第17章 未来潮流

柔らかくほのかに霞む春の夜の月。

夜空に輝く月を仰ぎ見れば彼女の柔らかな笑顔が脳裏に浮かぶ。

アグネス……君は今どうしているだろう……静かな寝息を立てて眠りについている頃だろうか……

俺は……。

彼女からの手紙に視線を落とし、綴られた文章を眺めては想いを募らせる。
君の想いが込められた手紙……何度も何度も読み返しては想いだけが降り積もる。

ここに君はいない……愛おしさが募るばかりで君を抱き締めることができない今がとても苦しい……
この手で君を抱き寄せて言葉を交わして長く美しい髪を撫でて……想いを込めて君と口付けを交わしたい……

ああ……ひどく独りよがりな想いだと自分でも理解している……君の想いよりも俺の想いを押し付けているだけだと自分でも理解している……それでも……それでも……望まずにはいられない……

募り積もった想いは水が注がれるが如く満ち満ちて…盃から溢れんばかりだ……


顔を上げれば眼前に広がる泉が月の光を受けて静かに青く輝いていた。

いつか両親から聞いた水鏡の話を思い出し、この泉に足を運んだ。

願えば届くだろうか……。

想えば届くだろうか……。

彼女に……俺の愛する人にこの想いを届けたい……故郷の神に……この地に宿る全ての神に請い願う……八百万の神よ……願いを聞き届け給え……どうか彼女と……一夜限りの会瀬を……

風が一陣通り抜けて水面がざわりと揺らめき泉に落ちた月の影がゆらゆらと揺らめいていた。

空に霞む月を今一度仰ぎ見てその場を離れようと踵を返した……その時だった。

ふと懐かしい香りが鼻腔を擽り、誰かに呼ばれた気がして足を止めた。

……刻……刻……


この声は……間違う筈がない……

胸の奥に暖かな火が灯る。


「……刻……!!」


「アグネス……!?本当に……アグネス……なのか……?」


ずっと聞きたかったその声に……反射的に振り返り泉の方へと視線を向ければそこには故郷の衣を纏った愛おしい君の姿……


春に咲く淡い紅色の花と同じ美しい衣を纏って紅を引いた君の姿……幻でもいい……今すぐに君に触れたい……

手を伸ばし重ねる手と手が触れ合い……そしてすり抜ける。

ここにいる君は幻……触れることのできない一夜の夢。

それでも構わないと更に手を伸ばしてそっと彼女を胸に抱き寄せれば伽羅の香りがよりいっそう強く香る。

ここに……いる……あれほど焦がれた彼女が今……俺の元に……。

彼女の肩が微かに震えて閉じられた瞼から一筋の雫が零れ落ちた。


泣いているのか……アグネス……。


「どうしてお前がここに……それにその姿は……」


「ナギさんとナミさんにお願いして魔法の鏡を使わせて貰ったの。どうしても……どうしても刻に会いたくて……刻の声を聞きたくて我がままを言ったの。だから、今の私は幻。でも、私だよ。刻……刻にね……会いたかった……」

彼女の紡ぐ言葉が浸透してゆく。胸の奥が喜び震えて衝動的に掻き抱くように彼女を抱き寄せた。

「……俺もだ……会いたかった……君の顔を一目見たかった……アグネス……。」


彼女の赤茶色の髪を優しくそっと撫でてもう一方の手で君を抱き締めた。

するとまたひとつ……彼女の瞼から涙が零れた。

幻でも構わないと思っていたが……君の涙を拭うことさえできない自分が腹立たしい……。

それでも……せめて心だけでもとアグネスの頬にそっと触れて拭う仕草をしてみせた。

彼女は気づいていないようだか……それでも……構わないと思った。

そして彼女もまた少し痩せた……と言いながら俺の頬をその細く白い指先でそっと撫でるように触れていた。

互いに触れあう感触は……ない……だが……胸の奥がじわりと温かな熱を感じている。

愛おしい……その愛らしい声が耳を擽る。
俺の心を温かな熱で満たしてゆく……。

「……刻……」

ふいに彼女が僅かに身体を離し、俺の瞳をじっ……と見つめた。
そして僅かに微笑みを浮かべたと思った次の瞬間、彼女との距離が徐々に近づき、触れるだけの口付けを交わしていた。

彼女の纏う甘く優しい香りが鼻腔を擽る。
唇に触れる感触も互いの熱も感じられない夢幻の口付け……だが……今この時、俺は確かにアグネスの想いを強く……強く感じていた。

「刻……私、やっぱり駄目なの。永久と一緒に春の国へ来て皆によくしてもらって身体も良くなって幸せだけど……それだけじゃ駄目なの。あなたがいないと心に穴が開いてしまったようで……スースーして幸せだけど、それだけじゃ足りないの……」


