第16章 デミアン
あなた方の間の戦いや争いは、どこから来るのですか。他の誰でもない、あなた方の中で相争う欲望からではありませんか。あなた方は欲しがるが、手に入れることが出来ません。そこで人を殺します。
また熱望するが得ることが出来ません。そこで争ったり戦ったりするのです。あなた方が得られないのは求めないからです。求めても与えられないのは、自分の欲望を満足させる為に使おうとして悪い動機を求めるからです。
神を捨てた人々よ、この世への愛着は神の敵である事を知らないのですか。この世の友になりたいと思うものは皆、自分を神の敵とするのです。
「神は高ぶる者に逆らい、遜る者に恵みをお与えになる」と言われています。ですから、神に従い、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去ります。神に近付きなさい。そうすれば、神もあなた方に近付いて下さいます。
罪人達よ、手を清めなさい。二心のある人々よ、心を清めなさい。悲しみなさい、嘆きなさい、泣きなさい。笑いを嘆きに変え、喜びを悲しみに変えなさい。
主の前に遜りなさい。そうすれば主はあなた方を高めて下さいます。
【ヤコブの手紙 第3章】
「この平原を越えればミルファスがいる中心街に辿り着く。……落ち着かないか、アルフォート」
「落ち着かないというよりはザワザワする感じだな。……不思議だな。やけに静かで凪いでると思えば次の瞬間には這いずる様に何かが蠢く。正直、寒いのか熱いのか、それも分かんねえ」
冬の間に立ち枯れたヒースとヘザーが薄い表土と砂の荒れ地を覆う。まだ冬の気配を含んだ寒風が頬を切るように流れて行った。それでもほとんど溶けた雪が季節が着実に進んでいる事を告げている。
「ふふっ……」
「……どうした、急に笑い出して」
「いや、何。前にも全く同じやり取りをした事があったな、って思っただけさ、刻。……親友と」
「……親友……ルフィールか」
「ああ、セデルも会ったことあるだろ?……友達だったんだ。あいつとは」
やけに干渉深い気持ちになるのは長い旅の終わりが近いからだろうか。最北に至るまでの長い長い旅路の終わりだ。
『……笑っちまうよな。アルも俺も自分で望んでここにいるのに。本懐を遂げる、あと少しまで来たのに。なのに手の震えが止まらないんだ』
『……俺は、革命の為なら命を賭けてもいいと、そう思っている。……そう思っている、はずなのに……』
「いつかあいつと同じような事を話した事があるんです。”革命の為なら命を賭けてもいい”、と」
それはもういつのことだったろうか。近くて遠い過去の記憶だ。王都での革命の前日、茜に染まる空の下で確かに俺達は語り合ったんだ。
『アルフォート君、ルフィール君、よく覚えておくといい。死んでもいいと思う事、死にたいと思う事、そして命を賭けるという事は似ているようだが……それは全く別物だ。そして、断言しよう。この石の下に眠る者達は誰一人として死にたいとは思っていなかった。誰一人としてだ。そして、私はそんな彼らが積み上げ作り上げてくれた石の道の先端にいる。立っている。彼らのおかげで私はここまで来ることができたんだ。……引き返したいと思った事がないかと問われれば嘘になる。だが、ここはそんな甘い場所ではない。今更後悔して何になる。知っていて歩んできた道だ。詫びてしまえば、悔やんでしまえばー……全てが閉ざされ水泡に帰すだろう。己を捨て大義の為の礎となる。その為なら私はどんなものでも奉げよう。どんなものでも捨てよう。……君達の様な若者が貧困に苦しまなくてもいい、皆が平等なそんな世界を、作りたいものだな』
あの日、フリードリヒが俺達に語った言葉が鮮やかに脳裏を過る。瞬間笑みが浮かんだのは懐かしさからだろうか。……ああ、今なら分かるさ。あんたが言う”石”が骨であったことが。あんたが本気でそう思っている事も。それを本気で行おうとしている事も。
「そこまでだ!!反逆者アルフォートとそれに組する者達よッ!!!」
「……ッ!!!お前は……!!!」
鋭い声が突如荒れ地に響いた。寒風に乗り飛んで来た一本の矢は俺が乗った馬の前数メートルの前の土に突き刺さる。聞いた事がある男の声に自分の奥歯が擦り合わさり不快な音を立てた。
アモン領との領土線付近に赤軍が集結しているという話は耳にしていたが、まさか既にこんな内地まで進軍していただなんて……!
