第16章 デミアン


 信じていたものが瓦解するというのは、思った以上に絶望を与えるらしい。エテルはへなへなと座り込みながら、他人事のようにそう思った。


 思えば、どこかおかしかったのだ。北方へ行くことを志願した時から、かけ違えたボタンのように、違和感はいつもつきまとっていた。人道支援とは言えどうして赤軍がアローゼ領の境界まで行く必要があったのか。人道支援ならば教会が中心となって行っている。それを支援すればいいだけの話だ。わざわざ陣を張る必要は全くない。

 キャンプ地で見聞きした現実。北方から逃げてきたという人から掴んだ情報。それらが頭の中をぐるぐると回る。そしてアマダスからもたらされた真実。

 人心を理解し、巧みに操る手腕。先の一手まで読み、的確に人治を配置する卓越した頭脳。目的のためなら手段を厭わない非情さ。けれど非情なだけではなく、きっとすべての犠牲を背負って、進むつもりでいる。エテルが全く見通せない先の先をフリドは見つめているのだ。

“持たざるものが持てる”、そんな行く末を。


「エテル!?おい、エテル!!?しっかりしろ!!!!」


 ああ、メドラウトの声が、遠い。


 では、将来そんな世界になったとして。今犠牲になっている人々はどうなのだろう。未来をより良くしていくから我慢して犠牲になってくれ、と言わなければいけないのだろうか。
 ――いや、もう言っている。なんせ一連をめぐる流れの真ん中にいて、ゴイムの虐殺や北の問題に深く関わっているのだ。何も知らなかったでは許されない。自分を許せるはずがない。


 力の抜けた体を、メドラウトが支える。その力を一心に感じながらも身動きができず、エテルは出て行くアマダスをそのまま見送ることしかできなかった。その背中を追いかけるようにラシュクーレの悲鳴のような声が響いて、いたたまれなくなる。
 

 全てを打ち砕かれたような絶望と自責の念に挟まれて、身動きがとれなくなるようだ。間接的にとはいえ、いったい何人の命を奪ったのだろう。考えるだけで身震いがする。
 

 けれど、けれど……そこまで自分を責めても、――謝れない。犠牲になった人々に、頭を下げることは、どうしてもできなかった。

 だって、それが、エテルが選んだ道だ。かつて自分の身に起こったこと、両親の身勝手とも言える願い、そして弟のこと。それらを考えて、赤軍に入った理由を考えると――どうしても、赤軍を抜けるという選択肢は、ない、のだ。

 どんなに責められても、どんな犠牲を民に強いようとも。エテルは決意している。もう家族のような人間を出さないと。現在進行形で家族のような犠牲者を出していたとしても、それをフリドがわかったうえで背負うというのならば、同志として背負おう。彼だけに背負わせるのではなく、自分も背負う。


 自分の中で矛盾が発生していることは承知している。だが、綺麗事だけで物事は進まない。犠牲を伴わない革命はなく、今の政治は破綻しているに等しい。それを変えられるのは、フリドしかいない、と思う。だから、ついていきたいと。

 すべての人が平等な世界――は難しいかも知れないけれど、持たざる者が持てる世界を、持つことを躊躇しなくてもよい世界を、エテルはフリドの考えを通して感じた。

 ならば、エテルが進むべき道は、フリドの右腕――アマダスを追いかけ、赤軍として動くこと。


 エテルは落ちたヴェールを拾ってもう一度かぶる。そして、ずっと支えてくれていたメドラウトへと向き直った。心配そうな表情と強く支えるようにまわされた腕に、どれだけ安心してきたことだろう。

 メドラウトは自分の味方だと言い切ってくれた。所属も何も関係なく、エテルの騎士であると。エテルもそれに支えられてここまでこれた。
 だが、この先は戦争だ。そしてエテルが赤軍として参加する以上、戦いは避けられず、死の危険がともなう。そこまでメドラウトに付き合わせていいのか。

 いや、違う。いろいろ考えてはいるが、要は危険な目に遭って欲しくないのだ。大切な人を守りたいという、陳腐だけどゆずれない思い。

 ここまで支えてきてくれた大事な、とても大好きな人。不貞が嫌いで、いつだって物事に真摯に向き合ってくれていた彼を、失いたくないと思う。それが自分の都合に過ぎないことは分かっているし、もしかしたらエテルが関わっていないところで命を落とす可能性があるかもしれない。だが、巻き込まれた結果死んだ、ということだけは絶対に嫌だった。

 エテルは彼の首に腕を回し、ぎゅっと抱きつく。一瞬のメドラウトの体温をしっかり感じ、そして離れた。これで最後かも知れないと思うと寂しいけれど、それでも巻き込んで死なせてしまうよりは、ずっといい。もう、大切に思ってくれている人をなくしたくない。

 突然の行動にメドラウトが怪訝そうにエテルを見る。金色に近い琥珀色の瞳が、瞬く。


「エテル……?」
「アナム、私……ここからはひとりで行く。赤軍としてアマダスさんに追従する。そこに赤軍じゃないあなたを巻き込むわけにはいかない……。だから、私たちの旅はここでおしまい。ついてきてくれて本当にありがとう。――そして、ごめんなさい」


 開かれた扉の向こう。その先に待ち受けているのはなんだろうか。武者震いか、それとも別の何かか、身震いする身体を押しとどめて、歩みだす。

 ふわりと、再びヴェールが落ちたことには、気付かなかった。
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