第17章 未来潮流
預言の賜物ならば廃れもしよう。異言なら止みもしよう。知識なら無用ともなりもしよう。私達が知るのは一部分、また預言するものも一部分であるが故に。
完全なものが到来する時は、部分的なものは廃れ去る。私は幼い子供であった時、幼い子供のように語り、幼い子供のように考え、幼い子供のように思いを巡らせた。だが、一人前の者となった時、幼い子供の事は止めにした。
私達が今見ているものはぼんやりと鏡に映ったもの。「その時」に見るのは、顔と顔を合わせたもの。私が今知っているのは一部分。「その時」には自分が既に完全に知るようになる。
だから引き続き残るものは信仰、希望、愛。この三つ。このうち最も優れているものは、愛。
【コリントの人々への第1の手紙 第13章】
「……なんでここに貴方がいるんですか?とは最近言わなくなりましたよね、シャンさん」
「僕は極力無駄な事はしない人間なんですよ。つまり貴方に何を言ったところで無駄だからです」
チリリ……と窓際に吊るした小さな陶器の風鈴が部屋の中へ吹き込む南風に揺られて涼やかな音を奏でていた。涼を生む音を横耳で聞きながら今日の昼ご飯用にと茹で、そして冷水でしめた細い素麺を琥珀色をした冷やしだし汁と共に啜る。麺を啜るのと同時に目の前の彼から聞こえてきた長いため息の音は、吐き出されたそのすぐそばから風鈴の音と混ざり霧散していく。
「悟りましたからいい加減。貴方に何を言ったところで貴方の師と同様に無駄でしょう?ここに来るなと言ったところで来ることを止めもしませんし」
「よく私の事が分かって来たじゃないですか。流石です、シャンさん。……言っておきますが炭水化物以外にもちゃんと野菜も食べて下さいね。暑い中わざわざ夏野菜の天ぷらを揚げたんですから」
「誰がいつ天ぷらを食べたいと言いましたか?」
「少なくともシャンさんは言っていませんね。しいて言うならば私が素麺と一緒に食べたくて揚げました。美味しいですよ?お茄子もインゲン豆も紫蘇の天ぷらも。旬のものはその旬に食べるに限ります」
食卓の真ん中に置いた皿の上に持った天ぷらを一つ、木の箸で摘まみ出汁へと潜らせながら言葉を紡ぐ。衣から溶けた油が出汁の上に僅か油膜を張った。……うん、おいしい。
ちりり……と再び風鈴が風の腕に遊ばれ揺れる。ほとんど表情を変えず、だがしっかりと一度頬を引き攣らせた彼に気付かないふりをして残りの素麺を啜った。……師が彼を弄る理由はこういうところにあるのかもしれないと、腹の中で考えながら。
本人は常日頃凪いでいるつもりだろうけれど、完璧な凪というものが常に流転しているこの世界にあるわけがない。無風の日の湖も、木の梢も、沈黙でさえも絶えず歪み、そして揺らいでいる。そんな定まらない世界の中で何者にもならないようにと静かな抵抗を試みている青年の姿は、師の目には滑稽にも、そして憐れにも見えているのかもしれない。それが師の興味を強く刺激するのだろう。……と、私は思っているがそれが正しいかどうかは分からない。
「……今失礼な事を考えていませんでしたか?」
「さあ?そうかもしれないですしそうじゃないかもしれません。それを決めるのは私ではなくシャンさんですから。それこそ主観の世界の話です」
彼が見ている世界と私が見ている世界とは当然だが、違う。
彼が私とのやり取りや私と惰性で過ごす時間を無意味なものだと考えていたとしても私にとってはそうではない。彼にとって私と一緒にいる時間が、テーブルの端に除けられた小皿の上に乗った麦茶の出がらしであったとしても、私にとってはそれは価値があるものなのだ。掃除に活用できますし。それ。
「解せない」
「何がですか?」
「貴方が僕の家に来る理由です。貴方はこの時間を不毛だとは思わないのか?」
「そうですね、不毛だとは思いません」
「何故言い切れるんですか?」
「私とは違う価値観をあなたが持っているからですよ、シャンさん。あなたは奇妙な人です。だから興味が出て、そして知りたくなるんです。貴方が語る言の葉を聞いてみたくなる」
