第16章 デミアン
誰も二人の主人に兼ね仕える事はできない。一方を憎んで他方を愛するか、または一方に親しみ、他方を疎んじるからである。
あなた方は神と富に仕える事は出来ない。
【マタイによる福音書 第6章】
深い深い眠りの底から浅い浅い眠りへと意識が移ろっていく。何も考えなくてすむ深い眠りが好きだった。そして、否が応でも夢を見せる浅い夢が苦手だった。
だった。と過去形なのは今はけしてそうではなくなったからだ。浅い夢に微睡む時、以前のような息苦しさを感じる回数は劇的に減り、代わりに幸福感を感じる回数が増えた。
薄手のヴェールが自分の目の前で春風に揺れている。……彼女が俺の夢を、精神世界を変えてくれたんだ。彼女の温かさが、微笑みが、言の葉一片が俺の世界をしっかりとした輪郭で形作り、彩っている。
彼女の名前、たった三音の単純な音を口にするだけで自分はこうも満たされる。
エテル
紡いだ何より大切な三つの音は夢の中で解けて溶けて消えてしまったのだろうか。それとも現の世界に漏れているだろうか。微睡む俺にそれを知る術はない。
ふっ、と唇に柔らかなぬくもりを感じた。春の日差しのように暖かく、そして乾いた土に染み込んでいく清水のように自分を満たしてくれる口付けだ。
「……エテル?」
自分が夢と現実とを繋ぐ浮橋を渡り現実へと帰還したのは、それからすぐ後の事で、状況を理解するとともに自分一人で寝るには少々大きいベッドから抜け出した。おそらく外にいるであろう彼女のところに行くために。
部屋の隙間から入り込む夜の冷気が足を冷やす。寒さで彼女が震えないようにと旅の間使っていた毛布を手荷物の中から引っ張り出し、片手に持った。
「……ここにいたのか、エテル。お前がいないから起きたんだよ。どこに行ったのかと思って心配しただろう」
「ごめんなさい……なんとなく起きちゃったし、せっかくだからあそぼうと思って」
冬の終わりを告げるように氷の花が空から落ちる。厳冬期の雪とは違い皮膚を刺すような痛みを伴う雪ではないが、代わりに水分を多く含んだ重いぼたん雪が彼女の羽織ったショールの上に、柔らかな髪の上に微かに積もっていた。
彼女の口から微かに漏れた小さな息は、白い蒸気の霧となり一日の内で最も暗い空へと吸い込まれていく。
「あのなあ……気付いてるか?体が冷えてる」
彼女が肩に掛けたショールとそして自分が持って来た厚手の旅用の毛布ごしに、外気によって冷やされた彼女の身体を抱きしめた。これ以上、僅かでも彼女の体温が冷気に攫われぬように腕と、そして自分の翼手を使って包むように覆う。
冷えた頬に、そして彼女の額に、そして微かに震える愛らしい唇に、自分の唇を使い静かに触れる。浅い口付けから徐々に長く、そして深く。
唇で触れれば触れるほど、舌を絡めるほど俺から彼女へと体温が移っていった。暖かい空気が冷たい空気に向かって流れるように、水が高い場所から低い場所へ向かって流れるように。彼女と熱を共有すればするほど自分の心は満たされていく。
一人でいるのが苦だったわけではない。好き好んで人を突き放す性質の悪い癖もなかったが、一人でいる時間もそれなりに好きだったはずだ。エテルと出会う前までは。なのに、今は―……
「さて、ここにいると冷えるからな。中に入ろう。それで、あったかいものでも飲もう」
「うん、飲む。それで……また、一緒に寝ようね」
「!ああ、そうだな」
甘い花の香りが六花に混じっていた。俺を見上げはにかむ様に微笑む彼女手を取る。離れないように、離さないように、と。だって彼女は俺の―……
++++++++++++++++++++
火薬によって生じた黒煙が風に混ざり、古びた砦の中まで吹き込む。北西から吹く風に混ざった臭気は自分にとって嗅ぎ慣れた酷く不快な臭いだった。枯れ草が焼け、土が焦げる臭いだ。生き物が、肉が生焼けに焼ける臭いだ。……すえた戦場の臭いだ。
「エテル……?」
「アナム、ここからはひとりで行く。赤軍としてアマダスさんに追従する。そこに赤軍ではないあなたを巻き込むわけにはいかない……だから、私達の旅はここでおしまい。ついて来てくれて本当にありがとう。―……そして、ごめんなさい」
『暗殺!!?おいおい、随分物騒というかきな臭い話だな、カイム』
『必ずしも実行しろ、とは言っていない。あくまで可能性のうちの一つだ。あの娘はフリードリヒの愛弟子とは言え、いまだに定まらない部分も多い。あの娘自身の善性のせいでな』
