第18章 手を取り合って


しかし、私は耳を傾けている方に言う。敵を愛し、あなたを憎む者に善を行いなさい。呪う者を祝福し、あなたを侮辱する者の為に祈りなさい。

あなたの頬を打つ者に、もう一つの頬を向けなさい。上着を奪う者には下着をも拒んではならない。求める者には誰でも与えなさい。あなたの持ち物を奪おうとする者から取り戻そうとしてはならない。

あなた方は人からして欲しい事を人にもしなさい。あなた方を愛する人を愛したからといって、何の恵みがあるだろうか。罪人でさえそうしている。

返してくれるあてのある人に貸したからといって何の恵みがあるだろうか。返してもらえるなら罪人でさえ罪人に貸している。しかし、あなた方はあなた方の敵を愛しなさい。人に善を行いなさい。

あなた方の報いは大きく、あなた方はいと高き方の子らとなる。いと高き方は恩を知らないものにも悪人にも情け深い方だからである。

あなた方の父の憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者になりなさい。


【ルカによる福音書 第6章】






金色の波が私の心を揺らす。揺らぎと共に私は時を渡っていた。長い旅路の果てに私は海の底へとたどり着く。静謐が揺蕩う海の底に。

寒さ、痛さ、苦しさ―……一般的には言われる負の感情は既に超越し、私はただ虚無のみを見つめていた。輝く日が昇る愛おしい日々はとうに過ぎ、ただただ、がらんどうとした虚無だけが私を取り囲んでいる。

時折聞こえてくる揶揄を含んだ声のような音は私の身体に流れる血を憎んだ誰かの声だろうか?それとも私自身の内から湧く自責の念の声だろうか?つかず離れず私に付きまとう声は私が透明になる事をけして許してはくれない。いっそ、このまま透明に泡となってしまえば、と、儚くなりたいと願う私を嘲っていや。

凍え軋む両手を砂について起き上がるその前に、腕の間から後ろから差す光輝が見えた。僅かな温もりを残さず去って行ったはずの金色の波が再び集まり、束となってこちらへとやって来る。海の底まであまねく照らす光輝が。二度と戻る事の叶わない私達の家、そこで満ちていた光とよく似た遠い光の波が。


「あっ……」


「……起きたかい?乙橘?気分はどうだい?……少し魘されていたようだけど……」


あまねく日の光を背後に背負い柔和な笑みを浮かべると、この館の女主人である妙齢の女性は私に穏やかな声でそう尋ねた。彼女の笑顔に釣られるように起き抜けの私の顔にも自然に笑みが浮かんだ。

直前まで見ていたはずの何かの夢は、覚醒すると同時に彼方の岸辺へと去り、今では思い出す事もままならない。


「どれ……今日は私が乙橘の髪を梳いてやろうかね」


「えっ?……そ、そんなナミさん……!大丈夫ですよ……!髪ぐらい自分でも整えることが出来ますわ……!」


「ふふっ……いいじゃないか。私がしてあげたいのさ。……ほら、こちらにおいで乙橘。天照が昇り切る前に仕上げてあげるよ」


衣擦れの音が微かに暁の空気を揺らす。冷気が吹き溜まる夜は去り、陽が昇り柔らかな光で山の稜線を暖め始める。

銀の鏡越しに目が合うと、ナミさんは笑みを浮かべ感慨深げに私に告げた。「随分髪が伸びたねえ……」と。ここに来た時は背中までだった私の髪も今では腰を過ぎる所まで伸びていた。……それだけ長い時間、私はナギさんとナミさん達の厚意に甘んじてしまっている。


「ふふっ……何だか嬉しいねえ。永久だけじゃなくこうして二人も髪を梳いてやれる娘が増えたんだから」


「ふたり……ですか?」


「ああ、永久だろう?アグネスに……そしてあんたさ、乙橘。ふふっ……みんなの髪が綺麗に伸びていくから……それを見るのが少し楽しみなんだよ。永久から聞いたかい?この国の女は髪が命なのさ。髪が美しい事は美人の条件なんだよ。自分の娘の髪が美しく伸びていく……それが嬉しくない女親はいないよ」


「……ナミさん」


「なんだい?改まって?」


「……ありがとうございます。お母様……」


空気は徐々に藍色を薄め朝霧に包まれた沈黙の底で山鳩が鳴いていた。くぐもっただけど歯切れのよい山鳩の声が朝を謳歌するように響く。いつもと同じ緩やかで穏やかな一日が今日もまたやって来る―……はずだった。


「……おや?この気は……」


「気、ですか?」


「ああ。これは……刻……あの子だね。……あとはもう一人……まあまあ……我が息子ながら大層なものに乗って来たもんだねえ……これは……竜かい?こちらの龍神とは形が随分違うようだけれど……」


ナミさんが言うや否や雷鳴のような咆哮が屋敷を揺らすように貫いた。驚き瞠目する私をよそにナミさんはただただ優しい母の眼差しを霧の向こうへと向けていた。






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ナミさんが私の局から退室してからどれだけの時間が経っただろうか。庭を包んでいた朝霧もすっかりと晴れ、囀る鳥の声も朝の山鳩のものから昼の鳥達のものに変わっているのを思うと真昼に近い時間になっているのかもしれない。

プツリ、と鋏を使い糸を切り、屑を払う。ナミさんから任されていた衣を広げれば、出来上がったばかりの刺繍の金糸が、陽の光をたっぷり浴びて煌めいた。

ここに来て初めて任された大きな仕事。それを終えた安堵から私は出来上がったばかりの衣に皺が寄らないように静かに胸に抱きしめる。

この衣に袖を通す誰かが少しでも気に入ってくれるように、と。袖を通す誰かに幸が多からんことを、と。遠い昔……家族の服に刺繍を施した時と同じように願いを込めた。

私の弟は特に体が弱かったから……だから願を込めて何度も刺繍をした事を思い出す。姉のケープにも妹のローブにも同じように願いを込めた。遠い日の穏やかな記憶。


「……あら?……鳥……かしら?生け垣が動いたような……」


静謐そのものの庭の気配が動いた事に私が気付いた時には、そこには既に影もなく、ただただ微か、橘の濃い緑の葉だけが風に揺れていた。


「ナミさんに出来上がった衣を見てもらわないといけませんね。手直しするところがあるか聞かないと……ナミさんは北の奥院かしら……」


≪乙橘≫
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