第9節 感謝祭&生誕祭


私は善い羊飼いである。善い羊飼いは羊の為に命を捨てる。羊飼いではなく、羊が自分のものでない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。

すると、狼は羊を奪い、また追い散らす。

彼は雇い人であって羊の事に心掛けていないからである。私は善い羊飼いであり、自分の羊を知っており、私の羊もまた私を知っている。

それは私の父が私を知っておられ、私も父を知っているのと同じである。そして、私は羊の為に命を捨てる。

私には、この囲いに入っていない他の羊もある。私はその羊達をも導かなければならない。彼らもまた私の声を聴き分ける。

こうして一つの群れ、一人の羊飼いとなる。再びそれを得る為に、私は自分の命を捨てる。それ故、父は私を愛して下さる。誰も私から命を奪いはしない。私が自分から命を捨てる。

私は自由に命を捨て、また再び自由に命を得る力を有している。私はこの掟を父から受けた。


【ヨハネによる福音書 第10章】






 「それは傲慢さと言い換えることができます。風化は摂理です。貴方のしていることはその摂理に抗うことだ。エゴとしか言いようがない。化石が過去の姿を崩し、砂になることがどうしていけないんですか。誰からも忘れ去られた墓が、骸を抱いたまま苔に覆われ朽ちていくことを責めることができますか」


虚ろぶく瞳でうつむき加減に言葉を紡ぐ彼の姿を私は真正面で座して見つめていた。夏の香りが強く漂う夕べだった。麦茶の中で微かに溶け残っていた氷の最後の一欠片が、暑気で溶けていく。


「いけない、とは言っていませんよ。ただ私は、そんな寂しい在り方で何故それでも生を選べたのか、それを聞きたい。良いか悪いかで評価しようなんて思っていません」


一拍置いて言葉を返した。膝の上で握った自分の手がやけに汗ばんでいるように感じたのは、この暑気に当てられたからだろうか?それだけが理由なのだろうか?季節上、感想とは無縁なはずなのにやけに口の中が乾く。

言わなければいけない。私の脳が警鐘を鳴らしていた。彼が次の言葉を紡ぐ前に、何か。

だが、乾いた口の中で言葉を生み出そうとすれば、それは音になる前にボロリ、と砂となり崩れて行ってしまう。


「昴さん、これだけは申し上げておきます。僕は別に留まろうとは思っていないし、生きることを積極的に選んだわけでもない。しかしながら時を打つのは死神の仕事です。生まれて育ち然るべき時に塵となる。その時までは生きているだけです。お引き取りください。てんぷら、御馳走様でした」


ついに言われた。と、思った。明確な線を引く言葉を。

それが私という異物から自分自身を守るために出た拒絶の言葉か、それとも自分とは違う価値観を持つ私を守るために吐き出された優しさから出た言葉が―……私には判別する事ができない。

毒にしても薬にしても―……そのどちらにしても今の私には……苦い。






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「……最近は彼のところに行っていないのかい?何カ月も君がこの図書館で缶詰になって作業に没頭しているのは珍しいような気もするが?」


「珍しいも何も……前は結構な頻度でこの図書館にお邪魔させて貰っていたじゃないですか?」


「ああ、たった今君が言ったように”以前は”だね」


古びた紙とインクの匂い、それに微かに埃の香りも混ざる。天窓から差し込む乱反射する光により生み出された光の梯子が図書館にやって来た先生の足元を明るく照らしていた。


「喧嘩でもしたのかい?」


「あれが喧嘩と言えるかは分かりませんが―……ですが痛いところを突かれてしまいました。エゴだと知りながら付きまとっていたつもりだったんですが……」


「……その自覚はあったのか……」


「付きまとうというよりも押し掛けていたというのが正しいでしょうか?シャンさん基本出不精ですから」


視線の先を師から再び手元の羊皮紙へ移し息を吐きだせば、机の端に微かに積もっていた埃が息に押されて微かに動いた。

羊皮紙の上のまだ乾き切っていない文字を目でなぞる。内容は私の氏族についてだ。

数年かけてここまで調べ、そしてまとめ上げた。今はまだ資料にしか過ぎないそれをいつかは本として出したいとそう思っている。

私の血に刻まれた生物学的な因子とは違う、私を形作る精神的な因子について。私を私にしてくれている因子について。

人を人として形作るのは文化だ。血ではない。異国の親から生まれようがその土地の文化で育てばその子はその土地の文化に染まる。


「だから知りたがっていたんだろう?彼を形作る文化を」


「似ている、とそう思っていました。私も彼も自分を形作る文化の骸に縋りついている。執着している、と。ですが―……」


「ですが?」


「文化の骸に盲執しているのは私の方でした。資料をまとめているうちに思い知らされましたよ。だって、そうでしょう?どれだけ私が心血を注いで失われた文化についてまとめても、それに一体誰が興味を持ってくれるでしょう?全て自分の自己満足にしかならない。……シャンさんの言う通り、私は酷くエゴに塗れた人間です」


零れた自嘲とも自重とも言えない笑みをそのままに私は天を仰いだ。差し込む午後の光と古びた書の香りが慰めるように鼻腔を擽る。


「さて、と……作業もひと段落しましたし、少し出掛けてきますね」


「おや?こっぴどくやり込められたんじゃなかったのかい?」


どこへ、と言わずともどこへ行くつもりなのか察したのだろう。師は微かに微笑むと金の瞳で私を見下ろしていた。そんな師を私も見上げ、倣うように笑みを溢す。


「先生、知っていますか?羊飼いは最後の一匹の羊をも探しに行かれるようですよ」


「それはつまり、彼が羊で君は羊飼いということかい?」


「ふふっ……私はエゴに塗れた人間ですから羊飼いにはなれません。言わば私もまた羊の一頭です」


死者は彼を追い掛けない。骸は彼の往く先でただただ彼の蝋燭の灯火が消える日を待っているだけだ。彼がその傍に辿り着くのを見守ることしか出来ない。


「ですが、彼もまた生きた羊です。羊が羊の傍にいったとしても何ら不思議ではないでしょう?」


卵の殻を破らなければ雛鳥は羽ばたく前に死んでしまう。その場に留まりたいのであれば全力で走り続けなければ取り残されてしまう。

ならば、私が追いかけてやろうではないか。彼がその場に留まり続けることができるように。甘美な死が彼を連れて行ってしまわないように。

その考えこそがエゴであると彼は言うでしょう。だが、それは承知の上だ。私はエゴに塗れた羊なのだから。


「感謝祭の時期ですし、チキンとポテトでも持って行ってきます。じゃないとものぐさなシャンさんのことですから季節に取り残されている事でしょうし、ね」


拒絶されるかもしれない。だがそれでもいい。僅かでも私自身が傍にいたいと、また再び話がしたいと思ったのだから。

私は、羊だ。


≪すばる≫
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