第19章 死に方の選び方

互いに愛し合う事の他に、誰に対しても負い目があってはなりません。他人を愛する者は律法を完全に果たしているのです。

「姦通してはならない。殺してはならない。盗んではならない。貪ってはならない」など、また他に何か掟があっても、それは「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。

愛は隣人に悪を行いません。従って愛は律法を完全に果たすものです。


【ローマの人々への手紙 第13章】






「ベリル様……お願いします……お医者様を……もしかしたら私……」



「わかった……ここで待っていろ……すぐに呼んでくる。ゆっくり呼吸を整えてここで安静にしてるんだ……」


彼女が―……我が妻が苦しみ出してからもう幾刻の時間が経っただろうか。秀麗な眉に深い皺を刻み、深雪のような白磁の肌におびただしい数の玉の汗を浮かべ、悲鳴を上げ苦悶に悶えながら、それでも懸命に新しい命を産み出そうという悲痛ないじらしい姿。

命懸けの仕事を成そうとしている彼女と見守るしか出来ない無力な自分。己の不甲斐なさにただただ強く自分の唇を強く噛み締めた。

出産を間近で経験する事は初めてではないはずなのに、自分にできることなど―……男にできることなど幾らもないと自分の親達を見ていて知っているにも拘らず、焦りばかりが消えない泡のように膨らんでいく。

出産の痛みは荒れ狂う波と同じだ。激しい痛みとなって押し寄せて来たと思えば一瞬遠退き、そしてそこで一度安堵の息を吐こうものならば先程よりも大きな痛みを引き連れて再び押し寄せてくる。徐々に痛みの感覚を狭めながら、産み落とすまで続くのだ。そうして女の体力を奪い、時に命までをも奪っていってしまう。



「大きく息を吸って!呼吸を整えて!次!もう一回いきむからね?ほら!頑張って!もう一回!頑張って!赤ちゃん頭出てきてるよ!もう少しだから頑張って!!」


「んーーーー…!!!!!ぅっ……くっ……う”あああああああああっ!!!!!」


年若い産婆の少女がマスク越しでも分かる大声を出し、コレーの腹を押した。それに合わせるようにコレーの悲鳴が響く。文字通り身を抉るような、身を裂くような痛みが彼女の細い身体を襲っているのだろう。激痛にボロリ……とコレーの瞳から大粒の涙が溢れ、落ちた。

……コレーが陣発してからどれぐらい経った?初産だからというのもあるだろうがお産とはこんなにも時間が掛かるものだったか?明らかにコレーの息が乱れ、彼女の四肢に力が入らなくなってきている。いきむ力も落ちてきている。

出産は命懸けだ。この先どれほど医療が発達したとしてもそれは変わらないだろう。死亡率が下がったとしても完全に0にはできないはずだ。……そう考えると想像するだけで真冬の夜気に撫でられたかのように背中が粟立った。コレーが俺の前で、腕の中で冷たくなっていく。……耐えられない。耐えられる道理もない。


「コレー……もう少しだ……大丈夫だ……俺が側にいる……もう一度……呼吸を整えるんだ……」


何が”大丈夫”なものか。今の自分の中にあるのは焦燥と恐怖だ。彼女をこの出産で失うかもしれないという絶対的な恐怖が身を焦がす。だが、俺の比ではない恐怖と耐えがたい痛みと戦っている彼女の前で自分が狼狽えるわけにもいかない。汗ばみ、力が抜けかけている彼女の手を強く握れば、微かだが確かな光が再びコレーの湖水色の瞳に宿ったかのように見えた。

一際大きな悲鳴が今一度部屋に響き、そして―……産声が、上がった。


「ユマ……ッ!!やった!産まれた!産まれたよ~~~~~!!ばあちゃん抜きで、あたし達だけで赤ちゃん取り上げる事ができた!!」


「やった……よかった……って、檸檬。喜ぶ前にまだ仕事、あるだろ?赤ちゃんをお母さんに抱っこさせてあげなきゃ。あたし、保温用のタオルもっと持ってくる」


「……うんっ!!見て!可愛い女の子だよ…!コレーさん頑張ったね!お母さんになったんだよ!」


産婆の少女達が花のような笑顔と共に産まれたばかりの赤子をコレーの柔らかな胸の上へと乗せれば、彼女の唇が綻ぶと同時に大粒の涙が再び零れ落ちた。今度の涙は痛みからの生理的な涙ではなく、新しい命へ向ける慈愛から流した涙なのだろう。透明な涙を流す妻と誕生した我が子の泣き声に安堵と幸福と、満ち足りた思いが自分の胸にも去来する。