『善性、ね。まあ確かに赤軍の要人のわりには虫一匹殺したことはありませんって面してるけどよ』
『あの娘がただの人道支援目的で旅に出るというならそれでいい。お前は娘を護衛するだけだ。だが―……』
『……全てを知った上で裏工作をするようであれば……赤軍に与するようであれば殺せ、って事だろ?まあ、教皇と馴染みがある俺達神殿騎士からすると赤軍にこれ以上卑怯な工作をされるわけにもいかねえしな。あんたが言うことが本当ならゴイムの裏側で糸を引いていたのも赤軍なんだろ?』
廃屋の一室に差し込む光が俺とカイムの足元を照らしていた。今、砦の窓から差し込む光が俺の足元を照らしているように。左胸が早鐘を打つように拍動する。口の中が酷く渇いていた。武器の柄を握る自分の手の平は吹き出た嫌な汗でじっとりと湿っていた。
「……馬鹿野郎ッ……!!!」
「あ、な……ム……?」
彼女の大きな瞳がさらに大きく見開いた。彼女の細い肢体が衝撃にビクリ、と強く跳ねる。カタカタと俺の腕の中で白くなりながら奮ている彼女を後ろ向きに強く抱きしめた。震える俺の世界を、立ち去ろうとする世界を強く抱く。
カラリ、と硬質な音を立てて武器は床へと落ちた。
……そう、できるわけがないんだ。彼女を傷付けることなんて。俺は知ってしまったから。彼女を愛し、そして愛される幸福を。
外にいる連中は個人の思想の枠を超えた大義の為に、自分が信じるイデオロギーの為に剣を取り、そして戦っているのだろう。彼女だってそうだ。ここにいる連中はみんな己を捨てて大義の為に戦っている。
そんな誇り高い奴からか見たら俺の動機など酷く俗っぽく、そして下賤なものとして映るに違いない。だが、それでもいい。他の誰に理解されなくとも、彼女自身にさえ蔑まれたとしても構わない。それでも俺は俺の世界の礎を守り抜きたい。
「……行くなら俺も連れて行け、エテル。言っただろう?俺はお前の騎士だ。お前を守り、支えよう。騎士の誓いだ。……守らせてくれ。エテル、お前は俺の世界の礎だから」
他の奴らが、エテルが大義の為に戦うというのならば、俺は俺自身の為に、俺自身のエゴを貫き通す為に剣を取る。
《アナム・メドラウト》
あなた方は神と富に仕える事は出来ない。
【マタイによる福音書 第6章】
深い深い眠りの底から浅い浅い眠りへと意識が移ろっていく。何も考えなくてすむ深い眠りが好きだった。そして、否が応でも夢を見せる浅い夢が苦手だった。
だった。と過去形なのは今はけしてそうではなくなったからだ。浅い夢に微睡む時、以前のような息苦しさを感じる回数は劇的に減り、代わりに幸福感を感じる回数が増えた。
薄手のヴェールが自分の目の前で春風に揺れている。……彼女が俺の夢を、精神世界を変えてくれたんだ。彼女の温かさが、微笑みが、言の葉一片が俺の世界をしっかりとした輪郭で形作り、彩っている。
彼女の名前、たった三音の単純な音を口にするだけで自分はこうも満たされる。
エテル
紡いだ何より大切な三つの音は夢の中で解けて溶けて消えてしまったのだろうか。それとも現の世界に漏れているだろうか。微睡む俺にそれを知る術はない。
ふっ、と唇に柔らかなぬくもりを感じた。春の日差しのように暖かく、そして乾いた土に染み込んでいく清水のように自分を満たしてくれる口付けだ。
「……エテル?」
自分が夢と現実とを繋ぐ浮橋を渡り現実へと帰還したのは、それからすぐ後の事で、状況を理解するとともに自分一人で寝るには少々大きいベッドから抜け出した。おそらく外にいるであろう彼女のところに行くために。
部屋の隙間から入り込む夜の冷気が足を冷やす。寒さで彼女が震えないようにと旅の間使っていた毛布を手荷物の中から引っ張り出し、片手に持った。
「……ここにいたのか、エテル。お前がいないから起きたんだよ。どこに行ったのかと思って心配しただろう」
「ごめんなさい……なんとなく起きちゃったし、せっかくだからあそぼうと思って」
冬の終わりを告げるように氷の花が空から落ちる。厳冬期の雪とは違い皮膚を刺すような痛みを伴う雪ではないが、代わりに水分を多く含んだ重いぼたん雪が彼女の羽織ったショールの上に、柔らかな髪の上に微かに積もっていた。
彼女の口から微かに漏れた小さな息は、白い蒸気の霧となり一日の内で最も暗い空へと吸い込まれていく。
