第16章 デミアン

従って、もはや互いを裁きあわないようにしましょう。むしろ、妨げになるものや躓きになるものを兄弟に対して置かないように決心なさい。

私は主に結ばれて知っており、確信しています。そのもの自体汚れたものは何一つありません。人が何かを汚れていると考えるなら、それはその人にとって汚れたものです。

あなたの食べ物の事で兄弟が心を痛めるなら、あなたはもはや愛の道を歩いてはいません。食べ物の事で兄弟を滅ぼしてはなりません。御子は彼の為に死なれたのです。

あなたは持っている確信を自分自身の為に神の前に持ち続けなさい。行おうと決心した事について、心に疑いを持たない人は幸いです。

疑いを持ちながら食べる人は、確信に基づいていないので罪に定められます。確信に基づいていない事は全て罪なのです。


【ローマの人々への手紙 第13章】






「……あに、兄上!?ベリル兄上がどうしてこの屋敷に……そ、それにそちらの女性は……!?」


「起き上がらなくてもいい、フルオライト。左腕の怪我に障る。……先日リチアから手紙が届いた。家を出た俺がこうやってここにいること自体禁忌に触れることだろうが―……手紙を読んでいてもたってもいられなくてな……」


部屋を薄明るく照らす燭台の焔が夜の闇の息吹に震える。浅い眠りの中、空気の流れの変化に気付いたのだろう。刹那まつ毛を震わせ目蓋の緞帳を持ち上げた弟を片手で制し、そのまま横たわっているようにと促した。


「……凍傷と骨折、か。一歩前違えれば腕が壊死をしていただろうに……随分無理な戦い方をしたようだな……」


「無理をしなければ押し切られていました。私の左腕一本で済んだと思えば安いものです」


「……安い、か……」


俺がアウラーナの屋敷を出る前よりも深く刻まれた眉間の間の谷。昨日今日で刻まれたわけではないそれに苦い笑みが思わず浮かんだ。今はすっかり癒えた自分の右腕を瞬間見つめ、息を吐き出す。コレーのおかげであの時の怪我は治ったが……同じことを考えたあたり、俺とフルオライトはやはり兄弟ということなのだろうか。


「大体のいきさつはリチアからの手紙で把握しているつもりだ。……俺は一度家を捨てた人間だ。こうしてあの子と連絡を取り合うのはあまり好ましくない事だろうが―……ことが事だ。どうやって俺の所在を知ったか今回は追及しない」


数カ月が経った今でも思い出せる。コレーが俺ではない者に攫われたあの日の事だ。いや、彼女を攫ったのは俺であってあの者達は彼女を連れ戻しに来たわけだが―……邪竜はやはりこの地にも襲来して来た、と妹の手紙には綴られていた。


「……そちらのご令嬢はダンタリオン家の者ですね」


ダンタリオン。弟が彼女の実父の名を紡ぐと同時に、隣に立つコレーの方が縦に鋭く跳ねた。繋いでいる手の平越しに伝わってくる震えに手を握り返すことで答えを返す。大丈夫。お前を咎める為に言ったわけではない。……心配するなと声に出す代わりに。


「無礼を承知であえて申し上げます。今回の騒動を裏で操っていたのは―……」


「ダンタリオン家の者、だろう。飛竜部隊であればアローゼが攻めて来たと考えるのが自然だが、件の竜は竜族ではない。邪竜だ。呪術で生み出された”魔”だ」


「……ご存じだったのですね……」


「ああ。彼女からも実家の話を色々聞いている。……コレー……もし話をこれ以上聞くのが辛い場合は部屋を出ていなさい。俺の妹が部屋の外にいるはずだ。あいつに言えば客室に案内してくれるだろうからそこで待っていてもいい」


どんなに冷遇されようが、今までどんな仕打ちを受けてこようが、それでもあの男が彼女にとってただ一人の父親であるという事実は変わらない。血の繋がりというものはそういうものだ。祝福にもなれば呪いにもなる。そしてそれを切るのは容易い事ではない。

