第16章 デミアン
さて、御子はこの人々の群れを見て山にお登りになった。そして腰を下ろされると弟子達が近寄って来た。御子は口を開き、そして彼らに教えられ始めた。
「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人達のものである。悲しむ人は幸いである。その人達は慰められる。柔和な人は幸いである。その人達は地を受け継ぐ」
「義に飢え渇く人は幸いである。その人達は満たされる。憐れみ深い人は幸いである。その人達は憐れみを受ける。心の清い人は幸いである。その人達は神を見る。平和をもたらす人は幸いである。その人達は神の子と呼ばれる。義の為に迫害されている人は幸いである。天の国はその人達のものである」
「私の為に人々があなた方を罵り、迫害し、またありとあらゆる謂れのない悪口をあなた方に浴びせる時、あなた方は幸いである。喜び踊れ。天におけるあなた方の報いは大きいからである。あなた方より前の預言者達も同じように迫害されたのである」
【マタイによる福音書 第5章】
ガタリガタリと音を立てて木製の雨戸が揺れる。この時期にしては冷たい北からの風に窓が悲鳴を上げていた。北からの冷たい空気がもたらす大気の乱れが嵐となりこの街の周囲で荒れ狂う。明日の朝まで荒れた天気は続くのだろうかと、揺れる窓を見つめ一人気を沈める。
……今日この教会であの二人を保護できてよかった。数時間遅ければこの嵐に二人で巻き込まれていた事でしょう。
「……何、さして珍しい事でもないさ。冬の終わりと春の始まりの時期に天候が荒れることはままある事だからね。時代の転換期と同じさ。今まで居座ってた冷たい寒気と南からせり上がって来た暖気とがお互いぶつかり合い喰いあって……そして一歩、季節が進む」
ゆったりとした手摺りの付いた木製の椅子に深く腰掛けると、おじ様は両手を自分の膝の上で組みながら穏やかな表情で言葉を紡いだ。おじ様の背後でパチリッ……と微かな音を立てて乾燥した薪が爆ぜ、細かな灰となり散っていく。
「アガタ達は大丈夫でしょうか……北の救援活動に向かった皆様は―……」
「テレーズ。彼らには確かアローゼ領とアモン領との領土線は越えるな、と言ってあると言っていたね」
「え、ええ……あの領土線から先は純血主義の方々の土地ですから。救援活動に向かわれた方々の中には混血の方も多くいられます。むしろ混血の方が多いんです。何の宣言もなくその境界を越えるということは、宣言なき宣戦布告と捉えられても仕方がない事ですから。……スコルおじ様、おじ様もご存知かもしれませんが、あの地は今膨らみ過ぎた破裂寸前の風船のようなものなのです。僅かな針の刺激で容易に弾けてしまうような……」
俯き顔を下へと向ければ、自分の膝の上にある、先程おじ様が私に淹れてくださった紅茶の琥珀色の液面に酷く不安気な自身の表情が写り込んでいた。頼りなく眉を下げる事しか出来ない自分が少し嫌になる。
”私にできることで大きなことは何一つない。出来ることは小さなことだけ。小さなことを大きな愛を込めて行うだけ”
いつもは自分を奮い立たせてくれるはずの言葉が、やけに薄っぺらでそして無責任なものに聞えてならない。
「……テレーズ。テレーズ」
「はい……おじ様」
「手に持っている紅茶を飲み干すといい。その為に淹れたものだからね。……何かをして気を紛らわせるというのは思考をリセットするという意味では案外有効な手立てだ」
おじ様の視線と言葉に促されるまま、木製のカップを口元まで運び、温くなっていた中身を一気に流し込めば、おじ様がおっしゃられたように少し、ほんの少しだけ体が軽くなったような気がした。仄かに香草の香りがするから敢えておじ様がそう淹れてくれたのかもしれない。
……最もお茶を飲んだところで問題が解決するわけがないのだから、これはただ気を一時的に紛らわせる効果しかないけれど。長い、長い息が自分の唇から細くこぼれ出た。