「あのなあ……気付いてるか?体が冷えてる」
彼女が肩に掛けたショールとそして自分が持って来た厚手の旅用の毛布ごしに、外気によって冷やされた彼女の身体を抱きしめた。これ以上、僅かでも彼女の体温が冷気に攫われぬように腕と、そして自分の翼手を使って包むように覆う。
冷えた頬に、そして彼女の額に、そして微かに震える愛らしい唇に、自分の唇を使い静かに触れる。浅い口付けから徐々に長く、そして深く。
唇で触れれば触れるほど、舌を絡めるほど俺から彼女へと体温が移っていった。暖かい空気が冷たい空気に向かって流れるように、水が高い場所から低い場所へ向かって流れるように。彼女と熱を共有すればするほど自分の心は満たされていく。
一人でいるのが苦だったわけではない。好き好んで人を突き放す性質の悪い癖もなかったが、一人でいる時間もそれなりに好きだったはずだ。エテルと出会う前までは。なのに、今は―……
「さて、ここにいると冷えるからな。中に入ろう。それで、あったかいものでも飲もう」
「うん、飲む。それで……また、一緒に寝ようね」
「!ああ、そうだな」
甘い花の香りが六花に混じっていた。俺を見上げはにかむ様に微笑む彼女手を取る。離れないように、離さないように、と。だって彼女は俺の―……
++++++++++++++++++++
火薬によって生じた黒煙が風に混ざり、古びた砦の中まで吹き込む。北西から吹く風に混ざった臭気は自分にとって嗅ぎ慣れた酷く不快な臭いだった。枯れ草が焼け、土が焦げる臭いだ。生き物が、肉が生焼けに焼ける臭いだ。……すえた戦場の臭いだ。
「エテル……?」
「アナム、ここからはひとりで行く。赤軍としてアマダスさんに追従する。そこに赤軍ではないあなたを巻き込むわけにはいかない……だから、私達の旅はここでおしまい。ついて来てくれて本当にありがとう。―……そして、ごめんなさい」
『暗殺!!?おいおい、随分物騒というかきな臭い話だな、カイム』
『必ずしも実行しろ、とは言っていない。あくまで可能性のうちの一つだ。あの娘はフリードリヒの愛弟子とは言え、いまだに定まらない部分も多い。あの娘自身の善性のせいでな』
『善性、ね。まあ確かに赤軍の要人のわりには虫一匹殺したことはありませんって面してるけどよ』
『あの娘がただの人道支援目的で旅に出るというならそれでいい。お前は娘を護衛するだけだ。だが―……』
『……全てを知った上で裏工作をするようであれば……赤軍に与するようであれば殺せ、って事だろ?まあ、教皇と馴染みがある俺達神殿騎士からすると赤軍にこれ以上卑怯な工作をされるわけにもいかねえしな。あんたが言うことが本当ならゴイムの裏側で糸を引いていたのも赤軍なんだろ?』
廃屋の一室に差し込む光が俺とカイムの足元を照らしていた。今、砦の窓から差し込む光が俺の足元を照らしているように。左胸が早鐘を打つように拍動する。口の中が酷く渇いていた。武器の柄を握る自分の手の平は吹き出た嫌な汗でじっとりと湿っていた。
「……馬鹿野郎ッ……!!!」
「あ、な……ム……?」
彼女の大きな瞳がさらに大きく見開いた。彼女の細い肢体が衝撃にビクリ、と強く跳ねる。カタカタと俺の腕の中で白くなりながら奮ている彼女を後ろ向きに強く抱きしめた。震える俺の世界を、立ち去ろうとする世界を強く抱く。
カラリ、と硬質な音を立てて武器は床へと落ちた。
……そう、できるわけがないんだ。彼女を傷付けることなんて。俺は知ってしまったから。彼女を愛し、そして愛される幸福を。
外にいる連中は個人の思想の枠を超えた大義の為に、自分が信じるイデオロギーの為に剣を取り、そして戦っているのだろう。彼女だってそうだ。ここにいる連中はみんな己を捨てて大義の為に戦っている。
そんな誇り高い奴からか見たら俺の動機など酷く俗っぽく、そして下賤なものとして映るに違いない。だが、それでもいい。他の誰に理解されなくとも、彼女自身にさえ蔑まれたとしても構わない。それでも俺は俺の世界の礎を守り抜きたい。
「……行くなら俺も連れて行け、エテル。言っただろう?俺はお前の騎士だ。お前を守り、支えよう。騎士の誓いだ。……守らせてくれ。エテル、お前は俺の世界の礎だから」
他の奴らが、エテルが大義の為に戦うというのならば、俺は俺自身の為に、俺自身のエゴを貫き通す為に剣を取る。
《アナム・メドラウト》
