第16章 デミアン
御子は他の喩えを示して仰せになった。「天の国は一粒の芥子種に似ている。ある人がそれを取って畑に蒔いた。それはどんな種よりも小さいが、生長するとどんな野菜よりも大きくなり、そして空の鳥が来てその枝に巣を作るほどの木になる」
御子は人々に他の喩えを語られた。「天の国はパン種に似ている。女がそれを取って三サントの小麦粉の中に混ぜるとやがて全体が発酵する」
御子はこれらの事全て喩えを用いて群衆に語り、喩えを用いずには何もお話にならなかった。これは預言者を通して語られた事が成就する為である。
「私は口を開いて喩えを語り、世の初めから隠されている事を告げる」
【マタイによる福音書 第13章】
一片、赤い花によく似た紅葉の葉が池の水面に落ちる。晩秋の風を頬に感じながらその日、私は巡る季節を見送っていたように思う。
いつもと同じようにただ庭を巡る季節を見送るのではなく、思考を巡らせながら風の調べに瞳を閉じた。私の心は水面と同じようにさざなみ揺れる。これからお会いする方の事を考え、そしてその先を想うとどうしようもなく心が騒めいていたのです。
とと様からこのお話をお伺いしたのはもう一月前の、まだ紅葉の葉が色付く前の事で、その話に息が止まるかと思うほど驚いた事をよく覚えている。大事な話があると前もって知らされてはいたけれど、その大事な事というのがあき自身の縁談だと、どうしてこの時予想できたでしょうか?
縁を結ぶ事に不満は一つもありませんでした。何故なら、とと様とかか様もそうだったと、以前かか様からお聞きしていたからです。ややの時からずっと私は二人の仲睦まじい様子を見て育ってきましたし、それに何より―……大きな憧れがあったのです。
かか様のようにお顔だけではなく心まで美しい女性になり素敵な男性と出会い、そしてその方のところにいつか嫁ぎたい、と。
私に不満はありません。ですが、私のお相手にと選ばれてしまった方はどうでしょうか?とと様が仰るにはお相手の方はあきよりも年は上とのこと。その方が私の姿を見てどう感じるでしょうか?どう思うでしょうか?
私はかか様と違い未成熟で未発達の女童。髪こそ尼そぎの長さよりは伸びましたが、それでもまだまだ未熟な子供。相手に対する不満はないのに不安の棘が左胸に刺さり抜けないでいるのです。
相手が女童の私でがっかりさせてしまわないだろうか。失望させ、大きく肩を落とさせてしまわないだろうか。一度悪い方向へ走り出してしまった思考を止めることは難しく、両膝の上で重ねた手を強く握る事で何とか歯止めを掛ける。刻一刻と約束の時間が近付いて行く。
……自分が女童であるという事実は今更覆せない。ならば―……
「失礼いたします。……貴女は―……」
「大谷あきと申します。村正様」
三つ指を前で揃え深々と頭を垂らし、その方の名を紡ぐ。礼を終えると同時に背筋を真っ直ぐ伸ばし前を向いた。
今の自分はどう繕っても大人にはなれない。ならば、せめて前を向いていたい。背筋を伸ばし、姿勢を正し、わざわざ私に会いに来て下さったこの方に礼を尽くしたい。礼を尽くす事に大人も子供も関係ないと、そう思うから。
村正様の長く美しい黒髪がさらりと動く。一片、赤く色付いた紅葉の葉が二人の前にはらりと舞い落ちた。
トクリ、と高鳴る鼓動が胸に刺さった棘を溶かしていく。頬が上気したように熱く感じるのは、私の心の中に一粒、芥子種が落ちたせい。
++++++++++++++++++++
六花の花弁が厚い鉛色をした雲の間から落ちる。赤や青、黄色のような艶やかさはないけれど、鉛色をした雲から落ちてくる氷の花の色はやはり一番白が栄えると思うのです。
踏んだ新雪が心地良い音を立てる。徐々に積もってきているけれど寒さを感じずに済んでいるのは、村正様が肩に掛けて下さった柔らかで温かなストールがあきの事を包んでくれているからに他ならなかった。
村正様が先程付けて下さった赤い芍薬の髪飾りがシャラリ、と微か耳の傍で鳴る。何の変哲もないただの音だったかもしれない。けれど、私にとってその音は西方浄土からの音のように聞こえたのです。
