼女の出会いはまさに偶然の賜物とも言えるものだった。黒い森に隔絶され隠された白亜の塔。森に場違いな塔の窓から顔を覗かせていた彼女を私が見初めた。……三文芝居の脚本にもならない陳腐な理由。
理由の根底にある感情の名前は―……
「……お迎えが来るの」
「お迎え」
不意に紡がれた言葉を鸚鵡返しに返す。
白い無機質な部屋を黄味を帯びたカンテラの灯りが照らしていた。夜気と共に虫の音が流れ込む。かなりの音量のはずだったが、それでも不思議と部屋の中には静寂が澱んでいた。
古びた部屋の片隅、辛うじて窓際だけをカンテラと朧月の光が照らす。
彼女は薄い唇を動かし言葉を紡ぐ。迎えの者がもうすぐやって来る、と。いつもそうであるように笑みを湛えながら。
俯き自閉するように息を一つ吐いた。長い息を。置いていくのか?その言葉を音にする代わりに。
「わたしはきみの傍にいたいよ。だから、わがままを言ってみようと思うの。わたしがどこかに行こうとしていたら、きみが先に迎えに来てね。そうして、今度こそここから出て広い世界で―……」
言葉が終わるその前に、彼女の細腕を手前に強く引き、弾みでよろけた彼女を胸を使い受け止めた。驚き、刹那、上を見上げた彼女の桜色の唇に本能的に自分の唇を押し当てて。柔らかな、自分の物とは違う感覚が唇の上にあった。彼女の淡いブラウンの瞳が更に瞠目する。
彼女、アイを自分が見初めた理由―……その根底にあるのは、執着だ。
「……来い」
「いいの……?」
「わざわざ迎えに行くのも面倒だ。ならば今ここでお前を私が攫ってしまえばいい。攫って私のものにする。……不服か?」
アイに対する敬語も既に失せた。自分の物にすると決めた以上敬語を使うのも馬鹿らしい。
彼女の顔が自分の胸に埋まっていく。恐る恐る、控えめに背中に腕を回した彼女の身体を月から隠すように強く抱きしめた。大きな、空に浮かぶ月から腕の中の震える小さな月を隠す。
「ウールヴ。さっきも言ったけれど、わたしは―……」
「それが本心からだろうが、ここから逃げ出すための方便として吐いたものだろうが関係ない。私が攫うと決めた。……言っただろう?私のものだ、と」
香の香りがより一層濃くなっていく。小さく彼女が頷いたのと同時に、彼女の身体を抱え窓から身を躍らせた。
あとに残ったのは黒い針葉樹の森と白い壁に封じ込められた、いくつもの弧絶に閉ざされた主を失った部屋のみ。
「……ウールヴこれからどこへ行くの?」
「まずは森を出る。先の事はそれからそれからだ」
朧月の微かに届く光の残滓だけが、足元の低い草を照らしていた。
《ウールヴ・ヘジン》
どんな供え物をしても、あなたは決してそれを喜ばない。
神への生贄とは、深く痛み入る人の魂なのだ。
神よ、あなたは悔い改めて遜る魂を決して軽んじる事はない。
【詩篇 第51篇】
青くけぶった空を見るともなく見上げながら独り、微かな苛立ちを感じていた。別に今の季節が嫌いなわけでも、晴れの日が憎いというわけでもない。
青くけぶった空の後に昇って来る太った月を思うと、ただただ憂鬱さ覚えるからだ。特に今夜昇って来るだろう上限を過ぎ望月へ向かいつつある月の夜は、ざわざわとした不快な熱が血管をじりじりと焼けながら巡っていく。
確かに月齢が進み月が太るごとに自分の身体は軽くなる。だが、精神はそうはいかない。臓腑から湧く言い様のない衝動性がただただ不快だった。成人を迎えもう何年も経っているが、いまだにその衝動性を完全には拭えないでいる。
……これでもだいぶマシになった方ではあるが―……ただただ自分の血管を流れる血が憎く、煩わしかった。
「……今夜も来てくれたんだ」
「ご迷惑でしたか?」
