日常交流
もし、山が動く事があったとしても、丘が移る事があったとしても、私の愛は少しも変わらない。
【イザヤの書 第54章】
粗末な東屋の屋根の上に夜の間に積もった雪がドサリと音を立てて落ち、斜面を転がるように滑り落ちていく。掘っ立て小屋のような粗末な気の家の中で私は、凍えて悴み赤くなった指先に息を吐きかけ温めるように手を擦り合わせた。寒さのせいで一睡もできていない。と言うか、この状態で寝たら間違いなく冷凍妖精になってしまうわ。
私をここへ連れて来た奴隷商の話だと、私は昼には競りに出されるそうだ。そう、昨日でっぷりとしたお腹を震わせながら私に話していたもの。……当の本人は今ここにはいないけれどね。ここなら私が逃げ出せないから。雪深い山小屋だもの。一人で外に出て迷ったら間違いなく私は死ぬだろう。
親や親族に見売りに出されたからここにいる―……と言うわけではない。今私がここにいる理由はひとえに自分の不注意が招いた事だった。平和ボケをして夜に一人で街を歩いてしまったことが原因。……確かに自分に全くの落ち度がなかったかと言えばそうではない―……
「落ち度なんかないに決まってるわ。だって、おかしいじゃない。捕まるような悪いことなんて何もしてないのにこんな寒い場所に閉じ込めるなんて……!」
沸々と湧き上がってきた感情は怒りだった。少しでも寒さから離れるために、小屋の真ん中で膝を抱え蹲り頬を膨らませる。だって、どう考えたって悪いのは私ではないわ。女が一人で出歩けないような街の方がどう考えてもおかしいし、悪いのは私じゃなくて人攫い達の方だわ。
しんしんと這い寄る身を刺すような冷気が足元から私の体温を奪っていく。お情けのつもりか昨晩は奴隷商が毛羽立ってごわついた毛布を一枚だけ置いていったけれど、こんな粗末な毛布一枚きりじゃ全然暖かくなんかならないわ。……ないともっと寒いから一応体にグルグルに巻いて使ってあげてはいるけれど。
「……寒いわね……」
時間は今どれぐらいなのだろうか?この小屋に連れて来られてからどれぐらい時間が経ったのかしら。両手にもう一度白い息を吐きかけながらそんな事を考えていた。暗いところと寒いところは考え事をするのに向いていないって聞いた事があるけれど、本当ね。暗くて寒くてひもじいと流石に私でも気が滅入って来るもの。
「……これからどうなるのかしら、私」
誰に聞かせるわけでもない独り言が凍てつく空気が張り詰めた部屋に溶けて消えていく。東を向いた窓の外の空は既に薄紫色に染まり、白み始めていた。朝が……来るのね。
私は売られる。抵抗したところで痛い目を見るだけだろうだからその時は大人しくしているわ。怪我をしたくないもの。大人しくしている代わりに……せめて少しでもまともな人が私を買いますように。まあ、奴隷商人から奴隷を買う人間の人間性なんてたかが知れているでしょうけど。
「な、なに……、この音……?」
グルグルと巡る思考が突如中断を余儀なくされる。大きな音がする。何かがこの小屋の外にいる。最初は奴隷商人かと思ったけれど、それとも違う。こんなにグラグラと小屋が揺れるなんておかしいもの。ドサリと屋根の上から大きな雪の塊が落ちて―……
「ええええええええええ!?」
「お前は……お前が”キアラ”、か?大丈夫か……?」
不意に東屋の屋根が外され、強烈な光が私に降り注いだ。白い冬の朝の光が私の視界を染め上げる。
「そ、そうだけど……あなたは……」
「俺の名はジェロムという。ギルドの者だ。……人探しの依頼がギルドにあったからここまで来たんだ。怪我は……ないか……?指先は動くか?」
光の中、こちらを見つめる人の瞳と視線が絡み合う。ジェロムと名乗ったその人は私の体の何倍も大きな体を持った亜人の男の人だった。……なんて優しい目、なんだろう。
そっと両手で壊れ物を扱うように彼は私を掬い上げて、包むように覆ってくれた。彼の体温がしんしんと這い寄って来ていた冷気を遮断し、私と切り離す。チラチラと舞う六花の中で薄暮の昴が青い光で煌めいていた。
++++++++++++++++++++
「……そんなわけで恩返しに来たわ!」
「はっ?お前は……あの時の……」
「ええ、あの時はありがとう!もうあれから一月は経ったから身体も回復して元気になったわ。ジェロムの……あなたのおかげね」
