第16章 デミアン
御子は他の喩えを示して仰せになった。「天の国は一粒の芥子種に似ている。ある人がそれを取って畑に蒔いた。その種はどんな種よりも小さいが、生長するとどんな野菜よりも大きくなり、そして空の鳥が来てその枝に巣を作るほどの木になる」
御子は人々に他の喩えを語られた。「天の国はパン種に似ている。女がそれを取って三サントの小麦粉の中に混ぜるとやがて全体が発酵する」
「天の国は畑に隠された宝に似ている。それを見つけた人はそれをそのまま隠しておき、喜びのあまり行って自分の持ち物をことごとく売り払い、その畑を買う」
天の国はまた善い真珠を探し求める商人に似ている。高価な真珠を一つ見出すと商人は自分の持ち物をことごとく売りに行き、それを買った。
【マタイによる福音書 第13章】
「いつ来ても綺麗に整理されている部屋だねえ。使用人の方々がきっと優秀なんだろうねえ」
「ん?ああ……どうも部屋が散らかっていると集中できなくてな。散らかっているとそれだけで資料や文献を探す羽目になって余計な手間が増えるだろう?掃除は習慣のようなものだな……」
部屋の空気の入れ替えがてら窓を開ければ新鮮な外の空気と中の夜の間に籠った空気とが入れ替わる。先週洗濯したばかりの薄手のカーテンが吹き込んできた風に泳いだ。洗ったばかりのレースのカーテンに取り立て目立った汚れはついていない。代わりに木々の間から漏れる木漏れ日とよく似た影が窓縁を彩っていた。窓の傍に置いた花瓶に挿した花が一輪、柔らかな花弁を風に揺らす。
「……習慣、かい?」
「あっ、いや……習慣というか趣味のような癖のようなものだ。……待ってくれ、趣味じゃない。今言った事は忘れてくれていい……」
俺の言葉を聞くと彼女の大きな瞳が数度、不思議そうに瞬いた。反射的に彼女の問いに答えて、その途中で自分のした失言に気付き自分の口元を片手で覆う。……どう考えても今のは失言だ。どこに潔癖の男を好ましく思う人間がいる?怖いと思われるか百歩譲って面倒くさい男だと思われるのが関の山ではないか。
「ふふっ……まあ、お前さんはそうだろうねえ」
「……驚かないのか?」
「ああ。だってあっしの店に来る時のお前さんの格好、いつ見てもぴしーってしているだろう?服も髪も。こう見えても商売している身だからねえ、案外客の事は見ているのさ。お前さんがどちらかと言えば生真面目な性質なんだろうなっていうのは初めて会った時から感じていたさ」
彼女の眦が、唇が弧を描いた。耳障りの良い柔らかな声が心地良く鼓膜を揺する。自然に差し出した自分の手は空を掴むのではなく彼女のほっそりとした指先に触れ、そうするのが当然とばかりに彼女の手を握り、そして自分に向って引き寄せていた。窓縁に飾った季節外れの菊の花が木漏れ日によく似た光と共にそよぐ。
「……菊の花、この時期でも咲いてるんだねえ」
「産地による、らしい。俺も詳しくは知らないが温度や湿度を適切に管理してやれば季節を問わず春でも夏でも咲くと花屋に言われた」
「ふふっ……そうかい。でも、どうして菊の花なんだい?前にこの部屋に来た時もここには菊の花が飾ってあっただろう?今は春だろ?春の花も綺麗なもんさ。冬の間辛抱していた白や薄紅色の花が一定に芽吹くからねえ。季節の花を季節に応じて飾るのも中々粋なもんだと思うけど……」
「……秋や冬だけじゃなく一年中この花を見ていたいからだ……と思う。飾る理由は」
彼女と共に先程まで一緒に土いじりをしていた庭の一角を部屋の窓から見下ろす。午後になってもよく日が当たるその場所に来年の春には綺麗な花が咲くのだろうか?彼女が今日持って来てくれたツツジの濃い桃色の花が。
「来年、ツツジが咲けば季節外れの菊を無理に飾っておく必要もないかもしれないが……」
自分は花に重ねている。彼女の姿を。菊の花にあるいはツツジの花に。咲く季節も花の形も違うが美しい花に彼女の姿を重ねて見ていた。だから殺風景の部屋にここだけ花を飾っていたんだ。
