日常交流
兄弟の皆さん。暫くあなた方と離れ離れになってー……と言っても顔を見なかったというだけで、決して心まで離れてしまったわけではありませんが、一刻も早くあなた方の顔を見たいと私達は心の底から思うようになりました。
それで、私達はあなた方の所へ行こうと決心したのです。
私に限って言えば一度ならず二度までもそうしようと努めました。
私達の主の来臨の時、御前で私達の希望、或いは喜び、或いは誇らしい冠となるのはあなた方の他に誰がいるというのでしょうか。
あなた方こそ、私達の栄光であり喜びなのです。
【テサロニケの人々への第一の手紙 第2章】
一つ風が吹き抜けた。五里霧中の、見渡す限り先もそこも見えない白い闇の中に。
目を開けたままぼんやりと白い闇を見続けていたのか、それとも今の今まで重い目蓋の緞帳を降ろして眠りこけていたのかー……それは分からない。ただ一つはっきりと分かるのはその風を待ち望んでいた自分がいたという事だった。この、弱々しい風を。
自分は自分の思う通りに生きて、そして自分の想いに殉じた。誰に言われたわけでなく自らの意思で、だ。それに後悔は欠片もしていない。全て俺自身が選んだ末の結末だったからだ。
……そう。あの時俺は選ぶと同時に切り捨てた。何かを選ぶという事は同時に選ばれなかった未来を殺すという事でもある。ああ、俺は彼女を捨てたんだ。大義の為に彼女と行く果てにあったかもしれない未来を殺した。
過っていく。風が。追憶が。見えない風の腕が俺の頬を撫ぜて行く。かすかにぬくもりを孕んだ風が俺の周囲で緩く渦を巻き横たわる自分を抱き起すように包み込んでいた。
試しにだらりと力が抜けていた手に力を込めれば微か……ほんの僅か指先が動いた。懐かしい匂いがすぐ傍にある。
俺に資格はない。それは他の誰よりも自分自身が知っている。
だが、資格がなくともお前が構わないというのであれば……いや、違う。もはや耐えきれなくなってしまっている。
知る前なら、あるいはその感情を思い出す前だったならこのまま時と次元の回廊を抜け回帰していただろう。だが、もう……遅い。自分は知ってしまった。思い出してしまった。
白い闇の祭壇に祈りを寄せる腕は細く、木霊のような囁きに想いが目覚めていく。
届かぬ指先へ腕を伸ばした。幾たび手を伸ばし求める。導いてくれ……こんな俺だが……自分が求めるその場所へと。自分を呼ぶその場所に。
違う。会いに行く。どこにいようとも。お前が忘れていようとも。
++++++++++++++++++++
「ミゲル?」
「迎えに来た。そろそろかと思ったからな。ルチアは……よく寝ているようだな……」
天の正中から僅か西に太陽が傾いている。日溜りと自分の母親に抱かれて腕の中で微睡むように寝息を立てている娘の顔を覗き込み、溜息を混ぜながら言葉を紡いだ。これだけ昼間のうちに寝てしまうと今夜のルチアの寝付きはいつもより悪いかもしれない。いや、元々人よりも多く眠っている子だ。案外いつもと同じ時間に寝るかもしれないが……
「迎えってわざわざ馬車を出してまで迎えに来なくても……それに仕事だってまだ片付いてないんだろ?」
「大きな仕事は片付けて来た。細かなところはまだ残ってはいるが……火急の用事というわけではないからな」
穏やかな安心しきった顔で眠る我が子を彼女の腕から預かり、瑞々しい弾力のある丸い頬を撫でる。自分と彼女と……半分ずつ色を受け継いだ愛らしい子の姿に自然と眦が下がり口角が上がる。あたたかい。小鳥のように。
さらり、と妻の深い藍色の髪が動いた。普段彼女が恥ずかしがり中々履こうとしない柔らかなシルク生地のスカートが翻り、つばの広い帽子を飾る青いリボンと白い花が楽し気に揺れていた。
「それじゃあ仕事がまだ残っていると言ってるようなもんだろう?」
「言っただろう。そこまで大事な仕事でもない、と。それにそれよりも重要な案件があったからな」
「はあ?さっき火急の用事はないって……」