……そう、たった一人の父親なんだ。その唯一の存在を今から彼女と血の繋がりのない自分が糾弾する。聞いていてけして気分がいいものではない。


「大丈夫です、ベリル様。それに私は聞かねばならないのです。知らねばならないのです。私には義務があります。権利があります。ダンタリオンの血を引く者として」


アウラーナの瞳とは違う青の瞳に宿っているのは揺らぐ光だった。迷いはあるだろう。だが、それでもなお真実を知ろうとしている者の瞳のように自分には見えた。


「……今回の邪竜騒動と北の動乱……おそらくそれは無関係ではなく相関している。今はアローゼが北を治めているが、アローゼには敵も多い。そして、アローゼが失脚した時、次の領主として最も有力な地位にいるのはダンタリオンだ。……お前もそう考えたからこそ邪竜が襲撃する前にこの屋敷を訪れた者に書状を託したのだろう?中身は和平の申し入れ、といったところか?」


「はい。それにもう一つ。赤軍がモロクが治めるアモン領とアローゼとの国境付近に陣を張っているということを兄上はご存じでしたか?」


「いや……それは初耳だが―……」


「表向きはアローゼ領から逃げ出してきた難民救助のための出陣ということになっています。実際その通り人命救助の為に働いている者もいるでしょう。だが、全てがそうではない。むしろそれは隠れ蓑だ。兄上、赤軍の真の目的は”人工的な飢饉”です。アローゼ領に入るにはアウラーナかアモン領を通っていく必要があります。そしてアウラーナとは違いアモン側はあまり雪が降らない。実際、アローゼに流れる物資のほとんどはアモン側を通る」


「馬鹿な……ッ!?そんな事をしたら多くの餓死者が出るぞ!!?もしそうなれば追い込まれたアローゼは領民の為に他の領地へ攻め込まざるを得なくなる!!!……まさか……」


沈黙が降る。時間にしたら数秒のことだろう。だが、粘つく時は実際の時間以上に、沈黙をこの場に縫い付けていた。



「……そのまさかですよ。アローゼが他の領地へ侵攻したが最後、それを大義として掲げ赤軍が治安維持目的の戦争を仕掛ける事でしょう。飛竜部隊を有するアローゼは今の臨時政府にとって大きな軍事障害の一つだ。そして、ダンタリオン家と赤軍はアローゼ排斥という利害が一致している。内と外と……両方から揺さぶりをかけたんですよ、フリードリヒは。間違いなくダンタリオン家と赤軍は通じ合っている。……兄上、どうかこの屋敷に戻って来てはくれないでしょうか?私はしばらくは政を出来る体ではありません。今アウラーナが弱体化するわけにはいかないのです」


「……し、しかし、俺は政敵の娘を攫いに行くために家を捨てたような男だ。名をアウラーナから抹消する覚悟で家を出た。その俺がどうして今更おめおめと戻って来ることが出来る?」


「……父上からも言伝を預かっています。兄上がこの屋敷に戻って来たら伝えろと申し付かった言伝です。『いいからお前がやれ。残れ。いつまで弟に鉛の十字を背負わせておくつもりだ、貴様は?』……との事です」


今この場にいないはずの父の声がやけに清明に脳に響く。自分がここに戻って来ることを、あの人はお見通しだったということか……我が父ながら食えないお人だ。


「兄上」


弟の自分と同じ色をした瞳が俺の姿を真っ直ぐにとらえる。昔と変わらない。だが、少し翳って見えたのは、やはり弟が床に伏しているからに他ならなかった。……重い、領主という名前の鉛の十字をフルオライトに背負わせたのは、俺だ。長い、長い息を肺から絞り出すように吐き出した。


「……分かった。だが、名代としてだ。お前の身体が治るまでの間だ。その間は俺が責務を引き受けよう」


今は乱世の只中だ。弱者は強者に喰われ飲み込まれる。そんな時代だ。


「だから、お前は休め。……今まですまなかった、フルオライト」


この時代で無力でいることは、許されない。強くなければ何も、守れない。なら俺も覚悟を決めよう。


《ベリル・M・アウラーナ》
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