「私はあき殿をお慕いしております……優しく聡明で……私には勿体ない。私は貴女をこれからもずっとお守りしたい。御身だけではありません……貴女の御心もお守りしたい……。いずれ私の元へお迎えするその時まで貴女との愛を大切に育みたいのです」
「……村正様、あきは村正様から見れば女童も同然かと思います。それでも……それでも待っていてくださいますか?あきが大人になるまで……」
「お待ちできます……いくらでも私は待てます。決して無体は働かないと誓います。私はまだまだ未熟者ですが……貴女を守れるような強い男になります。貴女にふさわしい男になれるまで精進いたします。だから……あき殿……これからも貴女を守らせてください。私の大切な婚約者殿……私のただ一人の姫君……」
軽い口付けが額に落ちた。六花の花弁よりも軽く、白鳥の羽根よりもあたたかな口付けが額に落ちる。逞しい村正様の両腕に抱かれて、あの日私の左胸に芽吹いた芥子種が育って行く。恵みの雨を受けたように。
「今この時だけは…お許しください。どうしても貴女に私の想いを伝えたいのです……。お慕いしております。あき殿……我が姫……」
そっと村正様の衣を握り、手繰るように自分側へと引き寄せた。女の身である私からこれをする事を貴方ははしたない事と思うかもしれない。失望させてしまうかもしれない。……それでも……それでもあきは触れたいのです。貴方が想いを伝えて下さったようにあきも村正様に私の想いをお伝えしたい。
唇から唇へと体温が移り混じっていく。体温と同じように私の想い全てもこの方にお伝えできればいいのに……
おままごとの恋だと人は笑うかもしれません。お相手に対してではなく恋に恋をしている子供だと言われてしまうかもしれない。それでも……私は……あきは……芽吹き育つ想いを嘘だと思いたくないのです。とと様とは違う想いを私に抱かせて下さった貴方に対する想いを軽いものだと思いたくない。
「……お慕い申し上げております、村正様。どうか、どうか私を貴方のおそばにおいてください……貴方の腕の中にいさせてください」
天の国は一粒の芥子種に似ている。ある人がそれを取って畑に蒔いた。それはどんな種よりも小さいが、生長するとどんな野菜よりも大きくなり、そして空の鳥が来てその枝に巣を作るほどの木になる。
一度芽吹いてしまった芽を種に戻す術を……私は知らないのです。
≪大谷あき≫
御子は人々に他の喩えを語られた。「天の国はパン種に似ている。女がそれを取って三サントの小麦粉の中に混ぜるとやがて全体が発酵する」
御子はこれらの事全て喩えを用いて群衆に語り、喩えを用いずには何もお話にならなかった。これは預言者を通して語られた事が成就する為である。
「私は口を開いて喩えを語り、世の初めから隠されている事を告げる」
【マタイによる福音書 第13章】
一片、赤い花によく似た紅葉の葉が池の水面に落ちる。晩秋の風を頬に感じながらその日、私は巡る季節を見送っていたように思う。
いつもと同じようにただ庭を巡る季節を見送るのではなく、思考を巡らせながら風の調べに瞳を閉じた。私の心は水面と同じようにさざなみ揺れる。これからお会いする方の事を考え、そしてその先を想うとどうしようもなく心が騒めいていたのです。
とと様からこのお話をお伺いしたのはもう一月前の、まだ紅葉の葉が色付く前の事で、その話に息が止まるかと思うほど驚いた事をよく覚えている。大事な話があると前もって知らされてはいたけれど、その大事な事というのがあき自身の縁談だと、どうしてこの時予想できたでしょうか?
縁を結ぶ事に不満は一つもありませんでした。何故なら、とと様とかか様もそうだったと、以前かか様からお聞きしていたからです。ややの時からずっと私は二人の仲睦まじい様子を見て育ってきましたし、それに何より―……大きな憧れがあったのです。
かか様のようにお顔だけではなく心まで美しい女性になり素敵な男性と出会い、そしてその方のところにいつか嫁ぎたい、と。
私に不満はありません。ですが、私のお相手にと選ばれてしまった方はどうでしょうか?とと様が仰るにはお相手の方はあきよりも年は上とのこと。その方が私の姿を見てどう感じるでしょうか?どう思うでしょうか?
