第8節 ブルボン学園(現パロ)

また弟子達に仰せになった。「灯火を持って来るのは升や寝台の下に置くためであろうか。燭台の上の置く為ではないか。まこと隠されているもので露わにされないものはなく、また秘密にされたもので公にならないものはない。聞く耳があれば聞きなさい」

また仰せになった。「注意して話を聞きなさい。あなた方が量るその升であなた方にも量り与えられ、しかも更に増し加えられる。持っている人には更に与えられ、持たない人は持っているものまで取り上げられてしまう」


【マルコによる福音書 第4章】






「こっちへ……!急げハルモニア!!」


「ちょっと待って姉さん……!一体どこへ連れていくつもりなの?」


噎せ返るような濃く重たく冷たい黄昏の影が屋敷の長い長い回廊を沈めていた。怖いぐらいの静寂の中、響く音は私と姉さん二人の足音だけだった。虫の音も風の音すらない世界に場違いな音が響く。

姉さんに利き手を強く掴まれ引っ張られる形で私は走っていた。どこへ連れて行かれるのかも告げられぬまま、ただただ長い回廊を走る。自分の左胸の鐘が今だかつてないほどに早く脈打っていた。


「ハルモニア……前に……言ったな?もしこの国に……私になにかあったときはユルベルと一緒に逃げろ……と。今がその時だ。ハル……ユルベルに乗って飛べ……できるだけ遠くまで逃げろ!!」


姉さんの対の瞳に強い光が宿る。光を宿したまま真っ直ぐ、姉さんの瞳が私の姿を映している。久しぶりに見る虚ろを宿さない姉さんの瞳。姉さん本来の輝き。姉さんが帰ってきた、私のところへ!

……それは分かる。だけど今はその嬉しさ以上に驚きが勝っていた。……姉さんは今なんて……その言葉に自分の瞳が瞠目する。


「な……何を言ってるの?姉さん…!私は姉さん一人を置いて逃げたりなんかできない…!逃げるなんて……そんな事絶対に……!」

「解ってくれハルモニア……!!私はお前を失いたくないんだ!!お前の気持ちも解っている……お前は私を置いて逃げるなどと、そんな選択肢ははなから無いと言うことも……。だが……“その時”は来てしまったんだ……まもなくダンタリオンの軍勢がここへ来るだろう。おそらく赤軍を引き連れてな……。そうなれば私も……お前も殺される。私はお前が生き延びてくれればそれでいい。それだけで私は闘える…!まだこんなところで狂ったりしない…!」


姉さんの声が震えている。震える姉さんの声が私の鼓膜を揺すった。私が絞り出すように出した声が震えていたのと同じように姉さんの声も震えている。ああ……姉さんも私と同じ事に恐怖を感じている事を声が教えてくれている。

それでも……にも拘らず、私が不安にならないようにと私の身体を抱いてくれるこの人はどれだけ強い人なのだろうか?妹を慈しむ姉の心というのはこんなにも強いものなのだろうか。……どれだけの重荷を私は姉に背負わせてきたのだろうか。

確かに姉さんが危惧しているようにこの屋敷まで既に敵が忍び込んできているのだとすれば、軍人である姉さんとは違い戦えない私は枷にしかならない。だけど、私もただ何も準備せずに姉さんが今言った”その時”を待っていたわけじゃない。

救援の手紙を彼の領に送ってからもう二週ばかりになる。そこから準備をする時間を差し引いたとしてももうすぐこの領に着く頃だ。仮に赤軍が領内に既に進軍して来ていたとしても途中で衝突し、奥地までは入り込めないでいるはず。最奥のこの屋敷まで到達できる可能性は低いはず……

大丈夫よ。姉さん。マンシュタイン領へ救援要請を出してあるわ。きっともうすぐそこまで来てくれているはず―……そう紡ぐはずだった言葉は、言葉として生まれる前に死んだ。

鈍色をした何かが空に刹那煌めき、翻る。私の身体を抱え私を庇うように大きく横へ飛んだ姉さん頬から一筋、赤い雫が流れていた。黄昏の光が赤を黒へと変えていく。


「エリカ……!」


「まあ!すっかり思い出してしまわれたのですか?私はてっきり狂いに狂い果ててとうに自我など失われている頃だと思っていましたのに。……残念」


エリカと姉さんが名前を呼んだ強襲者の女の瞳が瞬間大きく見開き、そして瞬きと同時に緩やかに弧を描く。楽しいから笑ったのではない。むしろその逆だと女の眉間の間に深く刻まれた谷が物語っていた。


「やはり、貴女が一番邪魔ですわね。この女を元に戻したのは貴女。だから……まずは貴女を先に始末させてもらいます。そうすればミルファスを止めるものはいなくなる。今度こそ思い通りのお人形さんになってくれるはず」


「ハルモニア!!早く行け!!何をしている……ハル………っ……うっ……!」


「姉さん……!!」


ぐらり、と姉さんの身体が大きく左右へふらついた。姉さんの長い髪が目の前で頼りなげに揺れる。倒れる!!!!そう思った瞬間、大きく硬質な音が大理石の床に強く響いた。愛剣を床へ突き刺しそのまま刀身を支えに体勢を立て直すと、姉さんは再び剣を携え、吼えた。


「お前だ!!!!!!エリカ!!!!!!今は……今だけはこの呪いさえ力に変えてやる!!!!!この狂った力でお前を倒す!!!!!」


「あら嫌だ。女のヒステリーほど醜いものはなくってよ?”鏡”の糸に縛られ動かされているだけの木偶が何を言い出すのかと思えば……笑わせる―……ッ!!!お待ちなさいッ!!!!」


「……言っただろう?私はお前を倒す……と!ハルモニア!そうだ!!逃げろ!!走るんだ!!!!」


その言葉を聞くと同時に私は弾かれたように顔を上げ踵を返した。ドレスの裾を持ち上げ靴を脱ぎ走る!徐々に背中で聞こえる剣の切り結ぶ音が遠ざかっていく。

私は離れた。侵入者から。そして姉さんから。私は走った。逃げる為ではなくその場所を目指して!!鏡のある姉さんの自室へと!!


「はあ……っ……はあ……」


一歩、そしてまた一歩、その鏡へと近付く。重い逢魔が時の影と私の姿を映す大鏡へと。歪んだ鏡が真っ直ぐ虚像を結ぶ。奇妙な鏡へと片手でぺたりと触れれば、日中の日の光で温まったのだろうか、仄かな温もりを感じた。

確証はない。現に今ここにいるのも女の言葉を聞いたからであってそれ以上のものはない。だけど、確信がある。乱れた息を整えるように一つ息を吐き、そして鏡の傍に置いてあった椅子を掴み自分の頭上高くてと掲げた。

いる……!!前に軍の人が調べた時にはいなかったものが今ここに、”いる”!!!!


「姉さんを!!私の姉さんを!!返してッ!!!たった一人の姉さんをッ!!!返しなさいッ!!!!!!!!」


椅子を投げ付けると同時に放射状に幾重にも幾重にも鏡面状にヒビが……走ったッ!!魔が時の光が割れ、私の姿が割れる……ッ!!そして―……


灯火を持って来るのは升や寝台の下に置くためであろうか。燭台の上の置く為ではないか。まこと隠されているもので露わにされないものはなく、また秘密にされたもので公にならないものはない。聞く耳があれば聞きなさい。


《ハルモニア・コンコルディア》
1/9ページ
スキ