第17章 未来潮流

北がきなくさくなっていることは噂で聞いていたし、実際に貧困にあえぐ街をこの目でいくつも見てきた。ここまで北方は争いが激しくなったのかと思うと、複雑な思いはある。だが、ここまできた目的は決して人を助けるためではない。そう考えて、ミランダは道端で倒れている人から目を背け、フードの下で小さくため息をついたのだった。


 教皇がとらえられ、姿を消して早いく月か。情報を求めてあてもなく彷徨っていたところに北方の争いを聞き、行こうと思ったのはほんの気まぐれだった。赤軍が関わっていると聞き、きっと教皇はいないけれど北の現状を把握しておくのも悪くないと思ったのだ。深入りはしない程度に、少しだけ。そんな軽い気持ちで来た、北方だったはずだった。


「これは……想像以上、だわ」


 まさかここまで被害が甚大かつ深刻だとは思わなかった、というのが正直な感想だ。北方は純血主義者がいて混血達へのあたりが強い土地であり、今は赤軍との緊張状態が続いており、そのあおりを受けて領民たちに被害が出ている、くらいの知識しかなかった。その被害を目の当たりにして、今衝撃をうけているわけなのだが。


「まあ、私に何ができるわけでもないし……この状況を救いたいと思うのは、ただの阿呆よね」


 この状況下でたった一人。味方もいない状態で何ができるというのだろうか。それに北方がどうなろうと関係のない話だ。そう思いながらミランダは宿屋の入口をくぐる。暇そうにしていた店主が慌てていずまいを正す。閑古鳥が鳴いているようだ。
 

「……今夜の宿をお願いします」
「こんなご時世に女性の一人旅かい。すごい度胸だな」
「一応自衛の手段はあるので……。北の様子が気になって、なにかできることはないかと思って、来たんです」


 ミランダの言葉に店主はどう思ったのか、軽く相槌を打つとそれ以上はなにも言わずにひとつ部屋を用意した。ミランダもまた、何も言わずに案内された部屋へとはいる。そこはこじんまりとはしていたが、掃除の行き届いた気持ちの良い部屋だった。

 荷物を適当に放り投げ、マントを脱ぐ。ふんわりとしたベッドに座り込み、ようやく一息つけた、と大きくため息をついた時だった。

 ぽろり、となんの予兆もないままに、温かい液体が頬を滑り落ちる。


「なみ、だ……?」


 どうして涙が、と思う間もなく、次から次へと涙がこぼれ落ちる。慌ててタオルを探すも、そういう時に限って荷物を漁ってもなかなか出てこず、苛立ったミランダはついにタオルを探すことを諦めた。
 全てを投げ出してベッドに横たわると、涙が眼下をつたっていく。


「……どこにいらっしゃるのですか、教皇さま。私は、あなたに……」


 こんな気持ちになってはいけないと、思う。自分の大切なものは教皇と孤児院の子供たちだけ。それでも、それでも……幼子が泣き叫ぶことすらできず小さな声で両親を呼びながら命を散らしてゆくのを見て、心を揺さぶらずにいるほど、人間はできていない。

 いつだって教皇を切望している。それでも、今日ほどに会いたいと思ったのは、いつぶりだろうかと。そんなことを考えながら、ミランダはブレスレットを握り締めたまま眠りに落ちたのだった。




◇ ◆ ◇



 ――ふと、エテルは目を覚ました。一体ここはどこだろうか、と辺りを見回して――唐突に今までのことを思い出す。そうだ、赤軍として戦場に行き、メドラウトが怪我をしていて治癒術を施そうとして、……そのあとの記憶は、ない。


「あれ、私、どうしたんだっけ……」

「起きたか、エテル」


 考えに沈もうとしていたエテルを拾い上げたのは、メドラウトだった。手当をしたのか、目立つ範囲で外傷は見当たらなさそうだが……。


「あ、アナム! 私いつのまにか気絶していたみたいで、記憶が途中から、なく、て……。ねえ、赤軍はどうなったの? あの、戦いは、どうなったの……?」
「……あの場は、赤軍が退却する形になった」

「え、……」

「大局は決した。あれ以上あそこで戦っても、些細な流れにしかならない。だから、お前を連れて退却した」


 言葉を並べながらも、エテルは嫌な予感がしていた。メドラウトの治療をしようと近寄ったところで、ぷつりと記憶の糸は途切れている。ならば、メドラウトが何かをしたのだと思うのが、正解だろう。赤軍が退却したという事実と、今周りに同志がいないこと。

そこからエテルが真実にたどり着くまで、そう時間はかからなかったはずだ。そのはずだが、その時だけふたりの間に流れる時間は、恐ろしくゆっくりとしたものになっていた。
 メドラウトは淡々と真実のみを述べている。琥珀色の瞳からは、何も読み取れない。


「どうして……。ほかの赤軍の同志は?」
「わからない。俺はお前を連れて赤軍とは別の方向に逃げたからな」

「――っ!!」


 あくまでも淡々としたメドラウトの声がエテルに届く。あえて感情がのらないようにしているのかもしれない。事実を聞けばエテルが反応をするからだとわかっているからだろう。その心遣いがどうしようもなく――今のエテルには、耐えられなかった。


「なんで……なんで!! 私は、赤軍として大義の礎になるって決めたの! そのためならば……最悪、あの場で殉じても構わなかった! それを、どうして!!」


 八つ当たりだ。自分の不甲斐なさへの、助けられなかったかもしれない仲間がいることへの。十分に、エテルはわかっていた。それでも、声を荒らげてしまうのを、やめることはできなかった。メドラウトは、何も言わない。ただ真っ直ぐに、エテルを見つめている。


「私は赤軍衛生兵のエテル・ベネディ! 赤軍の礎となる一兵士であると決めて、“エテル”であることすら捨てようと思っていた! なのにどうして……私を、助けたの……」


 そう言って、エテルは顔を覆って泣き崩れる。ただ、ふたりしかいない平原に、悲鳴のような彼女の声が、風にさらわれていった。
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