第8章 安寧と不穏


世があなた方を憎むなら、あなた方よりも先に私を憎んだ事を知っておきなさい。

あなた方が世に属していたなら、世はあなた方を自分のものとして愛した事であろう。だが、あなた方は世に属しているのではない。

私があなた方をこの世に選び出したのである。だから、世はあなた方を憎むのである。


【ヨハネによる福音書 第15章】






壁に掛けられたランプの灯火が影を震わせる。昼の光よりも弱々しいこの光の下で無心にペンを走らせ続けているうら若き同志の横顔を見つめ、私は一つ肺から息を吐き出した。


「エテル。ここで一度休憩をしよう」


「えっ……でも……まだフリードリヒさんに頼まれた資料の集計と整理が終わっていなくて……作業が予定よりも遅れているのでその分の遅れを取り戻さないといけませんし……」


ランプの灯火が照らし出した彼女の顔色にやはりと口に出さないまでも思い、今まで読んでいた報告書を机の上へと置き立ち上がった。私の行動の意図が掴めず瞬きを繰り返す彼女の頭に自分の手の平を乗せ、「だからだ」と言葉を紡いで。


「でも……」


「エテル、いつかも君に話したと思うが体調を管理するのも立派な君の仕事のうちだよ。それに疲弊している時に無理に仕事をしても却って効率が落ちる。君がしようとしている事は著しく生産性を欠く行為だよ」


時計の秒針が寸分の狂いもなく時を刻む。わずかの沈黙の後「はい」と渋々と言った様子で小さく言葉を漏らした彼女の頭から自分の手を離した。「いい子だね、エテル」という言葉と共に。

彼女と私の立場は対等だ。いや、彼女だけではない。私と私の同志諸君の間に上下など存在しない。全は一であり、一は全である以上、上下は存在しえない。してはならない。

故に私が今彼女に対して取った行動は決して褒められるものではと言える。何故なら彼女は子ではなく立派な私の同志だからだ。……なのだが、癖になってしまっているのだろう。頭で分かっていても彼女には自分の子どもにするのと同じように接してしまう。

ふるり、と首を横に振り浮かんだ像を打ち消し考えを切り替える。私の名を呼び再び不思議そうに目蓋を瞬かせる彼女の、どこか幼さを感じさせる仕草に自然と眦が緩んでいくのを自分自身でも感じていた。

少し座って待っていてくれと彼女に伝え踵を返し茶器へと手を伸ばした。そういえばこうして誰かの為に茶を淹れる事も久しくなかったな。


「飲みなさい。体が温まる。チャイと呼ばれる異国で飲まれている紅茶だ。作業効率を上げたいなら一度手を止め糖分を摂った方がいい。糖は思考の材料だよ」


甘い香りを纏った白い湯気が白磁のカップから緩やかに立ち上る。私の手から何の迷いもなく受け取りにこりと花が咲いた様に微笑むエテルの笑顔を刹那見下ろして自分の席へと戻った。キシリ、と音を立てて背もたれが動く。


「……もしそのチャイの中に私が毒を混ぜていたなら……エテル、君は今頃死んでいるよ」


「えっ……」


ゆるりと立ち上る香りが鼻腔を微かに擽る。カップを持つ手を止め目を見開き私を見つめる彼女と瞬間、視線が交差した。


「勿論例えばの話だよ。それに君を責めるためにこんな事を言ったわけでもない。エテル、君の実直さは間違いなく美点だ。誠実さと実直さは人心を掴む。だけど、これも同時に覚えておきなさい。愚直さとそれは紙一重であるということを。愚直さは君の身を破滅させる」


一筋の陽光も差し込まない夜の底。するり、と喉を通り抜けた茶が体を温める。もう一度エテルへと茶を飲むように勧めれば、彼女は考え込むように俯き固まってしまった。


「大丈夫だよ。本当に毒を入れていたなら今頃私も倒れている。君と同じ茶を飲んでいるからね。何も入っていない。……砂糖とミルクとスパイスは別だが、ね」


言葉と共に笑みが溶けて行く。穏やかな笑みが。穏やかで静かな夜の底に。


「少しびっくりしました……」


「ふふっ、驚かせてしまったかい?なら悪戯は成功だ。では、もう一つの戯れにも付き合ってくれないか?老いぼれが今から君にする問いについて考え、その考えを教えてほしい」


「老いぼれだなんて……まだまだお若いじゃないですか」


「いや、そんな事はないんだよ、エテル。日に日に自分が衰えて行くのを感じているからね。若い頃と比べたら当然だよ。……話が逸れたね、戻そう。エテル、君はどう思う?」


もうどれぐらい長い間この問いを抱き続けているだろう。身体は衰える一方だが怒りは膨らむばかりだ。


「最悪の民主政治と最高の独裁政治と……エテル、君はどちらがより望ましい政治形態だと思う?」


カップの液面に逆さまに写った自分の鏡像が波打ち震える。残っていた茶を一気に飲み干して深く、深く息を吐いた。


「仮に国民全員に選挙権があったとしよう。だが、知的訓練をされていないものが下した決定を正しい決定であるという事が出来るだろうか?愚かさ故に互譲や合意形成ができず政策が停滞し、愚かな政策が実行される場合もある」


国民全員が選挙権を持つ。それが意味するものは言うなれば、有権者が各々のエゴイズムを追及し意思決定をする政治状況にあるという事だ。

甘い香りが消えた室内に時計の針が進む音だけが変わりなく響く。休みなく、行進するように。重くはない、だが軽くもない沈黙が彼女と私の間とに蟠って澱を作っていた。そして……


「フリードリヒ、入るぞ」


「その声はメビウスかい?鍵は開いているよ。入って来てくれ」


三度響いた扉を叩く音が静寂の均衡を破る。扉を潜り現われた古くからの同志の姿に、緩やかな弧が口元で浮かび上がった。


「夜遅くに悪いな。……おや、お前は……」


「あっ、あの……!私は……!」


「仕事の手伝いをしてもらっているんだよ。私だけで片付けられる量でもなくなって来たんでね。それからちょっと教師の真似事をしたくなったのさ。……どうだい、エテル?中々様になってはいただろう?」


片目をつぶりエテルへと視線を向ければ彼女は困った様にオロオロと視線を惑わせて、頭を深々と下げ一礼すると慌てたように走り扉の向こうへと消えてしまった。らしいと言えばらしい反応なのだが……また服の裾を踏ん付けて転げ落ちないだろうか……よく他の同志をクッション代わりに転んでいると聞くしな……


「……エテルには話したのか?」


「いや、彼女は何も知らない。それでいい。それがあの子の美点だ。エテルはあれでよい」


冷酷さと憐れみ深さ。恐れられる者と愛される者と……さて、どちらが為政者として善い気質だろうか?


「椅子に掛けてくれ、メビウス。私も話を詰めたいと思っていたところだ。……”北”のな」


≪フリードリヒ・コミンテルン≫
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