最終章 輝く日を仰ぐ時
恐れられるのと愛されるのと、さてどちらがいよいか、である。誰しもが両方を兼ね備えているのが望ましいと答えよう。
だが、二つ合わせて持つのは至って難しい。そこで、どちらか一つを捨ててやっていくとすれば、愛されるより恐れられる方がはるかに安全である。と、言うのは一般に人間は恩知らずでむら気で、猫かぶりの偽善者で、身の危険を振り払おうとし、欲得には目がないものだと言えるからである。
他方、人間は恐れている人より、愛情をかけてくれる人を容赦なく傷つけるものである。
その理由は、人間は元々邪なものであるから、ただ恩義の絆で結ばれた愛情などは自分の利害が絡む機会がやってくれば、たちまち断ち切ってしまう。
ところが恐れている人については処刑の恐怖が付きまとう事からあなたは見放される事がない。
【君主論】
「私がここを追いやられてからもう数年でしょうか?ふふっ、随分質素で綺麗な部屋にしてくれたものです」
「ここは?」
「フリードリヒが使っていたのでしょう。その前はここは私の執務室でした。更にその前は―……この部屋の主は王、でした」
落日の茜が世界を震えさせ、沈めていく。随分綺麗にしてくれた、と、先程ブランチュールは言ったが、確かにこの部屋にあるのは一組の木の机と椅子と、本棚と―……それだけだった。この部屋には最低限のもの以外何一つとして置かれていなかった。いや、ないというよりは存在すら許されていないかのように、俺の目には映った。
「王が存命の時代や私がここを使っていた時には各国から届いた調度品や交易で得た金細工が並べられていたのですが、全て捨てるか売られるかしたようですね。……まったく、昔から変わらない。いつもそうでした。あの人は、フリードリヒは躊躇というものがない。切り捨てるという行為そのものに」
落日の影が窓の前に立つ教皇の姿を同じ影色で染めていた。徐々に降り始めた夜の帳同様に、こちらに向かって伸びる影も長く、色濃くなっていく。
「昔から変わらない、と今あんたは言ったな?教皇、あんた知っていたんだな。昔からあいつ―……フリードリヒのことを」
疑問形ではなく確信を込め、言い切る形で尋ねれば、返って来たのは沈黙だった。その沈黙が否定ではなく肯定を意味するものだということが自分にも分かった。
黄昏の轍に沈黙が淀む。
「……彼との出会いは、まだ私が今の君よりもはるかに幼い時でした。彼は今でこそ貴族や特権階級の人間―……ブルジョア階級を憎んでいましたが、そんな彼自身も貴族だったんです。かつては、ですが」
永遠に続くかと思えるような沈黙を破ったのは教皇の方だった。未来ではなく過去を見据えて。暁ではなく黄昏を見つめながら目の前の男は言葉を紡ぐ。彼と、そしてフリードリヒの間にかつて確かにあった”歴史”が言の葉となり紡がれていく。
「当時世を治めていたのはロッテ王でした。今とは比べ物にならないほど圧政が酷かった時代です。そう、戦乱で荒れに荒れた今と比較してもなお悪かった。ロッテ王はこの世の全ての富を自身の元に集めたがっていましたから。そんな中で彼の両親は早くに逝去しました。若くして家督を継ぐことになった彼が味わう事になった辛酸を想像することは難しくないでしょう」
「そんな中であんたはフリードリヒと出会ったのか?いち修道士として?」
「いえ、違います。彼にはいち個人として出会いました。義兄とは、ね」
義兄。教皇が発した言葉が逢魔に溶けていく。幾重にもうねり、消えていく。
「フリードリヒには血が繋がった妹がいました。名はアルブス。兄とは似ても似つかないたおやかで白い少女。彼女は雪のように白い女性でした」
闇がつかず離れず、透けるように教皇に付きまとう。過去の残渣を見つめる者の姿を朧にしていく。影すら闇へと沈んだが、声はしかしその中で明瞭だった。
