第19章 死に方の選び方
さて、君主は戦いと軍事の制度や訓練のこと以外いかなる目的にもいかなる関心事も持ってはいけないし、また他の職務に励んでもいけない。つまり、この事が為政者が本来携わる唯一の職責である。
しかし、生まれつき君主の地位にある人が国を保持する力となるばかりか多くの場合、一市民の身分から君位に就いた人の力ともなる。逆に君主が軍事力よりも優雅な道に心を向ける時、国を失うのは明らかである。要するにあなた方が国を失う第一の原因はこの責務をおざなりにすることだ。
実際、武力のある者とない者では雲泥の差があり、例えば武力のある者が武力を持たない者に進んで服従したり、武力を持たない者が武力を持つ従者達に囲まれて安閑としていられるなどの考えは筋が通らない。何故なら、あちらを侮る気持ちが働き、こちらは疑心暗鬼といった両者が一緒にうまくやっていけるなど到底考えられないのだ。
一つの悪徳を行使しなくては、政権の存亡に関わる容易ならざる場合には、悪徳の評判など構わずに受けるがよい。というのは、全体的によくよく考えてみれば、たとえ美徳と見えても、これをやっていくと身の破滅に通じることがあり、他方一見悪徳のように見えてもそれを行うことで自らの安全と繁栄がもたらされる場合があるからだ。
【君主論】
薄い乳汁を水に混ぜたような色が明け前の空の東の端に広がっていた。例年と比べれば幾分暖かい冬ではあるが、それでも一日のうち一番底冷えする夜明け前は屋内であっても吐き出す息は白く霞む。あと、一刻もしないうちに今日も又白い光が世界を染め上げるのだろう。
下界を王城の一角にある執務室の分厚い窓越しに見下ろした。下界といっても城門からだいぶ離れたこの場所にある小窓の外から見える景色などたかが知れているが……
まだ温かさが残る肘掛けがついた椅子へ再び腰を沈めペンを取る。それなりに大量の書類が連日持ち込まれてくるが、にも拘らず机の上が整然としているのは自分の悪癖によるものだ。少々時間がかかることは重々承知しているが、それでもどうしても整理と分別をしたくなってしまう。書類や密書に目を通し、同時に物理的な整理も行うことで自分の思考も整理される気がするからだ。
……その整理された情報が我々にとって決して良いものではないものでも。いや、良いものでないならば尚のこと。
事態は殊の外逼迫している。それが北方―……アローゼ領における赤軍の大敗を契機としていることは明白だ。
当初は私の思惑通り「復讐」に燃える新教徒を筆頭とした旧教会と現体制に不満を持つ市民の支持を得たことにより士気は高まった。世論は確実に我々の味方であった。
しかし、自分が起こした惨劇は赤軍の結束を一時的に強固なものにするには充分であったが、当初考えていた通り各地の反体制派や無党派層の決起を促すまでには至らなかった。
事の真相を知っている者が幽閉されていた教皇と接触し、教皇の名の元、惨劇の真相を流布した今となっては立場が完全に逆転している。反赤軍陣営である解放軍の結束は日増しに高まっていた。
今はまだ膠着状態が続いているが、教皇と王女という強力なカードを手に入れた解放軍が王都へ侵攻してくるのももはや時間の問題であろう。事の真相を知った赤軍兵の中には解放軍へ下ろうとする者も少なくはない。こちらもただ手ぐすねを引いているばかりではなく兵に対する総括を行ってはいるが……それでもこの流れを食い止めることはできない。
あの青年を侮っていたわけではない、断じて。だからこそ不安分子の芽を摘むために触書を国中に公布した。だが、あの青年―……アルフォートは見事それを掻い潜った。それは運だけでは説明できない。運以外の確かなものをあの青年は持っている。人を引き寄せる何かを。……やはり覇王の遺児、だけはある、ということだろうか。チェスの盤石上のように駒を動かすことができない。ままならない。
『一つの悪徳を行使しなくては、政権の存亡に関わる容易ならざる場合には、悪徳の評判など構わずに受けるがよい。というのは、全体的によくよく考えてみれば、たとえ美徳と見えても、これをやっていくと身の破滅に通じることがあり、他方一見悪徳のように見えてもそれを行うことで自らの安全と繁栄がもたらされる場合があるからだ?……相変わらず難しい本を読んでいるんですね』
『×××……か。何の用だ?』
『んもう!相変わらず冷たいです!……実は珍しいものが手に入ってそれを自慢しに来たんです。異国の品らしいのですが……綺麗だと思いませんか?』
『綺麗もなにも……ただのボールじゃないか。……用事はそれだけか?ならもう下がりなさい。これがひと段落したらまた遊んでやるから』
『……はぁい……お兄様……』
「……フリド、さん。フリードリヒ、さん……」
「ん……君は……小鞠君……か?」
「はい。小鞠、です。……朝、ですよ、フリードリヒさん。今日は朝霧が凄い、ですね。……また部屋に戻らないで椅子で寝ていたんです、か?」
記憶の中のプラチナブロンドの白い少女が霧の向こうへと去り、消えていく。代わりに視界に映ったものは彼女とは真逆の色を持つ女性だった。
白を好んだ彼女とは違い黒を好む女性の腕の中には、あの日あの子が持っていたものとよく似た球体があった。五色の糸で彩られた小さな子供用の玩具。
この国の出身でもなければ縁も所縁もない彼女を保護し、こうして手元に置ているのはあの子がもし今も生きているのならば彼女と同じぐらいの年頃だろうか、という浅ましい考えが拭えないから、かもしれない。我ながら馬鹿げている、と自嘲とも自重とも言える笑みが微かに浮かんだ。少々疲れているのかもしれない。
「すまない。書類に目を通しているうちに寝落ちしてしまったようだ。少々、疲れているのかもしれないな」
「なら、もう少しお休みになったほうが、いいのでは……ないでしょう、か」
「いいや、それはできない。エテルが行方不明になりエリカやアマダスが逃げた今、私が休むわけにはいかない」
今はいない同士と裏切り者の名を紡ぎ重い腰を上げ、壁に掛けていた古びたコートに腕を通す。この闘争を始めてから数十年……着続けているコートだ。夜の冷気がまだ抜けていないのだろう。身に着けた瞬間、冷たさに背中が微かに粟立った。
『お兄様……お兄様はいつも戦いのことばかり考えていますが……それでお兄様は幸せ、でしょうか?』
「あの……フリードリヒ、さん……フリードリヒさんは今、幸せ、なんでしょうか?」
白い幻影と目の前の女性の口元が重なった。酷く答えに窮することを私に言うところは―……よく似ているな……
「幸せ、か。逆に聞こうか、小鞠君。君にとって幸せとはなんだい?希望のことか?では、希望とは何だい?……ふふっ、愚問だったね。答えなくていい。まだ朝早い。君はもう少し自分の部屋に戻って休みなさい」
曖昧な笑みで答えを濁し、扉を後ろ手に閉めた。あの日もそうしたように。
君主は戦いと軍事の制度や訓練のこと以外いかなる目的にもいかなる関心事も持ってはいけないし、また他の職務に励んでもいけない。つまり、この事が為政者が本来携わる唯一の職責である。
しかし、生まれつき君主の地位にある人が国を保持する力となるばかりか多くの場合、一市民の身分から君位に就いた人の力ともなる。逆に君主が軍事力よりも優雅な道に心を向ける時、国を失うのは明らかである。要するにあなた方が国を失う第一の原因はこの責務をおざなりにすることだ。
……私は今でもそれを、信じている。
《フリードリヒ・コミンテルン》