細い三日月が黄昏の海の上に一艘の船のように浮かんでいる。あの日と同じ薄暮の光の中で私は彼を見上げていたの。時間帯こそ朝と夕で違うけれど。
「助けて貰ったからお嫁さんになりに来たのよ」
「どこかで聞いたような台詞だな……子供の頃に絵本で見たことがある……と言うか、荷馬車ごと来たのか……」
「ええ。だって、ほら、私とあなたでだいぶ体の大きさが違うでしょう?だから一緒に暮らすなら私の物が予めあった方が便利だと思ったのよ」
「一緒に住む気なのか!?お、お前の親族は……」
「あっ、私の両親なら『お前は一度言い出したらどうせ何を言っても聞かないんだろう……』って溜息を吐いて送り出してくれたから安心して!」
私が満面の笑みでそう告げると、ジェロムは困ったように片手で頭を抱えて深い息を一つ吐き出した。実際、本当に呆れているんだと思う。逆の立場なら私も同じ反応をしていたと思うもの。私がしている事は相手の気持ちをまるで考えていない押し掛けだから。それは分かっているの。だけど……
「こんなむさ苦しい男ばかりいる場所にわざわざ来なくてもいいのに……そもそも恩返しだなんて大げさすぎる。俺はギルドに依頼が来たからお前を助けただけだぞ……」
「大げさなんかじゃないわ」
花の羽根を羽搏かせ、大きな体の彼と真っ直ぐ視線が合う位置まで飛んだ。見上げるでも見下ろすでもなく彼と同じ目線で話をしたかったから。ジェロムの、今の夕空と同じ色をした優しい瞳が僅かに見開く。
「あなたが来てくれなかったら私は今頃奴隷船の船の甲板の上か道端の上に捨てられていたわ。ううん……それどころか死んじゃっていたかも。あなたは私の命の恩人なの。だから、私はあなたに恩返しがしたいのよ。……それに……」
「それに……?」
「そうじゃなくても私はあなたのお嫁さんに……なりたいの。だって、あなたの瞳、とっても優しくて私、好きになってしまったんですもの……」
体の内側が火が付いたように熱かった。頬が赤い理由は外気の寒さからではなく、私がこの人に恋をしているから。
「だって、私は……あなたが好きなんです。だから、ね?お嫁さんにして欲しいの」
もし、山が動く事があったとしても、丘が移る事があったとしても、私の想いは変わらないわ。
≪キアラ・ボールドウィン≫
【イザヤの書 第54章】
粗末な東屋の屋根の上に夜の間に積もった雪がドサリと音を立てて落ち、斜面を転がるように滑り落ちていく。掘っ立て小屋のような粗末な気の家の中で私は、凍えて悴み赤くなった指先に息を吐きかけ温めるように手を擦り合わせた。寒さのせいで一睡もできていない。と言うか、この状態で寝たら間違いなく冷凍妖精になってしまうわ。
私をここへ連れて来た奴隷商の話だと、私は昼には競りに出されるそうだ。そう、昨日でっぷりとしたお腹を震わせながら私に話していたもの。……当の本人は今ここにはいないけれどね。ここなら私が逃げ出せないから。雪深い山小屋だもの。一人で外に出て迷ったら間違いなく私は死ぬだろう。
親や親族に見売りに出されたからここにいる―……と言うわけではない。今私がここにいる理由はひとえに自分の不注意が招いた事だった。平和ボケをして夜に一人で街を歩いてしまったことが原因。……確かに自分に全くの落ち度がなかったかと言えばそうではない―……
「落ち度なんかないに決まってるわ。だって、おかしいじゃない。捕まるような悪いことなんて何もしてないのにこんな寒い場所に閉じ込めるなんて……!」
沸々と湧き上がってきた感情は怒りだった。少しでも寒さから離れるために、小屋の真ん中で膝を抱え蹲り頬を膨らませる。だって、どう考えたって悪いのは私ではないわ。女が一人で出歩けないような街の方がどう考えてもおかしいし、悪いのは私じゃなくて人攫い達の方だわ。
しんしんと這い寄る身を刺すような冷気が足元から私の体温を奪っていく。お情けのつもりか昨晩は奴隷商が毛羽立ってごわついた毛布を一枚だけ置いていったけれど、こんな粗末な毛布一枚きりじゃ全然暖かくなんかならないわ。……ないともっと寒いから一応体にグルグルに巻いて使ってあげてはいるけれど。
「……寒いわね……」
時間は今どれぐらいなのだろうか?この小屋に連れて来られてからどれぐらい時間が経ったのかしら。両手にもう一度白い息を吐きかけながらそんな事を考えていた。暗いところと寒いところは考え事をするのに向いていないって聞いた事があるけれど、本当ね。暗くて寒くてひもじいと流石に私でも気が滅入って来るもの。
