第10節 温泉パニック!
神から享けたこの世での生活を存分に楽しむがいい。
一人ではなく愛する女性とともに楽しむがいい。
それがあなたが享ける相応の分というものだ。あなたがこの世で成す働きの分け前というものだ。
だから、しても良いと思う事を満足するまでなすがいい。
【コヘレットの書 第9章】
「キョウさん……!おかえりなさいませ!今日はいつもよりも早いお帰りだったんですね」
「急に暑くなって来ただろう?そのせいで御館様のところに仕えてる奴らの中からも暑さに中てられて体調を崩す奴らがちらほら出始めて来てな。俺なんかは戦は季節や時間を持ってくれねえだろ?そんな軟弱な事言ってんじゃねえ、って思うんだが―……皆が倒れては本末転倒だと御館様がおっしゃられてな……」
「まあ……確かに……夕になって少し涼しい風が流れてきましたが、今日はやけに蒸して暑かったですものね」
西に翳ったにもかかわらず今だ情け容赦ない太陽が光と熱で地上を焼く。眩しいぐらいの光量で照らされた青葉の繁る桜の木は、その光の中でなお一層緑を濃くし、光同様濃くなった影に隠された幹からは蝉達の泣き声がした。
雨あられのように響く蝉の音。唯一の救いはその声が涼を運ぶ蜩のものである、ということだろうか?これが昼間けたたましく鳴くミンミンゼミやアブラゼミの類であろうものならば暑さはその三割増しはくだらないだろう。
もっとも蜩の声を持ってしてもこのじっとりと肌に張り付く粘つくような暑さを払う事は出来ないわけだが。
「義親父さんは?この暑さでへばってやしないか?」
「父なら大丈夫ですよ。ふふっ……夕方になって少し涼しくなったからチョビの散歩にでも行こうかと先程水筒を持って出かけたところです。今年は長雨でチョビも散歩に満足に行けず不満げにしていましたから、散歩と聞いて尻尾をブンブン振って笑顔で出て行きました」
「そうか、ならいいんだ。……本当に元気になってよかった……本当に」
妻の―……十六夜の親父さんはここに来てからみるみる元気を取り戻し、今では一人で出歩き犬の散歩ができるほど回復した。
十六夜は片親だ。彼女に何一つ不自由な思いはさせたくないと昼も夜も拘わらず働いて働いて……働き詰めて……結果、義親父さんは倒れてしまった。そのせいで娘には余計に辛い思いをさせてしまったのだと、ここに来た当初義親父さんは事情を聞かせてくれた。
皺と染みだらけの樫のように硬い両の手で俺の両手を包み、娘に辛い思いをさせてしまった罪悪感、それを他人に晒す羞恥に声を震わせ、許しを請うように涙を幾重にもはらはらと流しながら。
彼女の寒々しい姿を始めてみた時に一瞬でも怒りを覚えなかったと言えば嘘になる。十六夜が夜鷹になるまで追いつめたのはあんたじゃないかと詰りたくもなった。だが、実際に義親父さんに会ってみると―……その気持ちは水に溶ける塩のようにさっと消えてしまった。
十六夜もそして義親父さんも何一つ悪くはない。悪いのはこの不平等で不条理で残酷な世の中だ。誰も、何も悪くないんだ。悪いのはそんな人間を掬いも拾いもしない世の中なんだ。
だからあの時、あの雪が舞う寒々しい夜に彼女を見つけてやることができて本当に良かったと思う。清貧に喘ぐこの人を助けてやることができて、掬ってやることができて良かった、と。
「あっ、今日の夕餉はそうめんと豚の冷しゃぶと冷奴にしました。暑いですからつるりと入るそうめんの方がいいと思って。父とチョビもそのうち帰って来ると思いますし、そうしたら皆でご飯を―……んぐ?」
「へへっ……甘くておいしいだろ?それ」
居間へと通じる板張りの廊下で笑顔で今日の夕餉の献立について語る十六夜の口に、振り向きざまに御館様から頂いた菓子を一つ摘まんで入れれば、途端、彼女の両の目蓋がぱちりパチリと動き、瞳も白黒変わる。その仕草があまりに愛らしく自分の目には映って、思わずくつりと喉が鳴った。俺の指先で透明なガラス玉によく似た菓子が夕間暮れの光を反射し煌めいていた。
「甘い……キョウさん、あのこのお菓子は……?」
「今日御館様に貰ったんだ。あの方も甘いものがお好きだからな。”琥珀糖”と言うそうだ。……どうだ?美味しいか?」
「はい……見た目も涼やかでガラス玉か宝石の欠片のように綺麗で、味も上品な甘さで……!キョウさんもおひとつ……ん」
「んーーー確かに甘い。甘いな。……癖になりそうな甘さだ」
菓子ではなく自分の唇で彼女の唇を塞ぐ。いつもよりほんのり甘い彼女の唇。菓子や砂糖とは違う甘い匂いだつような花の香りが彼女の背中から漂った。口付けでほんのり頬を上気させた彼女がたまらなく、堪らなく愛おしい。
「さあて……義親父さんとチョビが帰ってくるまで縁側で涼むとするか。……十六夜も一緒に涼むか?まだ琥珀糖も余っている事だし、な」
蜩の声が響く。残りの夏を謳歌するかの如く。暮れる今日を名残惜しむかのように。
ああ……今日は蒸すように暑い。だが、それ以上にいい日だった。
「そうだ。今度の休みに湯浴みに行かないか?義親父さんの湯治も兼ねて、な」
