第8章 安寧と不穏

Dans un rêve
橙色へ染まりゆく世界を眺める。角から漏れるように差し込む陽は、昼とは違った色で辺りを照らしていた。このような景色を見るのは、初めてだった。

男に腕を引っ張られ、目的もわからないまま足を動かしている。触られることは癪ではあったが、それ以上に景色に気をとられていたのだろう、私は。見たことのない世界が広がっている、これらは私があのとき……外へでたいと志願したときに、覚悟していたものだったのか。否、その断片的な一部でしかない。そうと頭ではわかっていながら、もう少し堪能していたいと思ったのも紛れのない事実だった。
「……綺麗なもんだろ。ここから見下ろす街ってのも。それともやっぱりお前の目には古びて廃れた街にしか見えないか?」
少し高台へ登ったところで、男が足を止めて口を開いた。目の前の建物は……教会だろう、独特の白の壁はすっかり己の色を染め、なお堂々としていた。煉瓦状の小道が続く道も、どこか遠くへ導くかのように見えた。
私はなおも黙ったままだった。私はこの男……名前も知らない男と、話したことはあれど何も知らないのだ。自己紹介なんて柄でもないのは態度とここしばらくの行動でわかっている。語ることなんて、とっくにないのだ。だから、こいつが何を思って私をここへ連れてきたのかは全く理解できない。
ふと、建物と建物のすきまから風が吹き、私が被るフードを揺らした。脱げたものの、この辺りは人もいない。平気だろうと、被り直すことはしなかった。
刹那、手を引っ張られた。どうやらこいつはまた私をどこかへ連れていってくれるらしい。何なのだ、前は散々私に訳もわからない疑問を飛ばしてきた男が、どうして私にここまで関わってくる?それに先程は無理やり腕を引っ張ってきただろう、お前は。どうして今度は、誰の許可を得たわけでもなく私の手を握る?
「綺麗なもんだ。あの灯り一つ一つを灯しているのは平民だ。貴族のあんたが薄汚いと軽蔑してる人間があんなに綺麗な灯りを灯して夜を払っている」
到着したのだろう、足が止まっている。下を向いていた頭を上げ、目の前の景色を見る。ふわふわと揺れている仄かな灯火が、黒を、夜を照らしている。先程まで身近に感じていた陽の代わりとばかりに、それは数を増していく。
「わざわざ私に……説教をする為にここまで連れて来たのか?」
「そんなんじゃねえよ。俺が見たいと思った。で、あんたにも見せたかっただけだ。独り占めするには勿体ないからな。誰でもいい。共有したかったんだよ」
貴族と平民。その壁を知らしめる為に言葉を漏らしたものだと思っていた。この男には、そういう節がある。生まれ育った血を憎む傾向がある。私がこれまで感じることもなかった、血に対する怒りを持っている。
「世界を変えたいとは思わない。そこまで傲慢になれなくなっちまった。ただ、一部の人間のせいで人々が苦しみ命を落としていく……それが許せない。そこに貴族も平民も関係ない。……あんたがどう思うから知らないけどな。ただ……」
「ただ……?」
「もしこの景色をあんたが少しでも綺麗だと今感じてるんなら、少なくともその部分だけは俺と同じだ」
だからこそ、私はこの男についてひとつの勘違いをしていた。重く語るそれは、世界の平和を望んだものなのだろう。私の周囲にいる腹の出た大人達は、口を揃えてこの男と同じようなことを論議していた。しかし、それとは全く違うものを感じ取った。
平民を切り捨て、貴族のみが生き残る。
奴らが話していた内容は、大雑把に言うとそういう内容だ。だが、平民であるこの男は、かつて私にこう言った。

「お前達の様な貴族と俺達の様な平民との間に一体何の違いがある?生まれ?家柄?それとも思想か?信仰か?……身分って、なんだ?」

平民ならではの考え方、と言ってしまえばそこまでだ。結局のところ、血なのだ。優秀な血と、劣った血。それだけなのだ。流れているものは同じなのに、同じ人間だというのに、違う。子は親を選べない、とはよく言ったものだ。
もしも隣にいる男と私の生まれが逆だとしたら、私は地を這ってもがき苦しんでいただろう。そしてこの男に頭を踏まれて生きていくのだろう。今の家に生まれて、たいへん光栄だと思う。では、私がこの命においてなり得なかった、今もなお地にもがく人間は?
仮定でしかない。が……こいつの思想は、そういった血の差別をなくすことなのではないか。私は、そう考えた。合っているとは思わない、思えない。ただ、理想を追うことを私は決して咎めたりしない。誰もが理想を追い、その道を進むものなのだから。私とて、例外ではない。
「……美味い、な。この芋は。冷えてもなお、美味い」
男が私へ放り投げた芋をかじる。まだほんのりと温かいそれを頬張りながら、私はゆっくりと口を開いた。
「景色に限ったことではない。肌で感じる芋の温かさ、この味。全て……お前と同じだ。私は、そう思う」
囚われた概念から、根本的に覆されたような気分だった。私とこの男は、何も変わらないのだ。人間というカテゴリにおいて、それ以外を必要としない。だから私は、この男の抱く思想を……少しだけ、追ってみたいと感じた。とはいえ、全ては私の仮定の元で成り立っている私自身の思想でしかない。この男がもしまだ私に口を開いて話すことがあるのならば、私は真摯に耳を傾けてみるとしよう。もしも私の思う答えではないとすれば、所詮はそこまでだったということだろう。心を開いたわけではないが、距離は開いたままだ。一方で、僅かにだが期待を覚えるのも事実だった。
「……夜となれば、やはり冷えるな」
肌を刺す寒さも、お前と同じなのだろうか。私はフードを被り直し、踵を返す。帰ろう、という意思表示でもあるが、歩けばきっと体も温まるだろう、そう考えたからでもある。お前に引っ張られなくとも、私は帰れる。道さえわかれば、の話だが。
「私の横を歩け。前を歩くことは許さん」
そう吐き捨てるように呟き、ゆっくりと足を進めた。
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