「……これからどうなるのかしら、私」
誰に聞かせるわけでもない独り言が凍てつく空気が張り詰めた部屋に溶けて消えていく。東を向いた窓の外の空は既に薄紫色に染まり、白み始めていた。朝が……来るのね。
私は売られる。抵抗したところで痛い目を見るだけだろうだからその時は大人しくしているわ。怪我をしたくないもの。大人しくしている代わりに……せめて少しでもまともな人が私を買いますように。まあ、奴隷商人から奴隷を買う人間の人間性なんてたかが知れているでしょうけど。
「な、なに……、この音……?」
グルグルと巡る思考が突如中断を余儀なくされる。大きな音がする。何かがこの小屋の外にいる。最初は奴隷商人かと思ったけれど、それとも違う。こんなにグラグラと小屋が揺れるなんておかしいもの。ドサリと屋根の上から大きな雪の塊が落ちて―……
「ええええええええええ!?」
「お前は……お前が”キアラ”、か?大丈夫か……?」
不意に東屋の屋根が外され、強烈な光が私に降り注いだ。白い冬の朝の光が私の視界を染め上げる。
「そ、そうだけど……あなたは……」
「俺の名はジェロムという。ギルドの者だ。……人探しの依頼がギルドにあったからここまで来たんだ。怪我は……ないか……?指先は動くか?」
光の中、こちらを見つめる人の瞳と視線が絡み合う。ジェロムと名乗ったその人は私の体の何倍も大きな体を持った亜人の男の人だった。……なんて優しい目、なんだろう。
そっと両手で壊れ物を扱うように彼は私を掬い上げて、包むように覆ってくれた。彼の体温がしんしんと這い寄って来ていた冷気を遮断し、私と切り離す。チラチラと舞う六花の中で薄暮の昴が青い光で煌めいていた。
++++++++++++++++++++
「……そんなわけで恩返しに来たわ!」
「はっ?お前は……あの時の……」
「ええ、あの時はありがとう!もうあれから一月は経ったから身体も回復して元気になったわ。ジェロムの……あなたのおかげね」
細い三日月が黄昏の海の上に一艘の船のように浮かんでいる。あの日と同じ薄暮の光の中で私は彼を見上げていたの。時間帯こそ朝と夕で違うけれど。
「助けて貰ったからお嫁さんになりに来たのよ」
「どこかで聞いたような台詞だな……子供の頃に絵本で見たことがある……と言うか、荷馬車ごと来たのか……」
「ええ。だって、ほら、私とあなたでだいぶ体の大きさが違うでしょう?だから一緒に暮らすなら私の物が予めあった方が便利だと思ったのよ」
「一緒に住む気なのか!?お、お前の親族は……」
「あっ、私の両親なら『お前は一度言い出したらどうせ何を言っても聞かないんだろう……』って溜息を吐いて送り出してくれたから安心して!」
私が満面の笑みでそう告げると、ジェロムは困ったように片手で頭を抱えて深い息を一つ吐き出した。実際、本当に呆れているんだと思う。逆の立場なら私も同じ反応をしていたと思うもの。私がしている事は相手の気持ちをまるで考えていない押し掛けだから。それは分かっているの。だけど……
「こんなむさ苦しい男ばかりいる場所にわざわざ来なくてもいいのに……そもそも恩返しだなんて大げさすぎる。俺はギルドに依頼が来たからお前を助けただけだぞ……」
「大げさなんかじゃないわ」
花の羽根を羽搏かせ、大きな体の彼と真っ直ぐ視線が合う位置まで飛んだ。見上げるでも見下ろすでもなく彼と同じ目線で話をしたかったから。ジェロムの、今の夕空と同じ色をした優しい瞳が僅かに見開く。
「あなたが来てくれなかったら私は今頃奴隷船の船の甲板の上か道端の上に捨てられていたわ。ううん……それどころか死んじゃっていたかも。あなたは私の命の恩人なの。だから、私はあなたに恩返しがしたいのよ。……それに……」
「それに……?」
「そうじゃなくても私はあなたのお嫁さんに……なりたいの。だって、あなたの瞳、とっても優しくて私、好きになってしまったんですもの……」
体の内側が火が付いたように熱かった。頬が赤い理由は外気の寒さからではなく、私がこの人に恋をしているから。
「だって、私は……あなたが好きなんです。だから、ね?お嫁さんにして欲しいの」
もし、山が動く事があったとしても、丘が移る事があったとしても、私の想いは変わらないわ。
≪キアラ・ボールドウィン≫