「そのアルブスという人は……」
「すでに故人です。殺されました。……他ならぬ彼女の兄自身の手によって。ある嵐の夜、アルブスが乗った馬車が何者かによる夜襲を受けました。すぐに捜索すればあるいは発見する事ができたかもしれません。しかし、フリードリヒはそれをしなかった。その頃には彼女の家は財政難を理由に取り潰しに合い、彼女自身の身分もプロレタリアとなっていました。客観的に見れば一人のプロレタリアが死んだ、それで終わっていたでしょう。しかし、彼女が住んでいた地は他よりもブルジョア層に対する反感が強い場所でした。……彼女の死をきっかけに局地的な市民革命が成されたのですよ。”何か”に似ていると思いませんか?死や恐怖を呼び水にして世が動く、一連の流れは」
ゴイムの虐殺。
その一文が脳裏を霞めた。かまびすしいあの日の悲鳴が蘇り傍を離れない。
「人間は恐れている者より愛情をかけてくれる者を容赦なく傷つけるものですから」
「だからあんたも傷付けたのか?アルブスを失った心理的外傷があんたにそうさせたのか?実の娘を、ルマを利用し続けてきたのか?彼女の事を”王女”としてこれからもあんたは利用し続けていくのか?」
沈黙が痛かった。冬の空気のように張り詰めた沈黙が見えない刃で皮膚を刺し、砂礫となって皮膚を打って行く。
「それは、分かりません。確かに私にとってあの子は道具”だった”子でした」
「そこに親としての情はあったのか?」
「そんなもの―……親としての情などはなから持ち合わせてはいませんよ」
これは呪いであって子に対する慈悲などではない。
ブランチュールはそう言い切ったが、気付いているのだろうか?あいつ自身が今さっき言ったじゃないか。
人間は恐れている者より愛情をかけてくれる者を容赦なく傷つけるものだ、と。
「……行くのですか?ロッテを追って」
「ああ」
「アルフォート君、君自身既に気付いているでしょう。君こそがこの国の正統な王位継承者であるということに。君の昼と夜とで色が変わる虹彩は紛れもなく聖王の血統たる者の証です。この国の民は今救世主を求めている。君が正式に宣言を出せば乱れたこの国も平定される事でしょう。全てを手に入れることができる。それでもなお、君は偽の王女を助けるために動くと言うのですか?自分の身を危険に晒してまで?」
「理由が……理由がいるのかよ。ルマを助ける事に理由なんて必要、ない」
あいつは確かに可愛げがない。意地っ張りだし、甘え下手で生意気な女だ。けど、あいつが抱えていた孤独に気付けないほど俺は馬鹿じゃなかった。あいつの細い肩に乗る重責を見て見ぬふりなどできなかった。そして、気付いた時には―……どうしようもなく惹かれてしまっていたんだ。
「決意は固い、というわけですね。ならば、アルフォート君、最果ての北の荒野を目指しなさい。かつてロッテ王とブルボン王が雌雄を決したかの地へ。先日ここへいらしたサクリス老が教えてくださいましたよ。かの地に大きなひずみが生じている、と」
『その場所は死によって包囲されている。それでも行くというならいくといい。闇がかつて葬られた地へ。怨霊となり果てた者を屠りにいくといい』
「大軍を率いてかの地へ行くことはできないでしょう。少数精鋭で臨む必要があります。準備は怠らないように。頼みましたよ、覇王の遺児よ」
++++++++++++++++++++
荒涼たる大地は硬く凍り幾重にもうねる。その中心に不気味な家があった。
空は暗澹と垂れ込め、雲と大地とで世界は見事に二分される。
家の中心から繋がる闇の渦のその中で怨霊となり果てたかつての王は口角を上げ笑みを浮かべていた。
