第16章 デミアン

では、どうなのでしょうか。私達は勝っているのでしょうか?けしてそうではありません。既にはっきり言った通り、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の元にあるのです。それは次のように書き記されている通りです。

「正しい人はいない、一人もいない。悟る者はいない、神を求める者もいない。皆、道を踏み外し、役に立たない者となった」

「善いことをする者はいない、一人としていない。彼らの喉は開いた墓、彼らは舌で欺く。唇には蝮の毒があり、口には呪いと苦さが満ちている。彼らの足は人の血を流そうと早く走り、その行く道には破壊と悲惨。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れはない」

さて、私達が承知しているように、律法の言うところは全て、律法の元にある人達に対して言われたのであり、全ての人の口が封じられ、全世界が神の裁きに服するようになる為です。

何故なら、律法に定められた事を行うだけでは人間は誰一人御前に義とされないからです。律法によっては罪の意識が生じるだけです。


【ローマの人々への手紙 第3章】






「……以上だ。同志フリードリヒは書状にあるように戦後の復興に協力を惜しまないと明言している。勿論、こちらが先程貴殿に提示したいくつかの条件を守っていただけるようであれば……だが」


「アローゼが現在所有している飛竜部隊の解体と飛竜の赤軍への譲渡、そして既存農地の農業集団化、か」


「ああ。富は一部の富裕層が全てを持つのではなく政府が一元で管理し、そして平等に民に再分配するべき、というのが我々の考えだ。不服というのであれば断ってもらっても構わない」


この時期にしては冷たい北風が朽ちかけた砦の隙間から入り込み、冷えた腕で頬に触れそして流れて行く。最北のこの地ではこの風はこの時期の常なのかもしれないが、ここよりも南方の出である自分にとっては酷く寒々しいもののように感じられた。


「……断る?貴殿は随分面白い事を仰る。元よりこちらに断らせる気など最初からないのだろう。もし仮に儂がここで断ったところで今度は貴殿たちの矛先がアローゼからこちらに向き変るだけだろうに」


白髪混じりの壮年の男はそう言葉を紡ぐと僅かに口角を釣り上げて真っ直ぐに俺の目を見据えた。その表情はこちらを嘲っているようにも、そして憐れんでいるようにも見える。


「……また妙な事を……我々に他意はない。この最北の地の平定と国家統一の為に必要なプロセスを順番に踏んでいるに過ぎない。……妙……妙と言えば、数か月前この地を中心に邪竜騒ぎがあったが……あれほど強力な”魔”を無数、どうやって御していたのか―……それについては我々も気になっていたところだ。あれほど強力な”魔道”を使ったのは誰か……」


「ふふっ……さあて誰だろうな。それにこちらも色々助けられた。赤軍のおかげだ。赤軍のおかげで色々やりやすくなったからな。世論はアローゼから離れつつある」


壮年の男の語気は変わらない。穏やかなままだ。だが―……


「アマダス様……」


「アマダス殿……」


今回の同行者として俺と共に行軍してきたラシュクーレとエリカも場に空気の異様さに気が付いたのだろう。それぞれ俺の名を呼ぶと固く口を真一文字に閉ざした。昼でも薄暗い砦に満ちる闇を沈黙が喰らっていく。

ダンタリオン家の当主の老いてなお剣呑な光を宿した瞳が俺を……いや、俺に後ろに控え立つ二人を順繰りに映す。細く長い息が薄く乾燥した唇から漏れた。


「……ほう。後ろの二人は貴殿の側近かと思っていたが……どうやら何も知らないままここまで来たようにお見受けするが?」


「何も―……何も知らないだと?失礼を承知で申し上げる、ダンタリオン卿。私達は全てを承知した上で今回の作戦に参加を―……」


「では、貴殿は知っていたというのか?貴殿も承知した上であの人道支援の皮を被った食糧封鎖作戦に参加したというのか?」


「な、なに……!?」


言葉が鋭い刃となり、一歩進み出たラシュクーレの影をその場で縫い付ける。螺子が切れたブリキのおもちゃのように立ち止まったラシュクーレと、彼女とは反対にカタカタと白い歯を震わせ始めたエリカを刹那横目で見つめ、俺は奥歯を強く噛み締めた。鏡がこの場にないので自分では確かめようがないが、今の自分は間違いなく苦虫を噛み潰したような表情をしている事だろう。

三者三様の反応の中、壮年の男は滑らかに唇を動かし、実に雄弁に言葉を紡いでいく。赤軍がただの人道支援の為に国境に陣を張る事に何の意味があるのか、と。人道支援なら教会も行っているではないか、と。なのに軍がするということは他にも意味があるということに他ならない、と。


「フリードリヒという男は実にしたたかな男だ。大衆の心理をよく理解している。民衆にとって最大の娯楽―……それは正義だということをあの男は知っている。大義や正義は宗教以上の麻薬だ。正義は人を容易に酔わせ、狂わせる。正義に酔うということは実に気持ちがいい。当然だ。自分は正しい事をしているのだから。だからあの男は大義を作り出す。持ち出す」


「憶測で物を語る事はお勧めしないぞ、ダンタリオン卿」


「憶測なものか。今、アローゼを追い込めばアローゼはこの領地の領民を守る為に他の領土へ侵攻せざる得ないだろう。侵略者になる以外道がなくなる。それを赤軍が潰し民衆の支持を得る。……そうやって貴殿たちはありもしない大義を作り出し世論を操ってきた。ゴイムの虐殺の時のようにな。……違うか、アマダス・メラン」


「あっ……」


「エテル!?おい、エテル!!?しっかりしろ!!!!」


不意に背後から生じた音に反射的に振り返れば、扉のすぐそばに今までここにはいなかったはずの同志の一人の姿があった。ぐったりと気を失うように倒れ込んだ彼女の身体を一人の見知らぬ騎士風の男が支え、そして必死に彼女の名を呼んでいる。はらり、と彼女の傍に彼女が普段から身に付けている薄いヴェールが落ちた。


「申し上げます、同志アマダス!!アルフォートです!!アルフォートが砦の近隣に現われました!!!」


「何!!?……あちらはこちらに気付いている様子だったか!?」


狭い、朽ちかけた砦に声が響く。壁際で燃える篝火が声に震えていた。


「いえ……ここに我々がいると気付いてはいないかと……アルフォートの他は一緒にいたのは二人の男だけです。……アマダス!?どこに!?」


「打って出る。我々も一個師団だが、あれらを潰すにはこの数でも十分だろう。奴がここに現れたということは目的はミルファスのはずだ。奴をこのまま野放しにするわけにはいかない。ここで決着をつける!指揮は俺が執る!……エリカ、お前はダンタリオン卿を砦から安全な場所まで脱出させるんだ!!……その後は……分かっているな?」


正しい人はいない、一人もいない。悟る者はいない、神を求める者もいない。皆、道を踏み外し、役に立たない者となった。

善いことをする者はいない、一人としていない。彼らの喉は開いた墓、彼らは舌で欺く。唇には蝮の毒があり、口には呪いと苦さが満ちている。彼らの足は人の血を流そうと早く走り、その行く道には破壊と悲惨。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れはない。


「待ってください!!アマダス殿!!!今の話は……今の話は本当なのですか!?答えて!答えてください!!!アマダス殿!!!!」


ラシュクーレの悲鳴に近い、縋るような悲痛な声が背中の向こう側で残響する。置き去りにするようにして暗い廊下へと足を踏み出した。

沈黙。それが俺の……解答だ。


≪アマダス・メラン≫
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