「ううん。違うの。ただもう満月が近いから―……だから来てくれないのかなって、そう思っただけ。でも凄いね。ここは高い塔の上なのにきみは足を掛けてするすると登って来るし、帰る時だって一っ跳びで降りて行ってしまうもの」
「人狼ですから。貴方とは違う」
「……うん、知ってる」
陽が薄れ、亡霊の透明な衣を纏った風が黒い森の針葉樹の梢を撫でていく。この季節の物にしてはやけに水分を多く含みぬるい風が渡っていく。
星の光を集めたかのような淡い黄味を帯びた光輝を放つカンテラを窓際に置き、微かに微笑んだ彼女の長い金糸の髪を夜風が揺らす。
彼女の姿が自分の目にはやけに朧に映るのは、薄暮の光の所為か、それとも彼女が纏う雰囲気からなのだろうか。……おそらくその両方だろう。
彼女は例えるならば月だった。それも荒野で道に迷う旅人を導く光ではなく、揺らぎ霞みぼやける、頼りない朧月。
一つ息を吐き窓から部屋へと入り込めば、彼女をいつも取り囲む、この場所以外では嗅いだ事のない不思議な香りが鼻腔を擽った。おそらく部屋で焚かれた香の香りなのだろう。それが何の香なのかは、その分野に疎い自分には分からないが―……不快ではなくむしろ好ましく感じる自分がいる。
私と彼女の出会いはまさに偶然の賜物とも言えるものだった。黒い森に隔絶され隠された白亜の塔。森に場違いな塔の窓から顔を覗かせていた彼女を私が見初めた。……三文芝居の脚本にもならない陳腐な理由。
理由の根底にある感情の名前は―……
「……お迎えが来るの」
「お迎え」
不意に紡がれた言葉を鸚鵡返しに返す。
白い無機質な部屋を黄味を帯びたカンテラの灯りが照らしていた。夜気と共に虫の音が流れ込む。かなりの音量のはずだったが、それでも不思議と部屋の中には静寂が澱んでいた。
古びた部屋の片隅、辛うじて窓際だけをカンテラと朧月の光が照らす。
彼女は薄い唇を動かし言葉を紡ぐ。迎えの者がもうすぐやって来る、と。いつもそうであるように笑みを湛えながら。
俯き自閉するように息を一つ吐いた。長い息を。置いていくのか?その言葉を音にする代わりに。
「わたしはきみの傍にいたいよ。だから、わがままを言ってみようと思うの。わたしがどこかに行こうとしていたら、きみが先に迎えに来てね。そうして、今度こそここから出て広い世界で―……」
言葉が終わるその前に、彼女の細腕を手前に強く引き、弾みでよろけた彼女を胸を使い受け止めた。驚き、刹那、上を見上げた彼女の桜色の唇に本能的に自分の唇を押し当てて。柔らかな、自分の物とは違う感覚が唇の上にあった。彼女の淡いブラウンの瞳が更に瞠目する。
彼女、アイを自分が見初めた理由―……その根底にあるのは、執着だ。
「……来い」
「いいの……?」
「わざわざ迎えに行くのも面倒だ。ならば今ここでお前を私が攫ってしまえばいい。攫って私のものにする。……不服か?」
アイに対する敬語も既に失せた。自分の物にすると決めた以上敬語を使うのも馬鹿らしい。
彼女の顔が自分の胸に埋まっていく。恐る恐る、控えめに背中に腕を回した彼女の身体を月から隠すように強く抱きしめた。大きな、空に浮かぶ月から腕の中の震える小さな月を隠す。
「ウールヴ。さっきも言ったけれど、わたしは―……」
「それが本心からだろうが、ここから逃げ出すための方便として吐いたものだろうが関係ない。私が攫うと決めた。……言っただろう?私のものだ、と」
香の香りがより一層濃くなっていく。小さく彼女が頷いたのと同時に、彼女の身体を抱え窓から身を躍らせた。
あとに残ったのは黒い針葉樹の森と白い壁に封じ込められた、いくつもの弧絶に閉ざされた主を失った部屋のみ。
「……ウールヴこれからどこへ行くの?」
「まずは森を出る。先の事はそれからそれからだ」
朧月の微かに届く光の残滓だけが、足元の低い草を照らしていた。
《ウールヴ・ヘジン》
