第18章 手を取り合って
再び、御子は人々にこうお話になった。
「私は世の光である。私に従う者はけして闇の中を歩く事なく、命の光を得るだろう」
すると、ファリサイ派の人々は御子に、「貴方は自分の事を自分で証ししているので、あなたの証は真実ではない」と言った。御子は彼らに答えて仰せになった。
「たとえ私がこの事を自分で証しするとしても
私の証は真実である。私は自分がどこから来たのか、またどこへ行くのかを知っているからである。しかし、あなた方は私がどこから来てどこへ行くかを知らない」
「あなた方は肉の欲に従って裁いているが、私は誰も裁かない。私は自分の事を証する者である。また、私をお遣わしになった父も私の事を証して下さる」
すると、彼らは御子に「あなたの父はどこにいるのか」と言った。御子はお答えになった。
「あなた方は私をも、私の父をも知らない。もしあなた方が私を知っていたなら、私の父をも知っているはずである」
【ヨハネによる福音書 第8章】
「まさか空から奇襲を掛けて来るとは……この砦は自然の要塞の上に立てられています。地上から攻め落とすことは難しい。だからこそフリードリヒもそれを警戒し、何重にも策を講じてアローゼ家を陥れようとしたでしょうに、まさか彼女を懐柔したのがあなただったとは……」
「懐柔なんかじゃないさ。それに俺一人の力じゃない。フルオライトさんやアルカイド―……アウラーナ家とマンシュタイン家の助力があったから、彼女に親書を届けることが出来たんだ。和睦の親書を」
「そうでしたか……アローゼ家と同盟関係だったマンシュタイン家だけではなく長らく敵対関係だったアウラーナ家までも……」
教皇が纏う聖職者の証である白い法衣が男の歩みに合せるようにゆらりと微かに揺れる。栄華の極みを謳歌していた時代と比較すると面差しもやつれ、身に纏う法衣からも華美さは失せているが元々の所作が完成されているからだろう、この男がこの場所で受けた心労に見た目で気付く事は困難だ。
断崖絶壁に建てられた堅強な石造りの砦に誰のものか分からない深い息が零れて落ちる。いや、誰か一人が発したものではなくここにいる誰もが同時に息を吐き出したのかもしれない。僅かでも沈黙の膜を揺するその為に。
皆一様に言葉を待っていた。誰かがここに蟠る重苦しい沈黙を破ってくれることを。事が起きてから数刻ばかり……高い所にあった日の光は西へと大きく傾き落日の色が砦内に長く差し込み、咽返るような黄昏の色で染めていた。
事が大きく動いたのは数刻前の事だった。私と教皇が閉じ込められている要塞に雲一つない晴れ渡った空から、雷鳴によく似た轟が響いた。それが合図だった。
雷鳴が轟いてから暫くの間は人のものと思しい怒声や慌ただしい足音、剣戟の音、魔が発露する音などが要塞の最奥にある鉛の扉越しからでも微かに聞こえてきたが―……直ぐにその音も治まり元の静寂が戻ってきた。賊かはたまた赤軍に反感を持つ旧教徒がこの場所を嗅ぎ付けてやって来たか、新教の過激派組織が教皇を殺すために刺客を送り込んできたのか―……そのいずれかだろうと見当をつけていたのだが、実際はそのいずれでもなかった。鉛の扉の向こうから現われたのは―……
『……教皇様……!教皇様!!ああ……あああああ……我が君……よくぞ、よくぞ御無事で……』
『ミランダ嬢!?な、何故あなたがこの要塞に……一体どうやって……』
文字通り扉を蹴り破るようにして真っ先に房へ飛び込んできたのは私も見覚えがある一人の女だった。確かこの女は……教皇の傍仕えの侍女の一人だったはずだ。
平時であればよく整っているかんばせを涙でくしゃりと歪め、隠すことなどせず瞳から大粒の涙をハラリはらりと溢し縋るように教皇に抱き付いている。
侍女が主に泣き縋りつく……おおよそ褒められる行為でないにも拘わらず、教皇が女を咎めない理由は、思いにもよらない人間の登場に、流石の教皇も虚を突かれ思考が追い付いていないからか、それとも何かしら特別な情を女に抱いているからなのか―……それを知る術は俺にはない。
