日常交流


もし、誰かが人を悩ませたとすれば、それは私を悩ませたのではなく、むしろ、ある程度ー……大げさにならないようにこう言うのですが……あなた方一同を悩ませたのです。

そのような人には大部分の人から受けた罰で十分ですから、むしろ、あなた方は赦し、慰めてやる方が良いのです。

さもなければ、そのような人はあまりの悩みに打ちひしがれてしまうかもしれません。

そこで、その人を愛する事にして下さいと、私はあなた方に勧めます。私が手紙を書き送ったのも実はあらゆる点で従順であるかどうかあなた方を試す為でした。

あなた方が何らかの事で人を赦すなら、私もその人を赦します。

私はと言うと何らかの事で人を赦したとすれば、御子の見ておられるところであなた方の為に赦したのです。

そうしたのは私達が悪魔の悪巧みを知らないわけではないので、悪魔に欺かれない為でした。


【コリントの人々への第2の手紙 第2章】






一つ闇が灯った。底の見えない深淵の只中で。いつから自分がこの場所にいるか……それは自分でも分からない。今自分が寝ているのかそれとも起きているのか、左胸にある心臓が脈を打っているのかいないのか、それすら分からない。ただ一つ確かに分かる事は……


「とんでもないこと……しちゃった……わた、し……」


一筋、頬を後悔が滑り落ちて行く。後悔などしていないはずなのに。いや、する事は赦されないはずなのに。一筋だった後悔が幾重にも幾重にも重なり闇へと融けていく。

あの男は酷く傲慢な快楽主義者だった。自分の欲望の為に数えきれない人を犠牲にしてきた。私の家族も含めて。

あの悍ましい隠し部屋の水檻で眠っている死者達がそれを私に語っていた。ある者は濁った水晶体越しに、ある者は永久に閉じられた目蓋越しに……それは紛れもない事実でありあの男が積み上げて来た罪の歴史。

あんな男の為に後悔するなんて気が知れない。そう私が私を背中越しに嗤っている。そんな自分がいないとは言い切れない。けれど……

闇が落ちて行く。砂の器から砂が零れ落ちて行くようにさらさらと。僅か黒で潰れていた視界が開け、その場所で弱い、弱い光が揺れていた。隙間風で吹き消えてしまいそうな弱々しい光が。私が彼の部屋で夜伽をする時、灯していた小さなカンテラの灯とよく似た色をした光が闇の中で震えている。

気が知れない。そう思った瞬間に、でも、と立ち止まってしまうの。

私が彼の部屋を訪れるたびに感じていた……訪れるごとに強く感じるようになっていった暖かさは偽りだったのかしら、と。

私が部屋を訪れるたびにあなたは少しずつ変わっていった。ほんの少し……ほんの少しだけ。あなたは気付いていなかったかもしれないけれど。いいえ、もしかしたら私の願望が私にそう見せていたのかもしれないけれど。

初めは私はあなたの部屋のドアのすぐそばであなたはこちらに視線を向けるでもなくビロードの椅子に座っていた。夜ごと夜ごと、月が満ちてそして欠けるごとに距離は近付いて行って……私はあなたの頭を自分の膝の上に乗せてあなたの手を取り自分の頬へと導いた。……あなたが私と変わらない血の通うあたたかい人間だとその時知ったの。

赦すとは言えない。赦さないとも言えない。あなたは私の……両親の仇。それは消せない事実。けれど……

薬を飲み崩れ落ちる最中、目蓋を閉じるまでの刹那の時間に私の瞳に映ったあなたの姿が……消えない。

私が犯した罪。赦されない罪。私はあなたを傷付けた。あなたは私の仇。……でも私はあなたを愛していた。愛してしまった……!

泣きそうな顔で私を見つめていたあなたが……迷子の子どものような瞳で私を見つめていた小さなあなたの姿が消せないの……!


「あああああ……わたし、私は……あなたを……」


砂は落ちてしまった。いいえ、私が自らの手で落とした。あの瞬間、私は私を殺すと同時にあなたの心を殺したの。

かけがえのないもの。遠く駆け去って行き二度とは戻らない。私はあなたの心を砕いた。愛した人の心を砕いた。最も卑怯な手を使って。愛に血を流させた。

赦してとは言えない。許さないでとも言えない。私はそれだけの罪を犯したから。あなたと同じように私も罪人だから、あなたが私を怨み、憎むのは当然であり仕方がない事だと思う。

ならば、このまま眠りに就くか?

知らない若い女性の声が私の意識を揺さぶる。厳格な声が私を問いただす。

不幸に逃げるのか?自分が蒔いた憎悪の種の行く末を見届けず一人甘美な死の悲劇に酔うのか?

種……私が蒔いた、”悪い茨の種”。もし、もし私が自分が蒔いた種の行く末を見届けてもいいと言うならば……私は……私は……

私はもう一度彼に……バムに会いたい……!

その瞬間。カンテラの輝きが氾濫し目の前で、爆ぜた。全てが裏返り反転していく。内と外とが引っくり返る。

おいで。帰って来なさい。迎えが来ている。目覚めなさい、罪深い人間よ。

優しい丸みを帯びた声が私を眠りの深淵から導く。

茨の呪いの棘で編んだ牢に閉じ籠った私を引き上げ連れ出すこの手を……私は知っている。

ふるり、と睫毛が震えた。長い長い間閉ざしていた唇が微かに開き冷たい空気が肺を満たす。まだ滲む視界に彼が、映った。世界が、溺れて、沈んでいく。

私の頬に両手で触れている彼が、酷く驚いた表情で私を見つめている。


「……な……い、で……」


乾きひび割れた声が静寂を波立たせる。私の呪いが転嫁したのだろうか?友達の……アンジェリカが持っていた鉢に咲く野茨が枯れて茶色の花弁を床へと落とす。


「泣かないで……バム……」


私はここに、いるから。あなたのそばに、いるから。だから……泣かないで下さい。愛する人よ。


≪ハルモニア・コンコルディア≫
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