日常交流

兄弟の皆さん、あなた方は自由を得るために召されたものです。ただこの自由を犯す足掛かりとして肉を与えず、愛を持って仕えなさい。

律法全体は「隣人を自分のように愛せよ」という一句を守る事によって果たされます。しかし、もし互いに嚙み合い、食い合っているとするなら、互いに滅ぼされないように気を付けなさい。私が言いたいのはこうなのです。霊の導きに従って生活しなさい。

兄弟の皆さん、もし誰かが不意に誘惑に襲われ罪を犯したなら、霊に導かれて生きている人であるあなた方は、柔和な心でその人を正しい道に立ち返らせなさい。

あなたも誘惑されないように、自分の気を付けなさい。

御言葉を教えて貰う人は、教えてくれる人と善いものの全てを分かち合いなさい。


【ガラテヤの人々への手紙 第5章】






あなたは今どこで何をしていますか?元気にしていますか?体調を崩してはいませんか?……笑っていますか?幸せですか?……私は―……


「練り切り、美味しそうだけどやっぱり食べるの勿体ないなあ……」


「ふふっ……その台詞昨日も聞いた気がするよ。アグネス」


「昨日は水羊羹だったから。……あれ?乙橘さん……今日は起きて大丈夫なんですね」


「ええ。ナミさんやナギさんのおかげですね。お二人とあなた達のおかげで殆ど前と同じように動けるようになりましたわ」


手入れの届いた異国の庭の木々を風が揺らし夏影を生んでいる。今日の朝通り雨があったせいだろうか?いつもよりも庭は濃い緑で萌えていた。

縁側で並んで腰を下ろし木の桶に張った冷たい水に足を浸し涼んでいた私達の耳に衣擦れの音が届いたのは、練り切りと睨めっこをしている最中の事で……振り返れば思った通り、柔和な笑みを浮かべ私達を見つめている彼女の姿があった。


彼女は名前を乙橘というらしい。数か月前―……私が永久に連れられてこの国へやって来る少し前にこの地へと流れてきた女性―……海から来た人だと聞いている。


「永久、アグネス」


「はい」


「ええ、乙橘さん」


「……隣、座ってもいいでしょうか?」


彼女の灰青色の双眸が言葉を紡ぐと同時に緩やかな弧を描く。私は永久と目配せして、それから笑って「どうぞ」と一人分座るスペースを開けた。

乙橘さんが起き上がれる日は三人でこうやって縁側でお話する事が、私達の日課になっていた。乙橘さんが起き上がれる日も、そして時間も徐々に長くなってきている。彼女と出会ってからそう長くはないけれど、私はそれが嬉しかった。


「また二人でここでお話をしていたんですね」


「ふふっ……でも今は三人です。ねえ、アグネス?」


「うん……!乙橘さんが来てくれたからね」


「……二人を見ていると妹達の事を思い出すんです。二人ともとても仲が良かったから。……その分悪戯もされましたけれどね」


誰かが漏らしたクスリ、という小さな笑みが徐々に広がり声が輪になる。夏の午後の風に永久の白銀の柔らかな髪が、乙橘さんの後ろに流した少し癖がある赤い髪がふわりと膨らみ靡いていた。


「私だけではなくアグネスも体調がいいようですね。咳き込む回数が減ったように思いますわ」


「あっ……それは永久がそばにいてくれるから―……永久のおかげなんです」


「そんな……私は何も……」


私の言葉を否定しようと自分の顔の前で手を振る永久の手を取って、彼女の手を下へ下ろした。自分の首を横へとふるり、振りながら。


「ううん。永久のおかげだよ。永久が永久の実家に私を連れて来てくれたから―……刻と永久が私のところに来てくれたから私の身体は良くなったんだよ?」


永久の白魚のように滑らかで白い手を握り感謝を口にした。嘘偽りのない事実を。

気付いていたの。向こうの国にいた時から。永久が私に治癒の魔法を掛け続けてくれていたことに。私が起きている時だけじゃなく寝ている時も。それから刻が私を守ってくれていたという事も。

刻と永久と出会う前と後と、煙突掃除に煙突へ入った回数は変わらなかったはずなのに、私が発作を起こす回数は目に見えて減った。私が住んでいた地区は、けして治安がいいとは言えない場所だったけれど、刻が私の職場まで迎えに来てくれるようになってから夜道を歩く事が怖くはなくなった。

二人のおかげで……二人に会えたから今の私がいるの。あるの。

不幸だと感じたことは一度もないけれど、でもはっきり言える。二人に会えて私は前以上に幸せになれた、と。


「刻と永久の二人が私を幸せにしてくれたんです、乙橘さん」


「そうだったの……。繋がった素敵な”縁”、どうか大切にして下さい。アグネス」


乙橘さんの瞳が瞬間閉じ、そして開いた。……瞳を閉じていた数瞬の間、彼女には一体何が見えていたのだろうか。

”縁”。

彼女が何気なく紡いだであろう一言が私の中で反響し、反芻する。するりと入り込んで、心の深いところへ落ちてくるような―……彼女の落ち着いた声がそう思わせるのだろうか。


「……今日も、海へ行かれるんですか?」


「ええ。……毎日波の音を聞いていたいんです。海が私の大切な人達と私の”縁”を繋いでくれているから……」


静かな、酷く穏やかな乙橘さんの声に、察した。この人は願っているのではないか、と。

”幸せになれますように”と。


「私は……私はナマナリでした。それは疑いようがない事実です。いえ、過去形ではなく今でもそうなのかもしれません。人が背負った業は簡単になくなりなどしません。……でも、それでも願わずにはいられないのです」


”幸せになれますように”と。






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「お手紙を書いているの、アグネス?」


「あっ、永久。……うん。今ちょうど書き終わったところなんだ。墨が乾くのをね、待っているの」


気が付けば庭が切り取る風景は昼から夜へと移ろっていた。西の端に取り残された昼を東から上った夜が追いかけている。ここにも朝があり昼があり夜がある。

……当たり前な事なのに、最初はそれがなんだか不思議で仕方なかった。それぐらい、ここの暮らしや文化は私の国とは違っていて―……なのに、どちらもとても愛おしいもののように思えるの。

そう言えば、刻も永久も私の部屋に来た時は色々なものを珍しそうに見ていたな、なんてそんな事を一人思い出していた。


「……アグネス?」


「永久の国でも夜になると星が見えるんだなって今更ながらにね、考えてたの」


「ええ。でも星が上る角度はアグネスの国とは違うかな?アグネスがいた国はここよ北だったから」


「でも、空は続いている」


墨がすっかり乾いた手紙を橘が咲いた枝へと結び、いつものように白い霊長の足へ握らせる。あの人が―……刻が使役している霊長の頭を指先で擽るように撫でた。

窓縁から飛び立つ鳥を見送りながら考えていた。翼がね、羽搏きたがっている。私は鳥人ではなくヒュームだからそれはできないけど、でも……と。あなたの……刻の元に舞い降りたいって。

刻に抱きしめてほしい。刻を抱きしめてあげたい。

それでも―……


「それでも私、待っているから。刻のこと」


伝えて下さい。飛べない私の代わりに。

信じて、待っている事を。


≪アグネス・サーンクタ≫
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