彼の顔から首筋に掛けて刻まれた―……いや、正確に言えば刻まれかけた刺青を一度見つめ、そしてゆっくりと再び彼の瞳へと視線を戻す。私の視線に彼の表情が先程以上に強張り、そして色失せていくのがよく分かった。彼が唯一心を許した存在であるシェンが主人を心配するように、くるり、と大きな尾を揺らして主人の周りで円を描いた。
彼の一族の神は滅びた。……いつか師が私にそう教えてくれた。そして、ある一人の青年は瓦解した信仰の骸を胸に抱き、それに殉じる事も捨てる事も出来ないままでいる、と。虚無へ溶ける事も現へ向かう事もせずただただ、たゆたっているのだ、と。
「……何が言いたいんですか、貴方は」
「シャンさん。その場に留まり続ける為には私達は全力で走り続けなければいけないんです。貴方が立ち止まっている限り現実はシャンさんを踏み潰し、行進していきますよ」
お前に何が分かる。と、彼の瞳が言外に告げていた。ならば、私も告げなければならない。言外で、ではなく言の葉として生み出して。
卵の殻を破らなければ雛鳥は羽ばたく前に死んでしまう。その場に留まりたいのであれば全力で走り続けなければ取り残されてしまう。
「シャンさん。あなたの信仰がなくなってそれでも尚、何故あなたは生きることを選んだんですか?捨てる事も守る事もせずに。……そんな寂しい期待で、どうして生き続ける事を選べたんですか?」
故郷を、心の拠り所を失くした経験なら自分にもある。失くしたからこそ私は、心の拠り所であった故郷や文化を忘れずに守る事に決めた。彼らが、私達の祖先が確かに存在していた証を、文化を記録としてまとめ上げ後世に伝える。その為に、私は生きている。それが私の存在理由。伝え続ける限り文化は消滅せず生き続ける。
ただの惰性で生きている。この世界にはそういった人間も確かにいるだろう。望みもしなければ期待もしない。そういった生き方をする人もいる。だが、それにしては彼はあまりにもさびしい期待を抱いているように私の目には映るのだ。
「シャンさん。私は聞きたい。貴方が語る言の葉として聞きたい。シャンさんが生きる意味は何ですか?」
《すばる》
完全なものが到来する時は、部分的なものは廃れ去る。私は幼い子供であった時、幼い子供のように語り、幼い子供のように考え、幼い子供のように思いを巡らせた。だが、一人前の者となった時、幼い子供の事は止めにした。
私達が今見ているものはぼんやりと鏡に映ったもの。「その時」に見るのは、顔と顔を合わせたもの。私が今知っているのは一部分。「その時」には自分が既に完全に知るようになる。
だから引き続き残るものは信仰、希望、愛。この三つ。このうち最も優れているものは、愛。
【コリントの人々への第1の手紙 第13章】
「……なんでここに貴方がいるんですか?とは最近言わなくなりましたよね、シャンさん」
「僕は極力無駄な事はしない人間なんですよ。つまり貴方に何を言ったところで無駄だからです」
チリリ……と窓際に吊るした小さな陶器の風鈴が部屋の中へ吹き込む南風に揺られて涼やかな音を奏でていた。涼を生む音を横耳で聞きながら今日の昼ご飯用にと茹で、そして冷水でしめた細い素麺を琥珀色をした冷やしだし汁と共に啜る。麺を啜るのと同時に目の前の彼から聞こえてきた長いため息の音は、吐き出されたそのすぐそばから風鈴の音と混ざり霧散していく。
「悟りましたからいい加減。貴方に何を言ったところで貴方の師と同様に無駄でしょう?ここに来るなと言ったところで来ることを止めもしませんし」
「よく私の事が分かって来たじゃないですか。流石です、シャンさん。……言っておきますが炭水化物以外にもちゃんと野菜も食べて下さいね。暑い中わざわざ夏野菜の天ぷらを揚げたんですから」
「誰がいつ天ぷらを食べたいと言いましたか?」
「少なくともシャンさんは言っていませんね。しいて言うならば私が素麺と一緒に食べたくて揚げました。美味しいですよ?お茄子もインゲン豆も紫蘇の天ぷらも。旬のものはその旬に食べるに限ります」