自分は小さいとはいえこの地を治めている。本当に、本当に小さな領地だが領民がいる事に変わりはない。だからこそ会いに行きたくても行けない日もある。彼女に会えない慰めに花を飾っていたのだと今でははっきり自覚している。
領地を動けない事がある事を不満に思っているわけではない。まだまだ若輩者だがむしろ自分の責務に誇りを持っている方だ。難しく感じることはあれど苦痛に思った事は今まで一度もない。はっきりと言える。自分はこの土地も好きなのだと。
だが、それは彼女も同じ事だろう。海を渡りはるばる異国へやって来て一代にして築いたという錦江というあの店は、彼女にとって他に換えのないかけがえのないものだろう。俺にとってこの土地がそうであるように彼女にとってはあの店がそうなのだ。それは重々知っている。けれど―……
「……お前、さん……?」
「……すまない。暫くこうさせてほしい」
静かに彼女の腕を更に引き、自分の腕の中に閉じ込めた。僅かに彼女の細い身体が強張った事が腕を通じて伝わって来たが、厭わず抱き締めた。甘い香りが誘うように鼻腔を擽る。
俺には俺の、彼女には彼女の守るべき土地や店がある。それを重々知っていながら想いを秘めておけずに口にしてしまう自分はなんと身勝手な人間なのだろうか。現に今だって彼女を混乱させているではないか。それでも、それを承知の上でそれでも言いたい。
「……好きなんだ、薄烟。貴方の事が……」
言葉にして口にしてしまえば想いは更に堅強な形を取る。……そう、惹かれていたんだ。ずっと以前から、彼女に。誇りを持ち、自分で築いたものを穏やかに守ろうとしている彼女の姿勢に。いや、違う。それも確かに理由の一つだが自分はその前から彼女に惚れていたんだ。おそらく、初めて錦江を訪れたあの晩秋の日から。……でなければ花など贈らなかった。
腕の力を解き身体を離せば、混乱から不安気に瞳を揺らす彼女がいた。その表情に自嘲とも自重とも言える笑みが自分の顔に浮かぶ。
「……返事は無理にとは言わない。混乱させてしまっただろうしな。……帰る時は声を掛けてほしい。店まで送っていく」
彼女に大切なものがあると知っていながら、もっと共に過ごしたいと思う自分は本当に、身勝手だ。
≪ラント・ブラウン≫
御子は人々に他の喩えを語られた。「天の国はパン種に似ている。女がそれを取って三サントの小麦粉の中に混ぜるとやがて全体が発酵する」
「天の国は畑に隠された宝に似ている。それを見つけた人はそれをそのまま隠しておき、喜びのあまり行って自分の持ち物をことごとく売り払い、その畑を買う」
天の国はまた善い真珠を探し求める商人に似ている。高価な真珠を一つ見出すと商人は自分の持ち物をことごとく売りに行き、それを買った。
【マタイによる福音書 第13章】
「いつ来ても綺麗に整理されている部屋だねえ。使用人の方々がきっと優秀なんだろうねえ」
「ん?ああ……どうも部屋が散らかっていると集中できなくてな。散らかっているとそれだけで資料や文献を探す羽目になって余計な手間が増えるだろう?掃除は習慣のようなものだな……」
部屋の空気の入れ替えがてら窓を開ければ新鮮な外の空気と中の夜の間に籠った空気とが入れ替わる。先週洗濯したばかりの薄手のカーテンが吹き込んできた風に泳いだ。洗ったばかりのレースのカーテンに取り立て目立った汚れはついていない。代わりに木々の間から漏れる木漏れ日とよく似た影が窓縁を彩っていた。窓の傍に置いた花瓶に挿した花が一輪、柔らかな花弁を風に揺らす。
「……習慣、かい?」
「あっ、いや……習慣というか趣味のような癖のようなものだ。……待ってくれ、趣味じゃない。今言った事は忘れてくれていい……」
俺の言葉を聞くと彼女の大きな瞳が数度、不思議そうに瞬いた。反射的に彼女の問いに答えて、その途中で自分のした失言に気付き自分の口元を片手で覆う。……どう考えても今のは失言だ。どこに潔癖の男を好ましく思う人間がいる?怖いと思われるか百歩譲って面倒くさい男だと思われるのが関の山ではないか。
「ふふっ……まあ、お前さんはそうだろうねえ」
「……驚かないのか?」
