日常交流
裁いてはならない。裁かれないためにである。あなた方が人を裁くように、あなた方は裁かれ、あなた方が量るその升であなた方に量り与えられる。兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、何故、自分の目に丸太がある事に気が付かないのか。自分の目に丸太があるのに、どうして兄弟に向って『あなたの目からおが屑を取り除かせてくれ』と言えるのか。
偽善者よ。まず、自分の目から丸太を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになり、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
聖なるものを犬に与えてはならない。また、あなた方の真珠を豚に投げ与えてはならない。犬や豚はそれらを足で踏み付け、向き直って、あなた方を咬み裂くであろう。
求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見出す。叩きなさい。そうすれば開かれる。誰でも求める者は手に入れ、探す者は見出し、叩く者には開かれる。
あなた方のうちに子供がパンを求めているのに石を与える者がいるだろうか。あるいは、魚を求めているのに蛇を与える者がいるだろうか。
あなた方は悪い者であっても自分の子供達に善い物を与える事を知っている。まして、天におられるあなた方の父がご自分を求める者に善い物を与えて下さらない事があるだろうか。
【マタイによる福音書 第6章】
自分を呼んでいるような微かな足音に緩く閉じていた目蓋を開放し、口を開け、夜の間肺の中で滞り澱となっていた空気を朝空気で置換する。ふう……と白い靄となり吐いたそばから散って行くそれを見送りながら重い腰を上げ戸の前に立った。
せっかく客人が来てくれたというのに出迎えないというのは非礼に当たるというものだろう。ましてや、その客人が友人であれば尚の事。
「おはようございます、アイオーンさん。……っと言ってもその様子だと僕が来る事があらかじめ分かっていたようですが」
「なぁに、人より少々耳年増なだけだ」
「耳年増ってこういう時に使う言葉でしたっけ?」
「細かい事は気にするな。中に入れ。丁度に東の空低くに明星が浮かんでいる。中々綺麗なものだぞ」
板張りの冷たい廊下に衣擦れの音が僅かに響く。昨夜一人で開け、放り投げておいた徳利がコロリ、と蹴飛ばされた拍子に廊下から庭へと転がり落ちて行った。
「相変わらずのようですね」
「ああ、変わらないさ。まあ、そろそろ片さないととは思っているんだがな。索冥の奴にどやされる」
くるり、と弧を描くようにシャンが常に連れ歩いている空を泳ぐ魚が尾びれを翻した。俺の鼻先に近付いたかと思えばすぐさま自分の主の元へ帰って行くそれを視線で追って僅かに口角を釣り上げる。なるほど。呼気に混じる酒の匂いが強かったわけか。まあ、だからと言って酒を控えるつもりは毛頭ないが。
「さて、今日はどんな酒を手土産に持って来てくれたんだ?」
「残念ですが今日は薬草茶です。昨日(さくじつ)、僕の家に来た索冥さんに念を押されてしまいましたから。『いい加減あの人に禁酒させたいので、師匠のところに行く時は酒を持って行かないで下さい』っと」
「……マジ?」
「ええ、大マジです」
「あ~……シャンが新しい酒を持って来てくれることを期待していたんだがなあ……当て外れた……」
仰向けに倒れ込むと同時に床に積もった埃がはらり、と舞い散った。変わり映えのしない染みだらけの天井を見上げ落胆の気持ちをこの日一番の溜息の中に溶かしながら、刹那目を閉じた。
「……仕方ない。混ぜるか」
「絶対そうなると思って酒の味を邪魔しない配合にしておきましたよ。まあ、貴方の場合、そうじゃなくても混ぜるんでしょうけど」
「ご名答。よく分かってるじゃないか、シェン」
「ふふっ……僕はシャンの方ですよ。シェンはあっち。もしかしてわざと間違えてたりします?」
青年の白磁の肌を飾る対の紫の瞳が微かに弧を描く。柔和な笑みを浮かべ言葉を紡いだ青年の頭に一度触れ、差し出された茶に冷酒を注ぎ、入れた。
「しかし、本当にお酒が好きなんですね」
「死を思え。だから今は陽気に飲もう。明日俺達は死ぬのだから」
「”メメントモリ”、ですか」
「よく知っているな。ああ、そうだ。この世に死ほど平等で無慈悲なものはない。どんな尊大な英雄だろうが地べたを這いずり回る虫だろうが死は平等にやって来る。遅いか早いかの違いこそあれ起こる結果は変わらない」
薄く白み始めた東雲の空に全天で一番輝く星が昇る。惑う星だ。
「”死”は強い憧憬の念を人に抱かせるからな。”死”に魅入られ取り込まれていった者達の話なら事欠かない。……お前もそうじゃないのか?」
クルリ、からり。酒の中に浮かんだ薬草が円を描き、沈む。液面に映り込んだ自分の顔ごと一気に酒を飲み込んでそう問い掛けた。
「魅入られてしまうのも仕方ありませんよ。時を打つのは死神の仕事です。言うなれば神の仕業、御業、という事ですから。不可侵、不可触の神。それが本当に存在するかどうかは知りませんがー……ただ」
「ただ?」
「僕は生と死と、その二つは切り離して考えるものではないと、そう思っています。生を否定するあまり死に縋りつくようでは本末転倒です」
思いがけない返答に顔を上げ、しばしの間瞬きする事すら忘れシャンの瞳を見つめていた。変わらない虚ろを抱いてこちらを瞳が見つめていた。今まさに俺が覗いているのと同じように。そしてー……
「ははははっ!!!シャン、お前はそう思うか!その通り!生と死は切り離せるものではないし表裏の関係ですらない。お前が今言ったように流れるものだ。繋がった一連の流れだ!」
目を片手で覆い天を仰いだ。大口を開け人目もはばからず声を上げて笑えば、先程飲んだばかりの強い酒の匂いが抜けて行く。今日の酒はなんて美味いんだろうか。
「さあ、シャンも飲め。上物の酒だ。本当は自分一人で飲み切るつもりだったが、俺は今非常に気分がいいんでな」
「……ふふっ。今は陽気に飲む時、ですからね」
トクリ、トクリと注がれる無色透明な酒に明星の光が溶け、混じる。肩をすくめ僅かに笑む友の言葉を肯定する為に自分の口元に浮かべた三日月を更に釣り上げた。
「ああ、そうだ。死を思え。死を讃えよ。生きるという事は緩やかに死につつあるという事だ。死に向かう為にも今日という日を生きようじゃないか。死を肯定する為に生も肯定しよう。求める者には与えられる。探す者は見出す。叩く者には開かれるのだから」
≪アイオーン・グノーシス≫