「……とっても……可愛い……ベリル様………私……頑張りましたよね……?ようやくこの子の……お母さんに……なれたんですよね……ありがとう……ございます……ベリル……様……」


「ああ……ああ……!よく……よく頑張ってくれた。……本当に頑張ったな、コレー。ありがとう……お前の子を産んでくれて。俺の子を産んでくれて」


産まれたばかりの命を抱く彼女の額に、唇に順番に触れるだけの口付けを落とした。言葉だけでは到底足りないのだ。この胸にある愛おしさを表現するには言葉では足りない。この万感の思いをどう表わしたらいい?大役を今まさに果たしたこの世界で最も愛おしい者にどうやって報いてやればいい?

ああ……この瞬間、俺は間違いなくこの世界で一番、幸せな人間だ。






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「……ベリル様……わ、たし……赤ちゃんは?あなたと私の赤ちゃんはどこでしょうか……」


「あの子なら今はよく寝ているよ。……産婆のユマと言ったか?赤子の夜泣きが酷いようなら預かる。と、申し出てくれたんだが……いい子で眠っているようだからそのままここにいられるようにしてもらったんだ。……よく頑張ったな」


「……そう、ですか。……眩しい……もう朝なのですね」


「この子が産まれたのが夜中だったからな……もう少し休んでいるといい、コレー」


手の平を彼女の額へ当てると同時に吐き出された長い息。心地良さそうに目蓋を閉じる彼女の穏やかな様子に安堵の息が自分の口からも零れ落ちる。まだ完全に安心するには早いのだろうが、それでも安らかな空気に安堵の灯火が灯る。


「……父上の気持ちが骨身に染みて今日分かった。コレーの出産の立ち会う前は”母上も初産でもあるまいし、毎度毎度飽きもせず気を揉むものだ”と呆れながら見ていたのだ。……慣れるはずもないのに随分と酷な事を父上に対して思っていたんだな、自分は」


「まあ。……ふふっ……そうでしたね。ベリル様には沢山のご兄弟がいらっしゃいましたね」


柔らかな、たゆたうような日差しが少しずつ朝を暖めていく。白いリネンの上に波打つように広がったコレーの髪が金色の小麦の穂のように煌めいていた。豊穣を象徴するかのような黄金の煌めきは娘にも遺伝し、彼女の髪も朝日に輝いている。


「ベリル様、一つお願いがあります。この子に名前を付けてあげてください。今日から幸せを紡ぐために産まれて来たこの子に初めての贈り物を……どうか」


「名、か。ふふっ……実はコレーが懐妊したと知った日から考えていた名前がある。コレー確かお前の名前は異国の言葉で”乙女”という意味だと思っていたが―……もう一つ意味があるな」


疑問形ではなく言い切る形で尋ねれば、彼女は花の蕾が綻ぶような笑顔で頷いた。「お母様が名付けてくださったんです」と、懐かしみながら。

コレーの母親に俺自身が会った事はただの一度もないが、きっと俺と同じ思いを抱いたのだろう。どうして”コレー”と名付けたのか、今の俺なら分かる気がした。俺と同じ気持ちで娘に最初の贈り物を贈ったはずだ。


「エイア。それがこの子の名前だ。コレー、お前と同じ春を司る女神の名前だ。開花や芽生えを象徴する植物と花の女神。……この子の長い、長い人生に多くの芽吹きがあるように。幸せな常春の喜びが咲き誇るように」


互いに愛し合う事の他に負い目があってはならない。……聖なる書物はそう隣人愛を説いているが、負い目などあるものか。俺が妻と子を愛おしく思う気持ちに負い目などただの一点もない。


「愛している、コレー、エイア。……二人を生涯を賭けて守ると、今日この日に誓わせてくれ」


≪ベリル・M・アウラーナ≫
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