「……生きていたのか、やはり。……まあ、そうだろうな。この島全土に散る赤軍関係者にお前の手配書は回っている。多額の懸賞金も掛かっている事だしな。討ち取られたとなれば必ず方が入るはずだ」
男の肩口で真っ直ぐ切り揃えられた黒髪が風に揺れる。冷たく響く低い声に反比例するように、俺の身体は熱を帯び左胸は早鐘を刻んだ。
「……アルフォート!今一度お前に問う!全てを諦め投降しろ!分かるはずだ、今のお前ならば!!お前が考える理想などどこにもない!!我々と離れて旅をしてその旅路でお前は何を見た!?お前が希望した道はあったか!?その光明はあったか!?全てを救えると今でも本気で考えているのか!?」
「……見くびるな!!俺はそこまで傲慢じゃない!」
……ああ、分かるさ。全てを救う事は不可能だ。手で水を掬えば必ず掬いきれない水が零れ落ちるように、掬いきれない者は必ず出てきてしまう。だが……ッ!!!
「フリードリヒはあの時俺にこう言った。己を捨てて大義の為の礎になる、と。その為ならばどんなものでも奉げる、と。ああ、それが本当に大義だとしたらあいつが言った事は正しい。あいつ自身が礎になるならそれは酷く自己犠牲的な志だ。だが、あいつが掲げた大義は本当に大義であると言えるのか!?礎になっているのはあいつじゃない、民じゃないか!弱者を貶め、民衆を積み上げた骨として踏み躙るあいつのどこに大義があるってんだ!!!!」
あいつは言った。貧困に苦しまなくてもいい、皆が平等な世界を作る、と。だが、実際はどうだ?苦しんでいるのは他の誰でもない。あいつが守ると言った民衆そのものだ。
「物事は全て正しい道を歩むからこそ意味がある!!フリードリヒが選んだ道は王道ではない……覇道だ!!!」
「……決裂、だな。我々に迎合しないと分かった以上、お前達を生かしておくわけにはいかない。……お前達は知り過ぎた。お前達はこの国を乱す腫瘍だ!」
「……だそうだ。覚悟は決まったか、刻?」
「ああ。こうなる事はお前達について行くと決めた時から覚悟はしていな。……敵中突破するしかないだろう。俺達のうち一人、生きてここを突破できればそれでいい」
馬の手綱を握り、鐙を強く踏む。たった三人でこの人数と戦う事は出来ない。ならばとれる選択肢はただ一つだ。
革命の為に命を賭けても惜しくはない。その言葉に嘘はない。だが……こんな時にルマンドの泣き顔や怒鳴り顔が浮かんでしまうのは、あいつがそれだけ俺にとって大事な位置にいるってこと……なんだろうな。
「走れッ!!!!!!!」
怒鳴るように声を上げた。三人それぞれバラバラに馬を走らせる。上がる土煙が視界を覆った。矢の雨が降る。それをかわしながらただただ前に向かって走り抜けた。結果は見えている。それでもその見えている結果に屈したくはなかった。一人でいい!!一人でいいんだ!!!……奇跡よ、起きてくれッ!!!!!
「なっ……」
祈りにも似た思いを呟いた、その時だった。大きな爆発音が平原に轟いたのは。火薬特有の焦げた臭気が鼻を刺す。爆発の余波で抉れた土が黒煙の中舞い散っていた。
「……悪い悪い。ミルファス姉さんの妹のハルモニア、って言ったかな?あの人からの要請で急いで駆け付けたつもりだったんだけどさ、少しばかり遅かったみたいだ。ん?でもこれはギリギリセーフか??」
「あっ……あんたは……それにあんたの後ろの軍は……」
「あっ、俺?それの名前はアルカイド。アルカイド・ハイン・マインシュタインって言うんだ。で、こっちの人は―……」
戦場には不釣り合いな少し間延びした声で名を名乗ると、身なりのいいその男は口角を悪戯に上げた。予想をしなかった展開に数瞬、思考が固まる。軍を率いてやって来たこいつは……一体……
「アルカイド様、話は後で。そちらの人もまだ終わっていませんよ。……フーベルやアルベル側同様、我々も動かなくては」
「そうだなー、んじゃ、キャロルの言う通り紹介は後でだ。赤軍に攻撃を受けていたって事はあんたは赤軍じゃないだろうしな。俺達の目的もこの領土からの赤軍の排除だし……まっ、よろしくな!!」
≪アルフォート≫