≪壬生 キョウ≫
一人ではなく愛する女性とともに楽しむがいい。
それがあなたが享ける相応の分というものだ。あなたがこの世で成す働きの分け前というものだ。
だから、しても良いと思う事を満足するまでなすがいい。
【コヘレットの書 第9章】
「キョウさん……!おかえりなさいませ!今日はいつもよりも早いお帰りだったんですね」
「急に暑くなって来ただろう?そのせいで御館様のところに仕えてる奴らの中からも暑さに中てられて体調を崩す奴らがちらほら出始めて来てな。俺なんかは戦は季節や時間を持ってくれねえだろ?そんな軟弱な事言ってんじゃねえ、って思うんだが―……皆が倒れては本末転倒だと御館様がおっしゃられてな……」
「まあ……確かに……夕になって少し涼しい風が流れてきましたが、今日はやけに蒸して暑かったですものね」
西に翳ったにもかかわらず今だ情け容赦ない太陽が光と熱で地上を焼く。眩しいぐらいの光量で照らされた青葉の繁る桜の木は、その光の中でなお一層緑を濃くし、光同様濃くなった影に隠された幹からは蝉達の泣き声がした。
雨あられのように響く蝉の音。唯一の救いはその声が涼を運ぶ蜩のものである、ということだろうか?これが昼間けたたましく鳴くミンミンゼミやアブラゼミの類であろうものならば暑さはその三割増しはくだらないだろう。
もっとも蜩の声を持ってしてもこのじっとりと肌に張り付く粘つくような暑さを払う事は出来ないわけだが。
「義親父さんは?この暑さでへばってやしないか?」
「父なら大丈夫ですよ。ふふっ……夕方になって少し涼しくなったからチョビの散歩にでも行こうかと先程水筒を持って出かけたところです。今年は長雨でチョビも散歩に満足に行けず不満げにしていましたから、散歩と聞いて尻尾をブンブン振って笑顔で出て行きました」
「そうか、ならいいんだ。……本当に元気になってよかった……本当に」
妻の―……十六夜の親父さんはここに来てからみるみる元気を取り戻し、今では一人で出歩き犬の散歩ができるほど回復した。
十六夜は片親だ。彼女に何一つ不自由な思いはさせたくないと昼も夜も拘わらず働いて働いて……働き詰めて……結果、義親父さんは倒れてしまった。そのせいで娘には余計に辛い思いをさせてしまったのだと、ここに来た当初義親父さんは事情を聞かせてくれた。
皺と染みだらけの樫のように硬い両の手で俺の両手を包み、娘に辛い思いをさせてしまった罪悪感、それを他人に晒す羞恥に声を震わせ、許しを請うように涙を幾重にもはらはらと流しながら。
彼女の寒々しい姿を始めてみた時に一瞬でも怒りを覚えなかったと言えば嘘になる。十六夜が夜鷹になるまで追いつめたのはあんたじゃないかと詰りたくもなった。だが、実際に義親父さんに会ってみると―……その気持ちは水に溶ける塩のようにさっと消えてしまった。
十六夜もそして義親父さんも何一つ悪くはない。悪いのはこの不平等で不条理で残酷な世の中だ。誰も、何も悪くないんだ。悪いのはそんな人間を掬いも拾いもしない世の中なんだ。
だからあの時、あの雪が舞う寒々しい夜に彼女を見つけてやることができて本当に良かったと思う。清貧に喘ぐこの人を助けてやることができて、掬ってやることができて良かった、と。
「あっ、今日の夕餉はそうめんと豚の冷しゃぶと冷奴にしました。暑いですからつるりと入るそうめんの方がいいと思って。父とチョビもそのうち帰って来ると思いますし、そうしたら皆でご飯を―……んぐ?」
「へへっ……甘くておいしいだろ?それ」
居間へと通じる板張りの廊下で笑顔で今日の夕餉の献立について語る十六夜の口に、振り向きざまに御館様から頂いた菓子を一つ摘まんで入れれば、途端、彼女の両の目蓋がぱちりパチリと動き、瞳も白黒変わる。その仕草があまりに愛らしく自分の目には映って、思わずくつりと喉が鳴った。俺の指先で透明なガラス玉によく似た菓子が夕間暮れの光を反射し煌めいていた。
「甘い……キョウさん、あのこのお菓子は……?」
「今日御館様に貰ったんだ。あの方も甘いものがお好きだからな。”琥珀糖”と言うそうだ。……どうだ?美味しいか?」
「はい……見た目も涼やかでガラス玉か宝石の欠片のように綺麗で、味も上品な甘さで……!キョウさんもおひとつ……ん」
「んーーー確かに甘い。甘いな。……癖になりそうな甘さだ」
菓子ではなく自分の唇で彼女の唇を塞ぐ。いつもよりほんのり甘い彼女の唇。菓子や砂糖とは違う甘い匂いだつような花の香りが彼女の背中から漂った。口付けでほんのり頬を上気させた彼女がたまらなく、堪らなく愛おしい。
「さあて……義親父さんとチョビが帰ってくるまで縁側で涼むとするか。……十六夜も一緒に涼むか?まだ琥珀糖も余っている事だし、な」
蜩の声が響く。残りの夏を謳歌するかの如く。暮れる今日を名残惜しむかのように。
ああ……今日は蒸すように暑い。だが、それ以上にいい日だった。
「そうだ。今度の休みに湯浴みに行かないか?義親父さんの湯治も兼ねて、な」
≪壬生 キョウ≫
