最終章 輝く日を仰ぐ時

もし、あなた方が善を行う事に熱心であれば、誰かがあなた方に危害を加えるでしょう。たとえ、義の為に苦しみを受けてもあなた方は幸いなのです。脅しを恐れたり、心を乱してはなりません。ただ、心の中で主を崇めなさい。

あなた方が抱いている希望について問い質す人には、いつでも答えられるように用意していなさい。それも優しく、慎み深く、正しい思いを持って答えなさい。

そうすれば、主と一致したあなた方の正しい生活を謗った人もあなた方に言った悪口を恥じ入るでしょう。もし、神のみ旨であるなら、善い事を行って苦しむ方が悪い事を行って苦しむよりも勝っています。

最後に、あなた方は皆、心を一つにし、思いを同じくし、兄弟愛と慈しみの心を持ち謙虚でありなさい。

悪を持って悪に、罵りを持って罵りに報いてはなりません。

「命を愛し、幸せな日々を迎えたいと願う者は、舌を制し、悪を行わず、唇を閉じて偽りを語らず、悪を避けて善を行い、平和を求めてこれを追え。主の目は正しい人に。主の耳は彼らの祈りに、しかし、主の顔は悪を行う者に厳しく向けられる」


【ペトロ第一の手紙 第3章】






荒涼な大地は北から吹く凍てつく大気により硬く凍りつく。緑の草一本も生えない死が支配する大地を吠えるような風が幾重にもうねり過ぎていった。

空は鉛の板で蓋をされたかのように厚い雲に覆われ暗澹とし、雲と大地とで世界は見事に二分されていた。


「本当にこんな辺鄙な場所にサクリス様がおっしゃったような敵の本拠地があるんですかね~?」


強い風を受け激しく靡く防寒用の外套を抑えながら漏らしたのはルミナスという名前のリザードマンの血が混じった混血の少女だ。自称ルマの妹だという彼女は、どこで知ったのか今回の行軍について嗅ぎつけると半ば強引に俺達の隊について来たのだ。


「サクリス老が嘘を仰っているようには思えません。確かに、あの方は暴君の教育係もされていましたが同時に聖王の教育係でもありました。ルミナス嬢……覚えていますか?暴君が復活した時、サクリス老が放った言葉を。サクリス老と暴君と―……協力し合っているようには思えませんでした」


長い髪をばさりと切り落とし、白い法衣を脱ぎ捨て白銀の鎧を身に纏った教皇が少女の問いに答えた。


『暗闇の中で弧を描き、漂うようにして生きて来たか。地を這うようにこの世に戻って来たか。この島で流れた数多の血を贄に、戦乱で落命した者達の骸を招き手として墓穴の中から蘇って来たか』


「……考え事か?アルフォート」


「ああ、セデル。あの時のサクリスの言葉を思い出してたんだ。……あの”邪悪”が本当にロッテだとするならば、なんであいつは復活したのか……どうやって、ってな。あいつが聖王に討たれたのは確かなんだろう?死んだはずのロッテが何故……?」


「黄泉がえり、か」


「……刻?」


「俺達が生まれた国にはそういった概念がある。黄泉とは俺達の国の言葉で常世―……つまり死後の世界を指す言葉だが、一度黄泉に赴いたものが現世に帰って来るという神話が存在するんだ」


「でも、それはあくまで神話、物語の中の話だろ?それにたとえ君が言うところの黄泉がえりが成されたとしても、そんな事が出来る以上それじゃもはや人間ですら……」


「つまりこうか?黄泉がえってきたロッテはもはや人間ではなく神に近い”何か”に変質している、と」


ピエールの言葉が終わるより先に被せるようにしてオスカーが言葉を紡いだ。駆け抜ける刃物のような風の中で、それでもオスカーの声はやけに通るように響く。


「”神”って―……そんな邪悪なものが神様だなんてちょっと無理がある感じがしませんか?そんなものが神なわけないじゃないですか」


「いや、ルミナス。俺の国では邪悪な存在だとしても神は神として認識されているんだ。禍津日神(マガツヒノカミ)と俺達は呼んでいる。……そのロッテという者が顕現した場に俺はいなかったが、サクリスという者が言っていたのだろう?落命した者達の骸を招き手として蘇って来たのか、と。おそらくそいつはこの国で今まで流された血を代償に力を得、黄泉がえってきたのだろう。マガツとして」


赤茶けた大地に影の色が落ちる。光がどこにも存在しない世界で影の色だけが気味が悪いほど明瞭だった。流離の地において、空気でさえ凍結させるような寒気は寸毫のぬくもりすら寄越さず自分達の身を貫いていく。


「マガツでも何でもいいけどよ……方角はこっちで合ってるのか?あてもなく荒野を彷徨っている、なんてことはないよな?」


翼手の翼を持った青年が一息ついた後、言葉を漏らす。今までも何度か赤軍との戦場で相まみえていた相手なだけに、彼―……メドラウトというらしいが、彼と彼女が俺達の隊に参加したいと志願してきた時は心底驚いた。暫くの間、その言葉の意味が理解できないぐらいに。


『……正直、私はあなたに対して複雑な想いを未だに抱いています。それでもこれから戦いに赴こうとするあなたの肩に背負った荷を一つ、降ろす事は出来る。許す事は出来ないかもしれません。でも……私はあなたをもう怨みません』