「ああ。だってあっしの店に来る時のお前さんの格好、いつ見てもぴしーってしているだろう?服も髪も。こう見えても商売している身だからねえ、案外客の事は見ているのさ。お前さんがどちらかと言えば生真面目な性質なんだろうなっていうのは初めて会った時から感じていたさ」
彼女の眦が、唇が弧を描いた。耳障りの良い柔らかな声が心地良く鼓膜を揺する。自然に差し出した自分の手は空を掴むのではなく彼女のほっそりとした指先に触れ、そうするのが当然とばかりに彼女の手を握り、そして自分に向って引き寄せていた。窓縁に飾った季節外れの菊の花が木漏れ日によく似た光と共にそよぐ。
「……菊の花、この時期でも咲いてるんだねえ」
「産地による、らしい。俺も詳しくは知らないが温度や湿度を適切に管理してやれば季節を問わず春でも夏でも咲くと花屋に言われた」
「ふふっ……そうかい。でも、どうして菊の花なんだい?前にこの部屋に来た時もここには菊の花が飾ってあっただろう?今は春だろ?春の花も綺麗なもんさ。冬の間辛抱していた白や薄紅色の花が一定に芽吹くからねえ。季節の花を季節に応じて飾るのも中々粋なもんだと思うけど……」
「……秋や冬だけじゃなく一年中この花を見ていたいからだ……と思う。飾る理由は」
彼女と共に先程まで一緒に土いじりをしていた庭の一角を部屋の窓から見下ろす。午後になってもよく日が当たるその場所に来年の春には綺麗な花が咲くのだろうか?彼女が今日持って来てくれたツツジの濃い桃色の花が。
「来年、ツツジが咲けば季節外れの菊を無理に飾っておく必要もないかもしれないが……」
自分は花に重ねている。彼女の姿を。菊の花にあるいはツツジの花に。咲く季節も花の形も違うが美しい花に彼女の姿を重ねて見ていた。だから殺風景の部屋にここだけ花を飾っていたんだ。
自分は小さいとはいえこの地を治めている。本当に、本当に小さな領地だが領民がいる事に変わりはない。だからこそ会いに行きたくても行けない日もある。彼女に会えない慰めに花を飾っていたのだと今でははっきり自覚している。
領地を動けない事がある事を不満に思っているわけではない。まだまだ若輩者だがむしろ自分の責務に誇りを持っている方だ。難しく感じることはあれど苦痛に思った事は今まで一度もない。はっきりと言える。自分はこの土地も好きなのだと。
だが、それは彼女も同じ事だろう。海を渡りはるばる異国へやって来て一代にして築いたという錦江というあの店は、彼女にとって他に換えのないかけがえのないものだろう。俺にとってこの土地がそうであるように彼女にとってはあの店がそうなのだ。それは重々知っている。けれど―……
「……お前、さん……?」
「……すまない。暫くこうさせてほしい」
静かに彼女の腕を更に引き、自分の腕の中に閉じ込めた。僅かに彼女の細い身体が強張った事が腕を通じて伝わって来たが、厭わず抱き締めた。甘い香りが誘うように鼻腔を擽る。
俺には俺の、彼女には彼女の守るべき土地や店がある。それを重々知っていながら想いを秘めておけずに口にしてしまう自分はなんと身勝手な人間なのだろうか。現に今だって彼女を混乱させているではないか。それでも、それを承知の上でそれでも言いたい。
「……好きなんだ、薄烟。貴方の事が……」
言葉にして口にしてしまえば想いは更に堅強な形を取る。……そう、惹かれていたんだ。ずっと以前から、彼女に。誇りを持ち、自分で築いたものを穏やかに守ろうとしている彼女の姿勢に。いや、違う。それも確かに理由の一つだが自分はその前から彼女に惚れていたんだ。おそらく、初めて錦江を訪れたあの晩秋の日から。……でなければ花など贈らなかった。
腕の力を解き身体を離せば、混乱から不安気に瞳を揺らす彼女がいた。その表情に自嘲とも自重とも言える笑みが自分の顔に浮かぶ。
「……返事は無理にとは言わない。混乱させてしまっただろうしな。……帰る時は声を掛けてほしい。店まで送っていく」
彼女に大切なものがあると知っていながら、もっと共に過ごしたいと思う自分は本当に、身勝手だ。
≪ラント・ブラウン≫