「さて、少しは落ち着いたかい?……落ち着いたところで先程の君の質問に答えるが、領土線を越えていないのであればこの教会から派遣した救援隊は無事だろう。あそこは地の利が非常に悪い。野戦をするのには向いていないからね。……そうだな、私が戦をするならばその更に先の平原を選ぶだろう。あそこなら見通しもよく馬も走らせやすい。飛竜部隊が相手では空から狙われる可能性もあるが、飛竜部隊はしばらくはまともに動かせないだろう。指揮する者が狂っていては折角の大きな戦力も宝の持ち腐れだ。ふふっ……内と外と……見事な工作だ。戦は何も兵同士が斬り合うだけではないからね。既に始まっていたのさ」
「……スコルおじ様は随分楽しそうに語られるのですね……」
「おっと、これは失礼。顔に出ていたかい?」
おじ様の変わらない穏やかで低い声が鼓膜を揺する。いつも私の心に安らぎを与えてくれるはずの声は、今はただただ不安を煽る。
「……テレーズ。君は文明や時代を最大限に躍進させる起爆剤が何であるか……それを知っているかい?」
「文明の起爆剤……ですか?……すみません、おじ様。私には皆目見当が尽きません……」
「大陸ではそれを理由に車輪や石畳の道が発明された。それを理由に銅と錫を混ぜた青銅が誕生し、そしてさらに強度で勝る鉄の鋳造が発展した。火薬が生まれ、空気中の微量な”魔”を操る魔法が発展した。……文明を前へと進めるための起爆剤、それは”戦争”だ。過去に戦争がもたらしてくれた恩恵の中で私達は暮らしているんだ」
激しい雨が戸を叩く。暖炉に燃える炎が一際強く爆ぜた。僅か、ほんの僅かおじ様の口角が釣り上がったように見えたのは、影が私に見せた幻影だろうか。
「戦争を悪だと断じるのは容易い。だが、残念な事にそう簡単には割り切れない。それは何故か?戦争は悪ではなく政治の手段の一つであるからだ。戦争は必然的に政治の性格を担わねばならず、その規模は政治の尺度で測らねばならない。戦争の遂行は大筋において政治そのものだ」
身体が震えたのは季節外れの冬の嵐のせいだろうか……それとも見えない未来への不安がそうさせたのだろうか……
「時代が移り替わろうとしているんだ。ロッテ王とブルボン王の時代にそうだったように、ね。水は一箇所に留まればやがて腐敗する。卵の殻を自ら破ろうとしない雛は生まれる前に死んでいく。……時代も同じだ。移り変わろうとしている、ただそれだけのことなんだよ」
≪テレーズ・リジュー≫
「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人達のものである。悲しむ人は幸いである。その人達は慰められる。柔和な人は幸いである。その人達は地を受け継ぐ」
「義に飢え渇く人は幸いである。その人達は満たされる。憐れみ深い人は幸いである。その人達は憐れみを受ける。心の清い人は幸いである。その人達は神を見る。平和をもたらす人は幸いである。その人達は神の子と呼ばれる。義の為に迫害されている人は幸いである。天の国はその人達のものである」
「私の為に人々があなた方を罵り、迫害し、またありとあらゆる謂れのない悪口をあなた方に浴びせる時、あなた方は幸いである。喜び踊れ。天におけるあなた方の報いは大きいからである。あなた方より前の預言者達も同じように迫害されたのである」
【マタイによる福音書 第5章】
ガタリガタリと音を立てて木製の雨戸が揺れる。この時期にしては冷たい北からの風に窓が悲鳴を上げていた。北からの冷たい空気がもたらす大気の乱れが嵐となりこの街の周囲で荒れ狂う。明日の朝まで荒れた天気は続くのだろうかと、揺れる窓を見つめ一人気を沈める。
……今日この教会であの二人を保護できてよかった。数時間遅ければこの嵐に二人で巻き込まれていた事でしょう。
「……何、さして珍しい事でもないさ。冬の終わりと春の始まりの時期に天候が荒れることはままある事だからね。時代の転換期と同じさ。今まで居座ってた冷たい寒気と南からせり上がって来た暖気とがお互いぶつかり合い喰いあって……そして一歩、季節が進む」
ゆったりとした手摺りの付いた木製の椅子に深く腰掛けると、おじ様は両手を自分の膝の上で組みながら穏やかな表情で言葉を紡いだ。おじ様の背後でパチリッ……と微かな音を立てて乾燥した薪が爆ぜ、細かな灰となり散っていく。
「アガタ達は大丈夫でしょうか……北の救援活動に向かった皆様は―……」