食卓の真ん中に置いた皿の上に持った天ぷらを一つ、木の箸で摘まみ出汁へと潜らせながら言葉を紡ぐ。衣から溶けた油が出汁の上に僅か油膜を張った。……うん、おいしい。
ちりり……と再び風鈴が風の腕に遊ばれ揺れる。ほとんど表情を変えず、だがしっかりと一度頬を引き攣らせた彼に気付かないふりをして残りの素麺を啜った。……師が彼を弄る理由はこういうところにあるのかもしれないと、腹の中で考えながら。
本人は常日頃凪いでいるつもりだろうけれど、完璧な凪というものが常に流転しているこの世界にあるわけがない。無風の日の湖も、木の梢も、沈黙でさえも絶えず歪み、そして揺らいでいる。そんな定まらない世界の中で何者にもならないようにと静かな抵抗を試みている青年の姿は、師の目には滑稽にも、そして憐れにも見えているのかもしれない。それが師の興味を強く刺激するのだろう。……と、私は思っているがそれが正しいかどうかは分からない。
「……今失礼な事を考えていませんでしたか?」
「さあ?そうかもしれないですしそうじゃないかもしれません。それを決めるのは私ではなくシャンさんですから。それこそ主観の世界の話です」
彼が見ている世界と私が見ている世界とは当然だが、違う。
彼が私とのやり取りや私と惰性で過ごす時間を無意味なものだと考えていたとしても私にとってはそうではない。彼にとって私と一緒にいる時間が、テーブルの端に除けられた小皿の上に乗った麦茶の出がらしであったとしても、私にとってはそれは価値があるものなのだ。掃除に活用できますし。それ。
「解せない」
「何がですか?」
「貴方が僕の家に来る理由です。貴方はこの時間を不毛だとは思わないのか?」
「そうですね、不毛だとは思いません」
「何故言い切れるんですか?」
「私とは違う価値観をあなたが持っているからですよ、シャンさん。あなたは奇妙な人です。だから興味が出て、そして知りたくなるんです。貴方が語る言の葉を聞いてみたくなる」
彼の顔から首筋に掛けて刻まれた―……いや、正確に言えば刻まれかけた刺青を一度見つめ、そしてゆっくりと再び彼の瞳へと視線を戻す。私の視線に彼の表情が先程以上に強張り、そして色失せていくのがよく分かった。彼が唯一心を許した存在であるシェンが主人を心配するように、くるり、と大きな尾を揺らして主人の周りで円を描いた。
彼の一族の神は滅びた。……いつか師が私にそう教えてくれた。そして、ある一人の青年は瓦解した信仰の骸を胸に抱き、それに殉じる事も捨てる事も出来ないままでいる、と。虚無へ溶ける事も現へ向かう事もせずただただ、たゆたっているのだ、と。
「……何が言いたいんですか、貴方は」
「シャンさん。その場に留まり続ける為には私達は全力で走り続けなければいけないんです。貴方が立ち止まっている限り現実はシャンさんを踏み潰し、行進していきますよ」
お前に何が分かる。と、彼の瞳が言外に告げていた。ならば、私も告げなければならない。言外で、ではなく言の葉として生み出して。
卵の殻を破らなければ雛鳥は羽ばたく前に死んでしまう。その場に留まりたいのであれば全力で走り続けなければ取り残されてしまう。
「シャンさん。あなたの信仰がなくなってそれでも尚、何故あなたは生きることを選んだんですか?捨てる事も守る事もせずに。……そんな寂しい期待で、どうして生き続ける事を選べたんですか?」
故郷を、心の拠り所を失くした経験なら自分にもある。失くしたからこそ私は、心の拠り所であった故郷や文化を忘れずに守る事に決めた。彼らが、私達の祖先が確かに存在していた証を、文化を記録としてまとめ上げ後世に伝える。その為に、私は生きている。それが私の存在理由。伝え続ける限り文化は消滅せず生き続ける。
ただの惰性で生きている。この世界にはそういった人間も確かにいるだろう。望みもしなければ期待もしない。そういった生き方をする人もいる。だが、それにしては彼はあまりにもさびしい期待を抱いているように私の目には映るのだ。
「シャンさん。私は聞きたい。貴方が語る言の葉として聞きたい。シャンさんが生きる意味は何ですか?」
《すばる》