「ああ、お前とルチアを迎えに行く方がよっぽど重要だ」
俺を見上げる妻の顔が言葉が終わると同時に僅かに朱色に染まる。頬紅など必要がないほどに美しく、瞬間、色付いた。元々彼女の肌がきめ細かく白いからというのもあるがー……化粧など必要がなかったんじゃないかと思わずにはいられない。白とほのかな朱色がなんとも艶めかしく、そして愛らしいものとして自分の目に映った。
彼女の事を男性的だと評する人間の目は本当にきちんと見えているのかと疑いたくもなる。彼女ほど女性らしい女性も珍しいだろう。自分の妻ほど女性らしい女性を自分は知らない。……求めていた人間だからな。
だが、それがなくとも、例え忘れたままだったとしてもおそらく自分は彼女に惹かれていた。何度でも。何度廻ろうとも。
「べ、別に手なんか繋がなくても……子供じゃないし……それに馬車に乗って帰るんだろう?」
「慣れていない靴を履かせてしまったからな。とても似合っているが……疲れているだろう?……それにその靴を履いた女性はこうされる意味がある」
導いてくれ、俺を。お前の所に。あの時、願った対価として俺が今度は導こう。今度こそ。
「その靴はそもそも長い距離を歩く為の靴じゃない。歩く必要がない日に女性が履く靴だ」
「歩かなくても、いい日……?」
一度取った手を離し、石畳の路の傍らに停めていた馬車の扉を開いた。
馬車の座席の奥に眠る娘の体を横たえ寝かしつけて……そして再び彼女のほっそりとした指先を自分の手の平の上へと乗せる。
そう……指先へ腕を伸ばした。幾たびも求めた細い腕へと。一陣、路地を抜けて来た風が刹那言葉を攫って行く。触れた指先から伝わる懐かしいぬくもりに想いが込み上げた。万感の思いが。
「それを履いた女性は車と椅子の間までしか歩く必要がない。それも男に手を引かれてな。そう宣言するための靴だからな。だからわざわざ歩き辛い造りになっている。……俺が導こう、ゼムリャ」
自分の妻をエスコートする……そこに何の不思議があろうか?
自分の希望、或いは喜び、或いは誇り。今の俺にとってお前こそが喜びであり、栄光だ、ゼムリャ。
≪ミゲル・ナザレ≫
それで、私達はあなた方の所へ行こうと決心したのです。
私に限って言えば一度ならず二度までもそうしようと努めました。
私達の主の来臨の時、御前で私達の希望、或いは喜び、或いは誇らしい冠となるのはあなた方の他に誰がいるというのでしょうか。
あなた方こそ、私達の栄光であり喜びなのです。
【テサロニケの人々への第一の手紙 第2章】
一つ風が吹き抜けた。五里霧中の、見渡す限り先もそこも見えない白い闇の中に。
目を開けたままぼんやりと白い闇を見続けていたのか、それとも今の今まで重い目蓋の緞帳を降ろして眠りこけていたのかー……それは分からない。ただ一つはっきりと分かるのはその風を待ち望んでいた自分がいたという事だった。この、弱々しい風を。
自分は自分の思う通りに生きて、そして自分の想いに殉じた。誰に言われたわけでなく自らの意思で、だ。それに後悔は欠片もしていない。全て俺自身が選んだ末の結末だったからだ。
……そう。あの時俺は選ぶと同時に切り捨てた。何かを選ぶという事は同時に選ばれなかった未来を殺すという事でもある。ああ、俺は彼女を捨てたんだ。大義の為に彼女と行く果てにあったかもしれない未来を殺した。
過っていく。風が。追憶が。見えない風の腕が俺の頬を撫ぜて行く。かすかにぬくもりを孕んだ風が俺の周囲で緩く渦を巻き横たわる自分を抱き起すように包み込んでいた。
試しにだらりと力が抜けていた手に力を込めれば微か……ほんの僅か指先が動いた。懐かしい匂いがすぐ傍にある。
俺に資格はない。それは他の誰よりも自分自身が知っている。
だが、資格がなくともお前が構わないというのであれば……いや、違う。もはや耐えきれなくなってしまっている。
知る前なら、あるいはその感情を思い出す前だったならこのまま時と次元の回廊を抜け回帰していただろう。だが、もう……遅い。自分は知ってしまった。思い出してしまった。
