日常交流

あなた方のうち、百匹の羊を持っている者がいるとする。そのうち一匹を見失ったなら、九十九匹を荒れ野に残して見失った一匹を見つけ出すまで跡を辿っていくのではないだろうか。

そして見つけ出すと、喜んで自分の肩に乗せて家に帰り、友人や近所の人々を呼び集めて言うだろう。

「一緒に喜んでください。見失った羊を見つけましたから」

あなた方に言っておく。このように悔い改める一人の罪人の為には、悔い改める必要のない九十九人の正しい人の為よりも、もっと大きな喜びが天にある。

塩は善い物である。しかし、その塩が持ち味を失えば、何を持ってそれを取り戻す事が出来るだろうか。畑にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられる。聞く耳のある者は聞きなさい。


【ルカによる福音書 第14章】






「……アルカイド様、また訓練をサボって逃げたな」


大きく開け放たれた窓から午後の光が舞い降り落ちる。約束の時間を過ぎても修練場に姿を見せない主君の名を舌打ちをすると同時に呟き、手に持った模擬刀の先でゴツリ、と一度床を叩いた。


「一体何度目だ……こうやってすっぽかすのは。まあ居場所の見当はついているけど」


修練場の窓へ向かって歩を進め、桟にまず手を掛けて、次に足を掛け身を乗り出し、一気に下へと飛び降りた。中庭に通じるちゃんとした通路は勿論他にあるが、ここから屋敷の中を通って行くと少し遠い。それに比べて窓から飛び降りれば一瞬だ。高さもここは二階だからそこまであるわけでもない。

着地した瞬間に着いた手の平越しに柔らかな土の感触がする。手と膝に着いた湿った土を雑に払い、立ち上がり一歩、前へと踏み出した。主人がサボっているであろう場所へと向かって。


『君がキャロルかい?ついこの前まで王宮騎士をしていたと聞いているが―……』


『はっ。と言いましても、騎士の座に着いていたのは私が所属していた隊では部隊長のみで、その下で働いていた私は一介の兵に過ぎません』


……私がカイムの元を離れてからもう一つ季節が廻った。あいつに除隊を命じられた直後は確かに不満しかなかった。実際、あいつの胸倉を両手で掴んで文句を言ったからな。「私が女だから、お前は私に去れと命じるのか!」っと。

時の流れとはこうも早いものなのだろうか。あの時感じた激情はとうの昔に流れ、もう見えなくなっている。


「……やっぱりここにいた。アルカイド―……」


中庭の中心部から少し離れた庭園の外れにある背の低い木の下に、その人はやはりいた。兵法書をアイマスク代わりに顔に乗せて仰向けに寝転がり規則正しく胸を上下させている主人の無防備でしかない姿に一つ、大きな息が自分の口から零れて落ちる。

膝を折り屈み乗っている本を取れば、両の目蓋は固く閉ざされ、緑の幼い相貌はその奥で隠されていた。


「……ふ抜けた顔。涎まで垂らして。仮にもアンシュタイン家の名を継ぐ次期当主でしょうに」


鼻を摘まむ為に伸ばした手を鼻先で止めて、立ち上がり踵を返す。途中で会ったこの屋敷の使用人の女性にお願いして薄手の毛布を持ってきてもらい、それを受け取り礼をしてすぐに引き返した。戻って来ても先程と変わらず眠りこけている主人の姿に一人安堵し、胸を撫で下ろす。

瞬間、青い空を覆うように毛布が広がった。だらしなく出した腹を掻きながら眠る主人の上に、それはふわりと落ちていく。


「お腹を出して寝てるとまたお腹を壊しますよ。この前みたいに」


「んっ……」


主人が寝返りを打つと同時に彼の顔からばさりと落ちた本を拾い、その横へ今度は私も腰を下ろす。本を開けば白い紙面上に木の影が映り、その影は梢の動き合わせるようにさわり、さわりと動く。……なるほど。確かにここで本を読むのは部屋で読むより気持ちいいのかもしれない。と、頬に風を感じながら思う。気持ちが良過ぎて寝てる人間が自分の隣にいるけれど。

春先よりも濃く感じるようになった緑の匂いがツン……と鼻の奥を刺激する。紙に書いてある文字を目で追い、指でなぞりながら萌えるような緑の匂いを嗅いでいた。長い夢の残り香ではなく今まさにそこにある香りを。穏やかな新生の香りを。

……あいつが私を賊から助けたあの日から私の全ては変わった。考え方も生活も。そして、今また私の生き方が変わろうとしている。

暖炉の前で家族と囲む貧しくてささやかな食卓が死と隣り合わせの血と栄光の戦場へ変わったように。今、再び変わろうとしているんだ。酷く穏やかで暖かな次代を育てる場所へと。

あいつ―……カイムに出会ったあの日から私は長い夢を見続けていたような気がする。実際、私はあの男を崇拝していた。何の後ろ盾もない状態からあの男は常勝無敗の奇跡のような戦いを私に見せてくれていたから。貴族でも、当時は騎士の地位もない、私と同じただの平民での男が見せる奇跡だ。


「んんっ……」


「……この地はよく治まっている。今のこの国の時勢ではどの領地も難しい舵取りを強いられているだろう。その中でもあんたの父さんは本当によくやってると思うよ。あんたはそれを誇りに思っていい」


僅かに毛布の下で身じろいだ幼い主人の髪に指を通して一人瞳を細める。夢の中にいるその人ではなく、今こうして横で寝ているあどけなさが色濃く残した少年の髪に触れながら。まだひ弱な少年に。

カイムは強い人間だ。いや、違う。強くなければならなかったんだ。だから、私はあの男の隣にいたかった。カイムが自分の夢に全てを捧げるならば、戦いで切り開いていくというならばあの人の剣になりたい、と。自身が崇拝している人の事を守りたいと。理解したいと思っていた。でも結局―……


「でも私には駄目だった。私はあいつを理解してやる事がついにできなかった。奇跡を信じてついて行くことは出来たんだろうけど」


『信仰と崇拝は理解から最も遠い感情だ、キャロル』


隊を除隊された日、カイムが最後に私に掛けた言葉が今更グルリ、ぐわりと巡っていく。読んでいた本を静かに閉じて天を仰ぐと同時に、肺の底から大きく一つ息を絞り出す。

図星だった。気付かれていたんだ、あいつには。私がただあいつの夢に便乗しているだけだという事に。

剣になる?笑えるわ。結局重石でしかなかった。


「……私は―……私は理解してあげることが出来るのだろうか。今度こそ」


再び横でころりと寝返りを打つ少年に向って言葉を紡ぐ。数多の選択肢が残されているであろう少年に。

夢はいつか終わる。私の夢が静かに、穏やかに幕を下ろしたように。夢は終わるけれど、それでもとも思う。この少年が幸せな夢に微睡んでいるというならば、今はまだその夢を守ってやりたいと。


「……起きたらサボった罰でにんじんですからね。覚悟しておいてください。アルカイド様」


≪キャロル・シルト≫
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