「テレーズ。彼らには確かアローゼ領とアモン領との領土線は越えるな、と言ってあると言っていたね」
「え、ええ……あの領土線から先は純血主義の方々の土地ですから。救援活動に向かわれた方々の中には混血の方も多くいられます。むしろ混血の方が多いんです。何の宣言もなくその境界を越えるということは、宣言なき宣戦布告と捉えられても仕方がない事ですから。……スコルおじ様、おじ様もご存知かもしれませんが、あの地は今膨らみ過ぎた破裂寸前の風船のようなものなのです。僅かな針の刺激で容易に弾けてしまうような……」
俯き顔を下へと向ければ、自分の膝の上にある、先程おじ様が私に淹れてくださった紅茶の琥珀色の液面に酷く不安気な自身の表情が写り込んでいた。頼りなく眉を下げる事しか出来ない自分が少し嫌になる。
”私にできることで大きなことは何一つない。出来ることは小さなことだけ。小さなことを大きな愛を込めて行うだけ”
いつもは自分を奮い立たせてくれるはずの言葉が、やけに薄っぺらでそして無責任なものに聞えてならない。
「……テレーズ。テレーズ」
「はい……おじ様」
「手に持っている紅茶を飲み干すといい。その為に淹れたものだからね。……何かをして気を紛らわせるというのは思考をリセットするという意味では案外有効な手立てだ」
おじ様の視線と言葉に促されるまま、木製のカップを口元まで運び、温くなっていた中身を一気に流し込めば、おじ様がおっしゃられたように少し、ほんの少しだけ体が軽くなったような気がした。仄かに香草の香りがするから敢えておじ様がそう淹れてくれたのかもしれない。
……最もお茶を飲んだところで問題が解決するわけがないのだから、これはただ気を一時的に紛らわせる効果しかないけれど。長い、長い息が自分の唇から細くこぼれ出た。
「さて、少しは落ち着いたかい?……落ち着いたところで先程の君の質問に答えるが、領土線を越えていないのであればこの教会から派遣した救援隊は無事だろう。あそこは地の利が非常に悪い。野戦をするのには向いていないからね。……そうだな、私が戦をするならばその更に先の平原を選ぶだろう。あそこなら見通しもよく馬も走らせやすい。飛竜部隊が相手では空から狙われる可能性もあるが、飛竜部隊はしばらくはまともに動かせないだろう。指揮する者が狂っていては折角の大きな戦力も宝の持ち腐れだ。ふふっ……内と外と……見事な工作だ。戦は何も兵同士が斬り合うだけではないからね。既に始まっていたのさ」
「……スコルおじ様は随分楽しそうに語られるのですね……」
「おっと、これは失礼。顔に出ていたかい?」
おじ様の変わらない穏やかで低い声が鼓膜を揺する。いつも私の心に安らぎを与えてくれるはずの声は、今はただただ不安を煽る。
「……テレーズ。君は文明や時代を最大限に躍進させる起爆剤が何であるか……それを知っているかい?」
「文明の起爆剤……ですか?……すみません、おじ様。私には皆目見当が尽きません……」
「大陸ではそれを理由に車輪や石畳の道が発明された。それを理由に銅と錫を混ぜた青銅が誕生し、そしてさらに強度で勝る鉄の鋳造が発展した。火薬が生まれ、空気中の微量な”魔”を操る魔法が発展した。……文明を前へと進めるための起爆剤、それは”戦争”だ。過去に戦争がもたらしてくれた恩恵の中で私達は暮らしているんだ」
激しい雨が戸を叩く。暖炉に燃える炎が一際強く爆ぜた。僅か、ほんの僅かおじ様の口角が釣り上がったように見えたのは、影が私に見せた幻影だろうか。
「戦争を悪だと断じるのは容易い。だが、残念な事にそう簡単には割り切れない。それは何故か?戦争は悪ではなく政治の手段の一つであるからだ。戦争は必然的に政治の性格を担わねばならず、その規模は政治の尺度で測らねばならない。戦争の遂行は大筋において政治そのものだ」
身体が震えたのは季節外れの冬の嵐のせいだろうか……それとも見えない未来への不安がそうさせたのだろうか……
「時代が移り替わろうとしているんだ。ロッテ王とブルボン王の時代にそうだったように、ね。水は一箇所に留まればやがて腐敗する。卵の殻を自ら破ろうとしない雛は生まれる前に死んでいく。……時代も同じだ。移り変わろうとしている、ただそれだけのことなんだよ」
≪テレーズ・リジュー≫