白い闇の祭壇に祈りを寄せる腕は細く、木霊のような囁きに想いが目覚めていく。
届かぬ指先へ腕を伸ばした。幾たび手を伸ばし求める。導いてくれ……こんな俺だが……自分が求めるその場所へと。自分を呼ぶその場所に。
違う。会いに行く。どこにいようとも。お前が忘れていようとも。
++++++++++++++++++++
「ミゲル?」
「迎えに来た。そろそろかと思ったからな。ルチアは……よく寝ているようだな……」
天の正中から僅か西に太陽が傾いている。日溜りと自分の母親に抱かれて腕の中で微睡むように寝息を立てている娘の顔を覗き込み、溜息を混ぜながら言葉を紡いだ。これだけ昼間のうちに寝てしまうと今夜のルチアの寝付きはいつもより悪いかもしれない。いや、元々人よりも多く眠っている子だ。案外いつもと同じ時間に寝るかもしれないが……
「迎えってわざわざ馬車を出してまで迎えに来なくても……それに仕事だってまだ片付いてないんだろ?」
「大きな仕事は片付けて来た。細かなところはまだ残ってはいるが……火急の用事というわけではないからな」
穏やかな安心しきった顔で眠る我が子を彼女の腕から預かり、瑞々しい弾力のある丸い頬を撫でる。自分と彼女と……半分ずつ色を受け継いだ愛らしい子の姿に自然と眦が下がり口角が上がる。あたたかい。小鳥のように。
さらり、と妻の深い藍色の髪が動いた。普段彼女が恥ずかしがり中々履こうとしない柔らかなシルク生地のスカートが翻り、つばの広い帽子を飾る青いリボンと白い花が楽し気に揺れていた。
「それじゃあ仕事がまだ残っていると言ってるようなもんだろう?」
「言っただろう。そこまで大事な仕事でもない、と。それにそれよりも重要な案件があったからな」
「はあ?さっき火急の用事はないって……」
「ああ、お前とルチアを迎えに行く方がよっぽど重要だ」
俺を見上げる妻の顔が言葉が終わると同時に僅かに朱色に染まる。頬紅など必要がないほどに美しく、瞬間、色付いた。元々彼女の肌がきめ細かく白いからというのもあるがー……化粧など必要がなかったんじゃないかと思わずにはいられない。白とほのかな朱色がなんとも艶めかしく、そして愛らしいものとして自分の目に映った。
彼女の事を男性的だと評する人間の目は本当にきちんと見えているのかと疑いたくもなる。彼女ほど女性らしい女性も珍しいだろう。自分の妻ほど女性らしい女性を自分は知らない。……求めていた人間だからな。
だが、それがなくとも、例え忘れたままだったとしてもおそらく自分は彼女に惹かれていた。何度でも。何度廻ろうとも。
「べ、別に手なんか繋がなくても……子供じゃないし……それに馬車に乗って帰るんだろう?」
「慣れていない靴を履かせてしまったからな。とても似合っているが……疲れているだろう?……それにその靴を履いた女性はこうされる意味がある」
導いてくれ、俺を。お前の所に。あの時、願った対価として俺が今度は導こう。今度こそ。
「その靴はそもそも長い距離を歩く為の靴じゃない。歩く必要がない日に女性が履く靴だ」
「歩かなくても、いい日……?」
一度取った手を離し、石畳の路の傍らに停めていた馬車の扉を開いた。
馬車の座席の奥に眠る娘の体を横たえ寝かしつけて……そして再び彼女のほっそりとした指先を自分の手の平の上へと乗せる。
そう……指先へ腕を伸ばした。幾たびも求めた細い腕へと。一陣、路地を抜けて来た風が刹那言葉を攫って行く。触れた指先から伝わる懐かしいぬくもりに想いが込み上げた。万感の思いが。
「それを履いた女性は車と椅子の間までしか歩く必要がない。それも男に手を引かれてな。そう宣言するための靴だからな。だからわざわざ歩き辛い造りになっている。……俺が導こう、ゼムリャ」
自分の妻をエスコートする……そこに何の不思議があろうか?
自分の希望、或いは喜び、或いは誇り。今の俺にとってお前こそが喜びであり、栄光だ、ゼムリャ。
≪ミゲル・ナザレ≫
