第16章 デミアン
兄弟の皆さん、あなた方は自由を得るために召されたのです。ただこの自由を罪を犯す足掛かりとして肉に与えず、愛を持って互いに仕えなさい。律法全体は「隣人を自分のように愛せよ」という一句を守る事によって果たされます。しかし、もし互いに嚙み合い、食い合っているとするなら、互いに滅ぼされないように気を付けなさい。
【ガラテアの人々への手紙 第5章】
「姉さん、起きて仕事なんかして……本当に大丈夫なの?」
「ええ。邪竜騒ぎが収まったとはいえまだその原因や出所は不明のままよ。この報告書によれば竜族が邪竜に転じるところを見たと証言した者もいるし、無から生じたと証言した者もいた。と、あるわ。証言に統一性がまるでないの。確かに分かっているのはこのアローゼ領で発生したという事だけ。ノイモーント卿が調査で動いてくれているという事だったけど……ハルは何か聞いていないかしら?」
夕間暮れの光が一条、仮住まいの簡素な部屋の奥まで細く差し込む。まもなく夜に飲まれようとしている憐れな昼の光は、音ない悲鳴を上げながら赤々と姉さんの長い金の髪を照らしていた。
姉さんが本宅の屋敷からこの秘密の場所に移ってもう数カ月になる。姉さんの居場所は極秘事項になっているからこの場所を知っているのは、隔離をする事に決めたエールリッヒさんや姉さんの主治医、そしてバムだけ。私は唯一の身内と言う事もあり特例で傍にいることを許されているけれど……限られた人間しかここには出入りできない。
姉さんが森で倒れた直後に比べれば幾分頬の血色は良くなって来てはいるけれど……それでも姉さんは今もやつれたまま。この領地に山積する問題が姉さんの体調の回復を妨げているのは、私の目から見ても明白だった。心労が身体を物理的に蝕んでいる。分かっていながら傍にいるだけで力になれない自分がとても歯痒かった。
「ノイモーントさん?うーん……確かにそっちも調べていたらしいですけど……もっと気になるものがあるらしくて……主にそっちに関して調べているみたいです」
「邪竜以外で気になること?……もしや、赤軍がついに領土線を越えてアローゼ領へ進軍してきたの!?それとも食糧封鎖で各地で飢饉が……」
プツリ、と静かに赤い林檎の皮が落ちていく。ベッドサイドの小さな木製のテーブルの上に剥きかけの林檎と小さな果物ナイフを一度置いて、私は姉さんと向かい合った。「姉さん、あのね……今は自分の身体を大事にして」と、そう続くはずだった私の声は、不意に響いたノック音にかき消され、生まれる前に消える。
「おや、ハルモニアさん?……今日もミルファスのお見舞いですか?」
「ノイモーントさん。それに軍の方も。……二人できたって事は姉さんに大事な話があるのね。もし機密のような大事な話を話すなら席、私は外した方がいいかな?」
先立ちのないよく見知った訪問者の名前を順番に呼ぶ。退室しようと立ち上がった私をエールリッヒさんは手でやんわりと制し、元の席へ座るようにと促した。
「いや、気遣いは無用だよ、ハルモニア。君にも聞きたい事があるしね。確か君は子供の頃からミルファスと一緒だったんだろう?」
「ええ、姉さんは一人っ子だったし私も一人っ子だったから……姉妹のように育ったわ」
「そうかい。なら、鏡はどうだい?今日持って来たこの鏡だ。この鏡は昔からアローゼの屋敷にあったかな?」
「鏡……?いいえ。それはなかったわ。断言できる。私達が子供の時にその鏡は姉さんの部屋にはなかった」
部屋を訪ねて来た二人の後ろにある”それ”に微かに姉さんの表情が動く。気のせいではない。確かに姉さんは今僅かに動揺を見せた。
「ノイモーント卿……それは……」
「ええ、そうですよ。貴方の屋敷の自室に飾られていた鏡です。少し気になる事があって調べさせていただきました。散々調べたのですが……結論から申し上げましょう。この鏡は―……」