アグネスの薄く愛らしい唇が静かに優しく言葉を紡ぐ。
一陣風が通りすぎて泉の水面がさわりと微かに揺らめいた。

「アグネス……?」


「刻。刻……私ね……刻の事が大好きなの。きっとあなたが考えている以上にずっと、私は刻の事が大好き


刻……あなたを愛してる……」

「アグネス……。」

微笑む彼女を抱き寄せ顎にそっと手を当てて徐々に顔を寄せていく。

今この時……もう一度彼女と口付けを交わしたい……そんな己の欲に従いながらゆっくりと彼女の唇に自分の唇を重ねるだけの口付けを交わす。

水面が揺れる。俺の姿だけを映してゆらゆらと揺らめく。

だが……ここには確かに彼女がいる。

俺の愛する想い人が……今……ここに。

「俺も……愛している……愛しているアグネス……。」

抱き締める腕に温もりはない。
どれだけ強く抱き締めても彼女の柔らかな肌の感触も感じることはない。

それでも……己の心の欲するままに彼女の幻を抱き締めていた。

戦場に響き渡る轟音と火薬の匂い。

絶え間なく降り注ぐ矢の雨。

激しく打ち合う金属音と戦場を駆け行く馬の蹄の音。

手綱を強く握りしめ、身体を低くして右手には愛用の太刀を構えて戦場を駆け抜けた。

『物事は全て正しい道を歩むからこそ意味がある!!フリードリヒが選んだ道は王道ではない……覇道だ!!!』


俺は彼のことは良く知らない……が、これまでの彼の成長を仲間達と共に見守ってきた。

どこか頼りなげな寄る辺のない少年の姿はいつの間にか真っ直ぐに未来を見つめる一人の男の姿に変わっていた。


『……決裂、だな。我々に迎合しないと分かった以上、お前達を生かしておくわけにはいかない。……お前達は知り過ぎた。お前達はこの国を乱す腫瘍だ!』


『……だそうだ。覚悟は決まったか、刻?』


『ああ。こうなる事はお前達について行くと決めた時から覚悟はしていな。……敵中突破するしかないだろう。俺達のうち一人、生きてここを突破できればそれでいい』

蕀の道を歩むと決めたあの日から俺は百万の軍勢を敵に回してでも友の為……愛する人の為……この刀を振るうと決めた。

アルフォート……未来ある若者であるお前の進む道を斬り開く刃となる為に……。

俺の愛する人の故郷を護る為に。

恐れる事は無い。俺の胸の奥には彼女の愛がある。

彼女が真心込めて縫ってくれた鉢巻を身につけて風のように戦場を駆け抜けて彼の前に立ちはだかる敵を一刀の元に斬り伏せていく。

「刻さんっっ!!!!!」

「行け!!!!!アルフォート!!!!!振り返らずに走り抜けろ!!!!!」


赤軍の兵士を斬り伏せてアルフォートの小さな背を見送る。

ああ……まだ若く小さな背中だが、確かに彼は強くなった。

俺達が側にいなくてもきっと成し遂げるだろうと思わせてくれた。


だが……。

「セデル……どこだ……セデル!!!!!」

まだ戦場に取り残されているのだろうか……周囲を見渡しても奴の姿が見えない。

手綱を強く引いて踵を返した。

土煙の舞う戦場のただ中でようやくその姿を捉えた。

周囲を敵に囲まれ刃を向けられていた。

ぞくりと背筋に冷たいものが走る……間に合え…!もっと早く駆けろと鐙で馬の腹を蹴った。

……が……当の本人の顔は微塵も焦りの色を浮かべてはいない……

いや……むしろ…………ふてぶてしい。

なんだその顔は……お前は今黄泉国と現世の瀬戸際に立っているのだぞ……??

ここにきて思わずふっ……と笑みが溢れた。

どうやら……ただでやられるつもりは微塵も無いらしいな……。

もう一度刀を握る手に力を込め一太刀、もう一太刀……立ちはだかる敵を次々となぎ倒して友の元へとようやく辿り着いた。

「セデル!共にここを切り抜けるぞ!!」

刃を向ける敵を斬り伏せて声を張り上げて更に言葉を続ける。

「ここで終わるつもりは無いのだろう?
無事に帰ったら美味い酒を飲もう。」

俺の言葉にセデルの口角が上がる。ふふ……と声に出して笑いながらいつもの口調で言葉を紡ぐ。

「帰れたら……だがな。」

帰れるさ……帰るとも……そのために俺達はここに立っているのだから。

「俺の奢りだ。タダ酒は好きだろう?

それに……俺にも帰る場所がある。会いたい人がいるんだ。

だから……今はお前の背を守る。
お前がここに残るなら最後まで共に戦う。
一緒に……帰ろう!!」


ある神が1日に千の命を奪うならば俺は1日に千と五百の母屋を建てようと応えた神がいた……いいや……俺達は……幾千……幾万の命を世に送り出そうじゃないか。

愛する人と手を取り合って、彼の望む平らかなる新たな時代で……。
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