「さあ、早く来い。王の遺児の片翼よ。既に捉えた片翼と共に、扉を開く贄となりに」
≪アルフォート≫
だが、二つ合わせて持つのは至って難しい。そこで、どちらか一つを捨ててやっていくとすれば、愛されるより恐れられる方がはるかに安全である。と、言うのは一般に人間は恩知らずでむら気で、猫かぶりの偽善者で、身の危険を振り払おうとし、欲得には目がないものだと言えるからである。
他方、人間は恐れている人より、愛情をかけてくれる人を容赦なく傷つけるものである。
その理由は、人間は元々邪なものであるから、ただ恩義の絆で結ばれた愛情などは自分の利害が絡む機会がやってくれば、たちまち断ち切ってしまう。
ところが恐れている人については処刑の恐怖が付きまとう事からあなたは見放される事がない。
【君主論】
「私がここを追いやられてからもう数年でしょうか?ふふっ、随分質素で綺麗な部屋にしてくれたものです」
「ここは?」
「フリードリヒが使っていたのでしょう。その前はここは私の執務室でした。更にその前は―……この部屋の主は王、でした」
落日の茜が世界を震えさせ、沈めていく。随分綺麗にしてくれた、と、先程ブランチュールは言ったが、確かにこの部屋にあるのは一組の木の机と椅子と、本棚と―……それだけだった。この部屋には最低限のもの以外何一つとして置かれていなかった。いや、ないというよりは存在すら許されていないかのように、俺の目には映った。
「王が存命の時代や私がここを使っていた時には各国から届いた調度品や交易で得た金細工が並べられていたのですが、全て捨てるか売られるかしたようですね。……まったく、昔から変わらない。いつもそうでした。あの人は、フリードリヒは躊躇というものがない。切り捨てるという行為そのものに」
落日の影が窓の前に立つ教皇の姿を同じ影色で染めていた。徐々に降り始めた夜の帳同様に、こちらに向かって伸びる影も長く、色濃くなっていく。
「昔から変わらない、と今あんたは言ったな?教皇、あんた知っていたんだな。昔からあいつ―……フリードリヒのことを」
疑問形ではなく確信を込め、言い切る形で尋ねれば、返って来たのは沈黙だった。その沈黙が否定ではなく肯定を意味するものだということが自分にも分かった。
黄昏の轍に沈黙が淀む。
「……彼との出会いは、まだ私が今の君よりもはるかに幼い時でした。彼は今でこそ貴族や特権階級の人間―……ブルジョア階級を憎んでいましたが、そんな彼自身も貴族だったんです。かつては、ですが」
永遠に続くかと思えるような沈黙を破ったのは教皇の方だった。未来ではなく過去を見据えて。暁ではなく黄昏を見つめながら目の前の男は言葉を紡ぐ。彼と、そしてフリードリヒの間にかつて確かにあった”歴史”が言の葉となり紡がれていく。
「当時世を治めていたのはロッテ王でした。今とは比べ物にならないほど圧政が酷かった時代です。そう、戦乱で荒れに荒れた今と比較してもなお悪かった。ロッテ王はこの世の全ての富を自身の元に集めたがっていましたから。そんな中で彼の両親は早くに逝去しました。若くして家督を継ぐことになった彼が味わう事になった辛酸を想像することは難しくないでしょう」
「そんな中であんたはフリードリヒと出会ったのか?いち修道士として?」
「いえ、違います。彼にはいち個人として出会いました。義兄とは、ね」
義兄。教皇が発した言葉が逢魔に溶けていく。幾重にもうねり、消えていく。
「フリードリヒには血が繋がった妹がいました。名はアルブス。兄とは似ても似つかないたおやかで白い少女。彼女は雪のように白い女性でした」
闇がつかず離れず、透けるように教皇に付きまとう。過去の残渣を見つめる者の姿を朧にしていく。影すら闇へと沈んだが、声はしかしその中で明瞭だった。