彼女―……エテルが王都を出立する直前に俺に対して語った言葉が不意に脳裏をよぎった。その一言にどれだけ救われる思いがしただろうか。

……彼女から渡されたフリードリヒの遺品である古び裾がボロボロになった外套の袖を強く握りしめながら顔を上げた。怨嗟の風のその向こうにある亡者の巣を見据える、その為に。

方角は間違っていない。そしてそれはもうすぐ現われるはずだ。俺の中に流れる”血”がそれを教えてくれている。瞳の奥に焼き付いた血による呪いは目蓋の下で忘れ難く、目を開けば残滓となり俺を導いていた。飛ぶ石礫渦巻く先にあるかの地へと。


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「これは誰かの屋敷……でしょうか。それにこの屋敷全体を覆う禍々しい邪気は……」


荒野の真ん中に突如として現われた屋敷の中へ一歩足を踏み入れると同時に覆いかぶさるように、禍々しい何かが襲う。教皇が今言った通り、禍々しい邪気がこの屋敷全体に満ちていた。

呪われてあれ。呪われてあれ、とこしえに。

揶揄を含んだかのような声が、朧な姿をした亡者たちがつかず離れず、付き纏う。

その屋敷はただの屋敷というには奇妙過ぎた。天井に突き当たる階段、天井にある手すり、床に設置された窓、床にある屋根、ドアノブのないドア、床のない部屋、扉の横にあるもう一つの小さな扉。そしてそのどれもがちぐはぐにズレていた。それは狂気そのものだった。

一歩踏み出すごとに床が軋み、この屋敷に満ちる亡者が声なき声をあげる。声はなくともけたたましい声が付き纏い、逃げる事を許さない。


「ここは……墓地……馬鹿な……俺達は今まで屋敷の中に……」


「……我が城へよく来てくれた来訪者たちよ。ふふっ……”器”が作ったこの屋敷は気に入ってくれたか?この”器”は少々神経質で臆病な気質でな。”悪魔”をこの屋敷の中に封じ込めるために屋敷の部屋を増やし続けてな。既に、根深く”悪魔”が巣食っていたというのに」


最奥にある扉を開いた、その時だった。刹那にして目に映る光景が滲み沈んでいったのは。世界が流転し巡る。気が付いた時俺達は今まで通って来た屋敷の中ではなく中央に大きな穴が開いた墓地に立っていた。穴の中から名状し難き闇が噴出している。

前方にある白く淡い人影。それは先で明らかに俺達を待ち受けていた。青白く鬼火が溢れ、その影の足許に集う。


「ルマっ!!!……それに……チョコ!?」


「安心していい。二人ともまだ息はある。半分―……ではやはり足りそうになくてな。だからわざわざ餌を使いお前も招待した、というわけだ。なあ、聖王の片葉よ」


暗闇の中弧を描き、漂うように亡者が地を這っていた。


「この数十年の間、この島で流れた数多の血のおかげで”器”を依代とした復活をする事は出来たが―……それでもまだ完全ではない。俺が欲するのは俺自身の肉体だ。それを成す為には忌々しいブルボンが掛けた血の戒めを解く必要がある。それには特別が供物が必要でな。奴の血を最も濃く受け継ぐ者の、血が」


「聖王の片葉、と今仰いましたね。ルマンドは私の娘です。彼女は片葉ではない。と、いう事はルマンドの隣の少女は……!!」


教皇の問いに”邪悪”の口角がつり上がり歪んだ。肯定するように。


「ほう……”神”に逆らうのか?その眼―……ふふっ……あの時俺を討ったブルボンと同じものだ。忌々しい」


槍を構え、刃の先を真っ直ぐ”邪悪”へと向けた。

この場所に来て、こいつと相まみえて、悟った。こいつは人ならざる者―……穢れそのものだ。マガツだ。災禍そのものだ。こいつをこのまま野放しにしてしまえば、復活を許せば今までと比べ物にならない量の血が、この国で流されるだろう。


『死んでもいいと思う事、死にたいと思う事、そして命を賭けるという事は似ているようだが……それは全く別物だ。そして、断言しよう。この石の下に眠る者達は誰一人として死にたいとは思っていなかった。誰一人としてだ。そして、私はそんな彼らが積み上げ作り上げてくれた石の道の先端にいる。立っている。彼らのおかげで私はここまで来ることができたんだ』


あの日、あの時、泣きたくなるほど穏やかに夕日に暮れ霞む墓地で聞いたフリードリヒの言葉が、残滓が蘇る。


『今更後悔して何になる。知っていて歩んできた道だ。詫びてしまえば、悔やんでしまえばー……全てが閉ざされ水泡に帰すだろう』


「俺はあいつが積んだ石を無駄にしたくない。あの時石の道の先端にいたのがフリードリヒなら、今その道の先端にいるのは俺だ。俺はこの道を途絶えさせたくない。この道を更に未来へと繋げて見せるッ!!!!」


ここまでに流れた血を、積まれた骸を、無駄にはしない!!!!


「”神”に逆らうと言うのか?ふふっ……ならばその矮小な思いあがり正さねばな。”神”として」


「行くぞっ!みんなっ!!これが最後の闘いだ!!」


悪霊が”邪悪”に収束し、禍々しい陰影をつける。粘つくような濃密な鬼火がかの者の顔を露わにしていた。


≪アルフォート≫
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