「鏡は……?」
姉さんの薄い唇が言葉を紡ぐ。それと同時に鏡の中に移る鏡像の姉さんも言葉を紡いだ。……当然よね、鏡なんだもの。
「……ただの鏡です。残念ながら。強力な魔具なんじゃないかと期待していたのですが―……肩透かしを食らってしまいました。これ以上私の屋敷で調べても埒があきませんし、一度貴方にお返しいたします。ご安心を傷など付けていませんので。とは言え、貴方は今自由に動けるような身体ではありませんし、貴方の本宅に戻しておきますね」
「……そうか。お前のところにあったのか……その鏡は……道理で……」
「ええ、そうですよ。ミルファス」
ノイモーントさんの唇が細い三日月のような弧を描いて歪む。彼は面白いと感じた時、強く興味を惹かれた時にこういった怖い表情を見せることがある。私はそれを知っている。対照的に軍部の方はと言えば、剣呑な光を瞳に湛えて口を真一文字に閉ざし、事の成り行きを見守っているように私には見えた。
「そうそう。鏡を調べるついでに面白い文献も見つけました。……ミルファス、貴方はこの実験を知っていますか?『鏡の中に自分に対してお前は誰だ?と言い続ける』という実験です。実にシンプルだ。鏡の中に自分に問いかけるだけなのだから鏡さえあれば家で誰にでもできる。……さて、実験の結果をお話する前に考えを聞きましょうか。ミルファス、貴方はどう思いますか?この実験の結果何が被験者の身に起こると思いますか?」
「……そんな事……鏡に映るのは鏡像だ。それ以上でも以下でもない。意思も何もないただの像に他ならないのではないか?」
「ふふっ……では結論です。……狂うんですよ。発狂すると言われています。勿論、実験環境や個人差も強いでしょうが。ですが、被験者の中には”自分とは違う何かが鏡の中にいる”と認識するようになった者もいたようです。実に面白い話だと思いませんか?左右が反転しただけの意思ないただの鏡像が、自分とは違う意思を持った知らない人間のように見え、そして強い不安感と恐怖を感じるようになったんですから」
名残日が散っていく。濃い闇が支配し始めた空間で、ノイモーントさんが持って来た鏡だけが怪しい鈍色に煌めき、輝いていた。
「何故そのような事が起きるのか?これはゲシュタルト崩壊と呼ばれているものの一種ではないかと思われます。例えば、ハルモニアさんが持って来たこの赤い林檎をじっと見続けていると、そのうち『林檎というものはこんな形だったろうか?』と不思議になる瞬間がやって来ることがあります。それと同じ原理です。人間というのは普段は意識せずに様々な事を考える動物です。放っておいても無自覚に色々と紐付けをして考えてしまう。『対象をただ見る』という行為は普通にしていると起こらない。人は物を見た瞬間に連鎖的に考えてしまう生き物だからだ。……この実験は言葉そのものに意味があるのではなく、特定の言葉を指定する事で、本来であれば連鎖的に考えることを止めてしまう効果があるのではないかと考察できます」
「……連鎖的に考えることが出来なくなったら……どうなるんだい?」
「さっきも言った通りですよ。狂うんですよ。そもそも、ゲシュタルトとは部分と全体の関係性を意味する言葉です。自分に対してそれが崩壊するという事は自我が崩壊するのと同義です。さあて、ミルファス。……貴方は誰だ?」
空気が重く沈んでいく。ノイモーントさんだけがどこか楽し気な笑みを口元に湛えていた。
「ふふっ……すっかり日も沈んでしまった事ですし、私は今日はここで帰ります。ああ、鏡は貴方の屋敷の元の場所に戻しておきますのでご安心を。いいですね、”元の場所”ですよ?」
≪ハルモニア・コンコルディア≫