私はかか様と違い未成熟で未発達の女童。髪こそ尼そぎの長さよりは伸びましたが、それでもまだまだ未熟な子供。相手に対する不満はないのに不安の棘が左胸に刺さり抜けないでいるのです。
相手が女童の私でがっかりさせてしまわないだろうか。失望させ、大きく肩を落とさせてしまわないだろうか。一度悪い方向へ走り出してしまった思考を止めることは難しく、両膝の上で重ねた手を強く握る事で何とか歯止めを掛ける。刻一刻と約束の時間が近付いて行く。
……自分が女童であるという事実は今更覆せない。ならば―……
「失礼いたします。……貴女は―……」
「大谷あきと申します。村正様」
三つ指を前で揃え深々と頭を垂らし、その方の名を紡ぐ。礼を終えると同時に背筋を真っ直ぐ伸ばし前を向いた。
今の自分はどう繕っても大人にはなれない。ならば、せめて前を向いていたい。背筋を伸ばし、姿勢を正し、わざわざ私に会いに来て下さったこの方に礼を尽くしたい。礼を尽くす事に大人も子供も関係ないと、そう思うから。
村正様の長く美しい黒髪がさらりと動く。一片、赤く色付いた紅葉の葉が二人の前にはらりと舞い落ちた。
トクリ、と高鳴る鼓動が胸に刺さった棘を溶かしていく。頬が上気したように熱く感じるのは、私の心の中に一粒、芥子種が落ちたせい。
++++++++++++++++++++
六花の花弁が厚い鉛色をした雲の間から落ちる。赤や青、黄色のような艶やかさはないけれど、鉛色をした雲から落ちてくる氷の花の色はやはり一番白が栄えると思うのです。
踏んだ新雪が心地良い音を立てる。徐々に積もってきているけれど寒さを感じずに済んでいるのは、村正様が肩に掛けて下さった柔らかで温かなストールがあきの事を包んでくれているからに他ならなかった。
村正様が先程付けて下さった赤い芍薬の髪飾りがシャラリ、と微か耳の傍で鳴る。何の変哲もないただの音だったかもしれない。けれど、私にとってその音は西方浄土からの音のように聞こえたのです。
「私はあき殿をお慕いしております……優しく聡明で……私には勿体ない。私は貴女をこれからもずっとお守りしたい。御身だけではありません……貴女の御心もお守りしたい……。いずれ私の元へお迎えするその時まで貴女との愛を大切に育みたいのです」
「……村正様、あきは村正様から見れば女童も同然かと思います。それでも……それでも待っていてくださいますか?あきが大人になるまで……」
「お待ちできます……いくらでも私は待てます。決して無体は働かないと誓います。私はまだまだ未熟者ですが……貴女を守れるような強い男になります。貴女にふさわしい男になれるまで精進いたします。だから……あき殿……これからも貴女を守らせてください。私の大切な婚約者殿……私のただ一人の姫君……」
軽い口付けが額に落ちた。六花の花弁よりも軽く、白鳥の羽根よりもあたたかな口付けが額に落ちる。逞しい村正様の両腕に抱かれて、あの日私の左胸に芽吹いた芥子種が育って行く。恵みの雨を受けたように。
「今この時だけは…お許しください。どうしても貴女に私の想いを伝えたいのです……。お慕いしております。あき殿……我が姫……」
そっと村正様の衣を握り、手繰るように自分側へと引き寄せた。女の身である私からこれをする事を貴方ははしたない事と思うかもしれない。失望させてしまうかもしれない。……それでも……それでもあきは触れたいのです。貴方が想いを伝えて下さったようにあきも村正様に私の想いをお伝えしたい。
唇から唇へと体温が移り混じっていく。体温と同じように私の想い全てもこの方にお伝えできればいいのに……
おままごとの恋だと人は笑うかもしれません。お相手に対してではなく恋に恋をしている子供だと言われてしまうかもしれない。それでも……私は……あきは……芽吹き育つ想いを嘘だと思いたくないのです。とと様とは違う想いを私に抱かせて下さった貴方に対する想いを軽いものだと思いたくない。
「……お慕い申し上げております、村正様。どうか、どうか私を貴方のおそばにおいてください……貴方の腕の中にいさせてください」
天の国は一粒の芥子種に似ている。ある人がそれを取って畑に蒔いた。それはどんな種よりも小さいが、生長するとどんな野菜よりも大きくなり、そして空の鳥が来てその枝に巣を作るほどの木になる。
一度芽吹いてしまった芽を種に戻す術を……私は知らないのです。
≪大谷あき≫