「そのアルブスという人は……」
「すでに故人です。殺されました。……他ならぬ彼女の兄自身の手によって。ある嵐の夜、アルブスが乗った馬車が何者かによる夜襲を受けました。すぐに捜索すればあるいは発見する事ができたかもしれません。しかし、フリードリヒはそれをしなかった。その頃には彼女の家は財政難を理由に取り潰しに合い、彼女自身の身分もプロレタリアとなっていました。客観的に見れば一人のプロレタリアが死んだ、それで終わっていたでしょう。しかし、彼女が住んでいた地は他よりもブルジョア層に対する反感が強い場所でした。……彼女の死をきっかけに局地的な市民革命が成されたのですよ。”何か”に似ていると思いませんか?死や恐怖を呼び水にして世が動く、一連の流れは」
ゴイムの虐殺。
その一文が脳裏を霞めた。かまびすしいあの日の悲鳴が蘇り傍を離れない。
「人間は恐れている者より愛情をかけてくれる者を容赦なく傷つけるものですから」
「だからあんたも傷付けたのか?アルブスを失った心理的外傷があんたにそうさせたのか?実の娘を、ルマを利用し続けてきたのか?彼女の事を”王女”としてこれからもあんたは利用し続けていくのか?」
沈黙が痛かった。冬の空気のように張り詰めた沈黙が見えない刃で皮膚を刺し、砂礫となって皮膚を打って行く。
「それは、分かりません。確かに私にとってあの子は道具”だった”子でした」
「そこに親としての情はあったのか?」
「そんなもの―……親としての情などはなから持ち合わせてはいませんよ」
これは呪いであって子に対する慈悲などではない。
ブランチュールはそう言い切ったが、気付いているのだろうか?あいつ自身が今さっき言ったじゃないか。
人間は恐れている者より愛情をかけてくれる者を容赦なく傷つけるものだ、と。
「……行くのですか?ロッテを追って」
「ああ」
「アルフォート君、君自身既に気付いているでしょう。君こそがこの国の正統な王位継承者であるということに。君の昼と夜とで色が変わる虹彩は紛れもなく聖王の血統たる者の証です。この国の民は今救世主を求めている。君が正式に宣言を出せば乱れたこの国も平定される事でしょう。全てを手に入れることができる。それでもなお、君は偽の王女を助けるために動くと言うのですか?自分の身を危険に晒してまで?」
「理由が……理由がいるのかよ。ルマを助ける事に理由なんて必要、ない」
あいつは確かに可愛げがない。意地っ張りだし、甘え下手で生意気な女だ。けど、あいつが抱えていた孤独に気付けないほど俺は馬鹿じゃなかった。あいつの細い肩に乗る重責を見て見ぬふりなどできなかった。そして、気付いた時には―……どうしようもなく惹かれてしまっていたんだ。
「決意は固い、というわけですね。ならば、アルフォート君、最果ての北の荒野を目指しなさい。かつてロッテ王とブルボン王が雌雄を決したかの地へ。先日ここへいらしたサクリス老が教えてくださいましたよ。かの地に大きなひずみが生じている、と」
『その場所は死によって包囲されている。それでも行くというならいくといい。闇がかつて葬られた地へ。怨霊となり果てた者を屠りにいくといい』
「大軍を率いてかの地へ行くことはできないでしょう。少数精鋭で臨む必要があります。準備は怠らないように。頼みましたよ、覇王の遺児よ」
++++++++++++++++++++
荒涼たる大地は硬く凍り幾重にもうねる。その中心に不気味な家があった。
空は暗澹と垂れ込め、雲と大地とで世界は見事に二分される。
家の中心から繋がる闇の渦のその中で怨霊となり果てたかつての王は口角を上げ笑みを浮かべていた。
「さあ、早く来い。王の遺児の片翼よ。既に捉えた片翼と共に、扉を開く贄となりに」
≪アルフォート≫