確かに分かる事と言えば……女の髪を慰めるように梳く教皇の手付きがやけに優しいものであった……ただそれだけ。
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「……あの人は……?」
「ああ、ミランダの事ですか?彼女は別室で休ませています。酷く取り乱していましたからね……傍にはシルベーヌ嬢が付いていてくれるとの事でしたから、彼女の言葉に甘えました。……ところでミランダ嬢とはどこで知り合いに?」
「あんたの居場所を探っている時に知り合った。俺達だけじゃあんたが幽閉されている場所を突き止めることが出来なかったんでな。彼女は場所を知っていても一人で乗り込む事は当然できない。俺達は場所を知らない。……利害が一致したんだよ」
「なるほど……」
「自力で調べ上げたんだろう。組織や他人の力を借りずに一人で。教皇、あんたの幽閉場所は赤軍内で第一級の機密事項扱いだったはずだ。それを一人で調べ上げ突き止めたんだ。……凄い情熱だよ。狂気って言ってもいいぐらいに、な」
地下墓地で初めて会った時に見た幼さは既に消えた青年は、こちらを真っ直ぐ見据えるとそう、言葉を紡いだ。昼と夜の狭間の世界で青年の虹彩が昼の緑から夜の紫へと移ろっていく。
アレキサンドライト―……それは王の色。ブルボン王と同じ瞳の色。
彼は現われた。雷鳴のような声を轟かせる竜に跨り。教皇と双璧を成す宗教要人である新教宣教師エリーゼと共に。そして、この国の王女ルマンドの手を引いて。
「エリーゼ殿ともここに来る前に?」
「ああ。ここに来る前に保護したんだ。あんたよりも先に居場所が割れたんでね。……あんた一人味方に付けただけじゃ世論は動かない。あんたとエリーゼの二人が手を取り合わなければ意味がない。……ルマがエリーゼ達と一緒に行動していたのには驚いたけど、な……無事で……良かった……」
空からの奇襲とは言え思ったよりも早くに戦闘が終了した理由はエリーゼがいたからだ。この要塞には赤軍の兵士もいるが、旧教に反感を持っている新教徒も少なくない。敵対する勢力のものに教皇を見張らせていたわけだ。新教徒の中には当然、宣教師エリーゼを慕う者も多い。エリーゼの登場は彼らの戦意を削ぐには十二分の効果を発揮しただろう。
ルマ。その言葉に青年の瞳が初めて微かに揺らいだ。ルマ、とは王女の事をさすのだろう。数瞬瞳を惑わせ目蓋を閉じると、彼は再び教皇を見据えた。そこに先程見せていた動揺は見て取れない。
「……あんたの力が必要なんだ、教皇。エリーゼとあんた、二人の力が。赤軍を打ち倒す、その為に」
「アルフォート君、私は君とよく似た男を知っている。彼もまた覇道を否定し仁徳による治世を求めた。……一つ、問いましょう。あなたはどのような社会をお望みですか?秩序かそれと対を成す混沌か……」
「俺は……俺は秩序と自由がある世界を望む。人民の人民による人民のための社会だ。存在するだけで誰もがそこにいる事を許される世界だ。上から押し付けるだけの秩序だけじゃ羽搏けずに堕ちる。秩序だけでは人は暴走をする。人は賢者ではないから、一人の力では今は良くても限界が来る。だが、秩序が全くない状態は自由ではない。それはただの無法だ。自由ってやつは秩序があってこそ初めて成り立つんだ。全くの無秩序を俺は求めない」
王女ルマンド立会いの下に行われた旧教皇ブランチュールと新教宣教師エリーゼの和解と両者による統一教会設立宣言は瞬く間に国土中に広まる事となる。長く続く戦乱に疲れ果てていた多くの民にとって、この共同宣言は大いなる福音以外の何者でもなかったのである。
統一教会は赤軍を国家転覆を目論む反政府組織であると厳しく非難を表明。それを受けた赤軍側も統一教会こそが反政府テロ組織であるとの声明を発表する。赤軍が発した声明は事実上の宣戦布告であった。
「歯車の動き……思ったよりも早い。いいぞ……そうだ、それでいい。もっと愛に血を流させてやるといい……そうすれば俺も……」
≪サフォー・オケアノス≫
